学位論文要旨



No 212611
著者(漢字) 戸石,薫
著者(英字)
著者(カナ) トイシ,カオル
標題(和) 黒潮周辺海域におけるマイワシの初期餌料環境に関する研究
標題(洋)
報告番号 212611
報告番号 乙12611
学位授与日 1995.12.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第12611号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 杉本,隆成
 東京大学 教授 沖山,宗雄
 東京大学 教授 寺崎,誠
 東京大学 助教授 中田,英昭
 東京大学 助教授 福代,康夫
内容要旨

 マイワシは数十年周期で大きな資源変動を示す.後期仔魚期初期における適質,適量の餌料との遭遇が加入を決定するというヨルトの仮説(Hjort,1914,1926)が提唱されて以来,浮魚類の初期餌料環境と仔魚期の生残について多くの研究がなされてきたが,近年,生活史初期の直接の死因は被食であることが明らかとなっている.被食は仔魚の成長速度と関係することが指摘されており,初期餌料環境がマイワシ仔魚の成長や栄養状態を通じて仔魚期の生残に影響を及ぼすと考えられているが推測の域を出ない.これまで,初期餌料環境の変動が日本マイワシの資源変動のメカニズムの主要因と考えられてきたが,その研究の大半は,主に黒潮流路型との対応性について論じた事実記載の域を出ず,メカニズムにせまったものはない.また,マイワシの主産卵場は資源量水準に伴って変化する(黒田,1991)ため,主産卵場の移動が仔魚の初期餌料環境を変化させ,資源変動に影響する可能性も考えられる.

 そこで,本研究では,東海〜関東沖の黒潮およびその周辺海域における現場観測と資料解析に基づいて,マイワシ仔魚の摂餌,成長,栄養状態に及ぼす初期餌料環境の空間的分布構造とその影響の定量的な解明を試みた.さらに,初期餌料環境の変動を,海域の初期餌料生産力の経年変動と産卵場の移動に伴う変動という二つの視点から分析し,マイワシ資源の変動に及ぼす初期餌料環境の変動の影響について考察した.研究成果の大要は以下の通りである.

1.初期餌料環境が仔魚の摂餌と栄養状態に及ぼす影響

 マイワシの主産卵期に黒潮およびその周辺海域で採集したマイワシ仔魚の消化管内容物の観察と核酸分析を行い,主要な初期餌料である小型橈脚類のノープリウスの生産が仔魚の摂餌および栄養状態や成長速度の指標である核酸比に及ぼす影響を明らかにした.

 1)消化管内容物重量の個体差は大きいが,消化管内にノープリウスあるいはコペポダイトを含む仔魚の消化管内容物数ならびに重量はこれらを含まない仔魚に比べて大きい.また,小型橈脚類現存量が高い海域で摂餌仔魚率が高い傾向にあり,初期餌料生産力が高い海域で仔魚が活発に摂餌していることが示唆された.

 2)マイワシ仔魚を全長により,7mm未満,7-8mm,8-9mm,9-10mmのサイズクラスに分けて核酸比を測定し,ノープリウス現存量および小型橈脚類生産力との関係を調べた結果,7mm未満のサイズクラスで核酸比と小型橈脚類生産力の間に明瞭な正の相関があることが明らかになり,初期餌料生産が仔魚の摂餌,栄養状態に影響していることを実証した.

2.東海〜関東沖の黒潮内側(沿岸)域における初期餌料環境の経年変動とその要因

 マイワシ資源の低水準期から増加開始期の主産卵場は黒潮内側域に形成されていた.東海〜関東沖の黒潮内側域におけるクロロフィルa濃度と大王埼,石廊埼,犬吠埼沖の観測線における小型橈脚類現存量密度の経年変動を明らかにし,初期餌料環境の変動とその変動要因を検討した.

 1)1981〜1991年3月の御前埼における平均風速ならびに全天日射量と,潮岬〜石廊埼沖の200m深13℃以下の冷水域における表層クロロフィルa濃度との間に相関関係を見いだした.この関係式を用いて,1966〜1991年の黒潮内側域における表層のクロロフィルa濃度の経年変動を求めたところ,マイワシ資源増加期にあたる1972〜1982年にクロロフィルa濃度が比較的高かった.また,島による擾乱や黒潮流路の変動に伴う局所的湧昇もクロロフィルa濃度の水準を上昇させる要因であることを示した.

 2)黒潮よりも沖合の外側域における小型橈脚類現存量密度の水準は黒潮内側域に比較して低くかつ安定している.遠州灘沖における黒潮の大蛇行(A型流路)が持続すると,黒潮内側域における小型橈脚類現存量は外側域と同水準に低下する.その原因として,A型流路持続時に発達する黒潮内側反流が沿岸性小型橈脚類の分布を制限することが考えられる.

