学位論文要旨



No 212616
著者(漢字) 岡本,研
著者(英字)
著者(カナ) オカモト,ケン
標題(和) 浜名湖におけるカンザシゴカイ類の分布と群居性に関する研究
標題(洋) Studies on the distribution of serpulid polychaetes in Hamana Bay and its gregarious settlement
報告番号 212616
報告番号 乙12616
学位授与日 1995.12.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第12616号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 日野,明徳
 東京大学 教授 清水,誠
 東京大学 教授 二村,義八朗
 東京大学 教授 伏谷,伸宏
 東京大学 助教授 黒倉,寿
内容要旨 内容

 付着生物は海中構造物に着生して群集を作る場合には汚損生物と呼ばれ,産業的な障害となる場合がある.付着生物の多くは着底後は生息場所の移動が不可能であるが,群居することで個体の生残や生殖などが保障されているものと考えられる.カンザシゴカイ類は海中の基盤表面に石灰質の棲管を分泌して着生する付着生物である.浜名湖の支湾,庄内湾湾奥部でもカニヤドリカンザシFicopomatus enigmaticusがしばしば大量発生し,塊状に付着する場合がある.その付着生態や好適環境条件,生活史などについて明らかにするために,庄内湾の環境特性と付着生物相,カンザシゴカイ類の成長,成熟,幼生の出現状況などについて調べ,大量発生に必要な条件を論議した.また付着生物の特性とも言える群居性をもたらす要因についても,化学生態学の観点から検討した.

1.浜名湖庄内湾の付着生物相

 カンザシゴカイ類の棲息環境:庄内湾の湾口から湾奥にかけて5定点を設け,1989年6月から1990年12月までの間,毎月1回各定点において付着基盤を浸漬して付着生物調査を行なうと同時に,環境要因として水温,塩分,溶存酸素,クロロフィル量などの定量を行った.湾奥部の環境は水温,塩分,溶存酸素,クロロフィル量などの変動が大きく,平均的な塩分も低いことから汽水性が強い内湾域の環境特性を示し,湾口部はむしろ沿岸域の環境で,湾奥部の環境に比較してより安定的な環境であることが示された.

 浸漬した付着基盤上に出現した付着生物相:付着生物相の調査は15cmx15cmのスレート板を1および3カ月間浸漬して行なった.付着生物相は藻類,カイメン類,多毛類,コケムシ類,二枚貝類,フジツボ類,ホヤ類から構成された.最も湾口に近い定点ではコウロエンカワヒバリガイ Limnoperna fortunei kikuchiiを除く全ての種類が出現したのに対し,湾奥部の3定点では付着生物相が貧弱で,特にカニヤドリカンザシFicopomatus enigmaticusが大量に付着する場合があった.

 3カ月間浸漬した基盤に付着した各生物について,出現場所と出現期間からユークリッド距離を求め最短距離法で作成したデンドログラムから,アミメコケムシの一種Membranipora sp.,カニヤドリカンザシFicopomatus enigmaticus,アメリカフジツボBalanus eburneus,タテジマフジツボBalanus amphitrite,コウロエンカワヒバリガイLimnoperna fortunei kikuchiiは,他の出現種からは出現場所,出現時期が区別され,汽水性が強い湾奥部に特徴的な種類であると考えられた.

 また同様のクラスター分析を出現場所と出現期間について,出現種のユークリッド距離を用いて行った結果,湾央〜湾奥の定点は湾口部の定点とは区別されたが,その違いは冬期の12月〜3月には小さくなった.

2.庄内湾におけるカンザシゴカイ類の分布

 付着生物群集中にカンザシゴカイ類は3種類,カニヤドリカンザシFicopomatus enigmaticus,エゾカサネカンザシHydroides ezoensis,ヤッコカンザシPomatoleios kraussiiが出現した.このうちカニヤドリカンザシFicopomatus enigmaticusは特に湾央から奥の定点で卓越し,1,3カ月間浸漬板とも被覆率が100%の場合があり,強い群居性を示した.またエゾカサネカンザシHydroides ezoensisは湾央から湾口部に出現が限られ,ヤッコカンザシPomatileios kraussiiは最も湾口に近い定点でのみ出現した.

 出現した3種のカンザシゴカイの低塩分に対する耐性実験では,塩分3あるいは10といった低塩分でも正常に棲息しえたのはカニヤドリカンザシFicopomatus enigmaticusのみであった.3種のカンザシゴカイの低塩分に対する耐性の違いが,汽水性が強い内湾域の環境特性を示す湾奥部でカニヤドリカンザシFicopomatus enigmaticusのみが優占するという,3種のカンザシゴカイのマクロな水平分布を決定しているものと考えられた.しかし湾奥部でのカニヤドリカンザシFicopomatus enigmaticusの大量発生機構については,環境要因側のみならず,成長や成熟といった生物的特性についても検討する必要があると考えられた.