 3)マイワシ資源の低水準期から増加開始期にあたる1970年代前半には,黒潮内側反流が未発達であったために,沿岸性小型橈脚類が内側域全域に分布を拡大するとともに,高い現存量水準にあった植物プランクトンを利用して活発にノープリウスの生産を行ったことが推察された.

3.黒潮フロント域における高い初期餌料生産の維持機構

 黒潮フロント域では,しばしば動植物プランクトンの濃密分布が観察される.マイワシの初期餌料生産が,黒潮のフロンタルエディや黒潮流路の移動に伴う局所的湧昇により維持されていることを観測から示した.

 1)遠州灘沖の黒潮の前線波動に伴う冷水渦域とそれをとりまく暖水域で,1993年3月の光条件が良いときにいずれも1gCm-2 day1以上の高い基礎生産力が実測された.Ikeda and Motoda(1978)に基づいて見積られた冷水渦域ならびに暖水域における植食性雑食性動物プランクトンによる餌料要求量は基礎生産力の1/4以下であったことから,その高い基礎生産力はフロント域におけるクロロフィルaの濃密分布の形成と維持に貢献する可能性があることを指摘した.

 2)フロント域で優占する小型橈脚類Paracalanus sp.の産卵活性および雌成体の核酸比とクロロフィルa濃度の間に見いだされた正の相関関係は,クロロフィルa濃度の増加に伴って短期間のうちに産卵活性が上昇することを示唆する.産卵活性と核酸比の間の相関関係から,Paracalanus sp.雌成体の核酸比は産卵活性の指標となることがわかった.

 3)1987年3〜4月に,石廊埼沖および大王埼沖で行った観測から,橈脚類ならびにParacalanus sp.雌成体の個体数のピークは黒潮フロント域と沿岸域に見られ,ノープリウスの密度はフロント域でしばしば20個体l-1以上,それよりも沖合で概ね10個l-1以下であった.また,フロント域で採集された雌成体の核酸比はそれよりも沖合の値に比べて平均1.4〜1.5倍高い値を示し,黒潮フロント域で初期餌料生産の高いことが実証された.

4.黒潮フロント域と外側域の初期餌料環境の比較

 1988年以降のマイワシ資源減少期には,主産卵場は関東〜東海沖の外側域に形成された.この主産卵場の沖合化が初期餌料環境に及ぼす影響を明らかにするために,1990年と1991年の3月にそれぞれ黒潮のフロント域と外側域における仔魚の濃密分布域に漂流系を投入し,約3日間,仔魚の餌料環境と栄養状態を追跡し,以下のことを見い出した.

 1)ノープリウスの現存量はフロント域で増加,外側域で減少傾向にあり,小型橈脚類の生産力はフロント域が外側域の7倍程度高かった.

 2)漂流系追跡期間中の仔魚の核酸比はフロント域に比べて外側域で有意に低く,成長の遅いことが示唆された.仔魚の平均体長の変化から見積られた見かけの成長速度は外側域で0.65mm day-1,フロント域で0.56mm day-1,と外側域で高く,外側域では成長速度の遅い小型仔魚の死亡率が高いことがわかった.

 3)仔魚の成長速度を0.6mm day-1,成長効率を0.3と仮定して見積られた仔魚の餌料要求量とIkeda and Motoda(1978)に基づいて見積られた肉食性メソ〜マクロ動物プランクトンの餌料要求量の総計はフロント域ではノープリウスを含む小型橈脚類生産力の11%であったが,外側域では136%に達した.このことから,黒潮フロント域から外側域への主産卵場の移動により,仔魚の初期餌料環境の悪化がもたらされたと考えられる.

5.マイワシの資源変動と初期餌料環境との関係

 既往のマイワシ産卵調査の資料の解析と上述の現場観測の結果から以下のことが推察された.

 1972〜1976年にマイワシ資源は低水準期から増加期へ転換した.黒潮流路や風速,日射量の影響を受けて変化する内側域の初期餌料生産がこの期間に高く,それが黒潮内側域で産卵された仔魚の成長や生残に好影響をもたらし,資源の低水準期から増加期への転換に貢献したものと考えられる.次いで,マイワシ資源の増大期には,黒潮フロント域に大量に分布したマイワシ仔魚がフロント域の高い餌料生産を利用しながら効率的に素餌海域に輸送された可能性が考えられる.さらに,1988年以降と1937年以降のマイワシ資源の減少期においては,仔魚の主分布域が外側域に形成されたため,外側域の低い初期餌料生産が資源減少の一要因になったものと考えられる.

 以上,本研究により,黒潮内側域,フロント域,外側域の各水域におけるマイワシの初期餌料環境の差異およびそれらの経年変動の特徴が明らかとなった.また,黒潮流路の変動や気候変動に伴う経年的な初期餌料環境の変動と,マイワシの資源量水準の変化に伴う産卵場の移動という二つの要因によって,仔魚が依存する水域の初期餌料環境の良否が変化し,これらがマイワシ資源の長期変動に大きく影響している可能性を示した.