3.庄内湾におけるカニヤドリカンザシFicopomatus enigmaticusの生活史

 成長:1991年6月末に湾奥部の定点にスライドガラスを浸漬し,付着したカニヤドリカンザシFicopomatus enigmaticusの殻長を個体別に1週間毎に計測した.その結果,殻長の伸長はS字状の曲線となり、Bertalanffyの成長曲線で近似が可能であった。また殻長と虫体長の間には,直線的な関係がみられた。

 成熟:1991年4月16日から一週間毎に塊状のカニヤドリカンザシFicopomatus enigmaticusを湾奥部から採集,固定後,5%酢酸中で脱灰し,虫体長と成熟度を調べた.4月中旬には半数の個体が未熟個体であったが,その後急激に成熟が進行し,5月には80%の個体が成熟個体となった.カニヤドリカンザシFicopomatus enigmaticusの幼生は受精後5〜6日で着底期のネクトキータ幼生となりうることから,この時期に産出された幼生が5〜6月に大量に付着したものと考えられた.また卵あるいは精子を有する最小形は雌6mm,雄8mmであったことから,本種は付着後1カ月以内に産卵可能となり,5〜6月に付着した個体は夏までには成熟し,秋の付着期には産卵群となりうることが示された.このような世代時間の短さが湾奥部におけるカニヤドリカンザシFicopomatus enigmaticusの大量発生の要因となっているものと考えられた.

 湾奥部におけるカンザシゴカイ類幼生の出現:1989年〜1990年に行った付着生物調査時に,表層の動物プランクトン中にカンザシゴカイ類のネクトキータ幼生と考えられる個体が出現した.湾奥部の定点では,カニヤドリカンザシFicopomatus enigmaticusの付着期とほぼ一致する4〜6月と9〜11月に,幼生が0.4個体/l程度出現した.フジツボ類の幼生の出現量に比較した場合,カンザシゴカイ類幼生の出現量は付着量と比べてはるかに少なく,カンザシゴカイ類の群居性を説明するためには,同種の幼生の着底を選択的に誘起する要因を想定する必要があると考えられた.

 カンザシゴカイ類幼生の発生:カニヤドリカンザシFicopomatus enigmaticusとエゾカサネカンザシHydroides ezoensisについて,人工受精によって得られた幼生に珪藻のChaetoceros calcitransを与え飼育を続けたところ,受精後5〜6日で3対の剛毛を有する着底期のネクトキータ幼生が出現した.通常の毎日の換水と投餌を続けた場合には幼生の着底・変態は観察されず,幼生の着底・変態には何等かの刺激が必要なものと考えられた.

5.カンザシゴカイ類の群居性と化学因子

 カンザシゴカイ類幼生の着底・変態を誘起する因子として,カンザシゴカイ類が示す群居性に着目し,成体の棲管中に幼生の着底・変態を誘起する化学因子を想定した.エゾカサネカンザシHydroides ezoensis成体の棲管の塊7kgのMeOH抽出物のシリカゲルクロマト分画物のうち,フラクションL3が1g eq./wellで幼生の変態を誘起した.フラクションL3による変態誘起率は受精後7日目以降1g eq./wellの濃度でほぼ50%程度であった.フラクションL3をHPLCを用いて精製を進めた結果,TLC上で単一のスポットを示すフラクションL3-e-2-fを得た.このフラクションL3-e-2-fを機器分析に供した結果,エゾカサネカンザシHydroides ezoensis幼生の変態を誘起する物質を,(4Z,7Z,10Z,13Z,16Z,19Z)-Docosahexaenoic acidのモノグリセリドである,1-(4Z,7Z,10Z,13Z,16Z,19Z)-Docosahexaenoyl-X-glycerolと同定した.高度不飽和脂肪酸のモノグリセリドによる変態誘起は初めての例であり,その変態誘起メカニズムを明らかにすることが今後の課題であると考えられた.

 浜名湖の支湾,庄内湾に出現した3種のカンザシゴカイ類のうち,汽水性が強い内湾域の環境特性を示す湾奥部ではカニヤドリカンザシFicopomatus enigmaticusが優占した.3種のカンザシゴカイの水平的な分布は,それぞれの種の低塩分に対する耐性の違いが反映されたものと考えられたが,湾奥部でのカニヤドリカンザシFicopomatus enigmaticusの大量発生には,この種の成長がきわめて速く,また着底から成熟に