審査要旨

 マイワシの資源量は過去の記録から50〜70年周期で大きく変動することが知られている。そのメカニズムとして、生活史初期の餌料環境の変動、資源量に依存する卵質変化(密度効果)、および、気候や海況の数年〜数10年周期の変動に伴う未成魚・成魚の餌料プランクトンの変動などの影響が考えられているが、まだ最終結論には至っていない。本論文は、主にマイワシ稚仔の生活史初期の成長速度や生残に関わる餌料プランクトンの種組成および量的変動とその影響を、関東・東海沖の黒潮とその沿岸域の現場観測および既往資料の解析に基いて明らかにしたものである。研究成果の大要は以下の通りである。

1.初期餌料環境が仔魚の摂餌と栄養状態に及ぼす影響

 マイワシの主産卵期に黒潮とその周辺海域で採集したマイワシ仔魚の消化管内物の観察と核酸分析を行い、マイワシ仔魚の栄養状態や成長速度の指標の核酸比が、主な餌料の小型かい脚類ノープリウスの生産力と比例することを示した。

2.黒潮内側(沿岸)域における初期餌料環境の経年変動とその要因

 東海〜関東沖の黒潮内側域のクロロフィルa濃度と小型かい脚類現存量密度の経年変動および変動要因を検討し、3月の御前崎における平均風速日射量と、潮岬〜石廊埼沖の200m深で13℃以下の冷水域における表層クロロフィルa濃度との間にはそれぞれ負および正の相関があること、また資源増加期の1970年代前半クロロフィルa濃度が高かったが、1970年代後半に遠州灘沖の黒潮大蛇行が持続すると、黒潮内側域の小型かい脚類現存量が外側域と同水準に低下することを示した。

3.黒潮フロント域における高い初期餌料生産の維持機構

 達州灘沖の黒潮の前線波動に伴う冷水渦とそれをとりまく暖水域において、3月の十分な光条件下で、植食性雑食性動物プランクトンによる飼料要求量の数倍高い基礎生産力が実測され、フロント域におけるクロロフィルaの濃密分布の形成維持に貫献している可能性が示された。また、フロント域で優占する小型かい脚類の産卵活性および雌成体の核酸比とクロロフィルa濃度の間に見いだされた正の相関性から、クロロフィルa濃度が増加すると短時間のうちに産卵活性が上昇することが示された。

4.黒潮フロント域と外側域の初期餌料環境の比較

 1988年以降のマイワシ資源減少期には、主産卵場は関東〜東海沖の外側域に形成された。この主産卵場の沖合化が初期餌料環境に及ぼす影響を明らかにするために、黒潮のフロント域と外側域における仔魚の濃密分布域に漂流系を投入し、約3日間、仔魚の餌料還境と栄養状態を追跡した。その結果、小型かい脚類の生産力はフロント域が外側域の数倍高く、仔魚の核酸比はフロント域に比べ外側域で有意に低く成長の遅いことが示唆された。しかし、仔魚の平均体長の変化から見積られた見かけの成長速度は、外側域で0.65mm/day、フロント域で0.56mm/day、と外側域で高く、外側域では成長速度の遅い小型仔魚の死亡率が高いことが示された。また、仔魚の成長速度を0.6mm/day、成長効率を0.3と仮定して見積った仔魚の餌料要求量とIkeda and Motoda(1978)の式から見積った肉食性メソ〜マクロ動物プランクトンの餌料要求量の総計は、フロント域ではノープリウスを含む小型かい脚類の生産力の11%であったが、外側域では136%に達しており、黒潮フロント域から外側域への主産卵場の移動による仔魚の初期餌料環境の悪化が示された。

5.マイワシの資源変動と初期餌料環境との関係

 黒潮流路や風速、日射量の影響で変化する黒潮内側域の初期餌料生産は、マイワシ資源が低水準期から増加期へ転換した1972〜1976年には高く、それが産卵された仔魚の成長や生残に好影響をもたらし、その後の資源増大期には、黒潮フロント域に大量に分布したマイワシ仔魚がフロント域の高い餌料生産を利用しながら効率的に索餌海域に輸送され、さらに1988年以降のマイワシ資源減少期においては、仔魚の主分布域が外側域に形成されたため、外側域の低い初期餌料生産が資源減少に寄与したことが推察された。

 これらの成果は、マイワシの生活史初期における栄養状態・成長と生残に関して、餌料プランクトンの種組成や生産量の、黒潮と沿岸域、沖合域の地理的差異、資源量に依存して変わる産卵場の位置、および、黒潮の蛇行や前線波動が初期生残に与える影響を解明することにおいて、大きな成果を収めたものと云える。よって、審査員一同は申請者に博士(農学)の学位を授与する価値があるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク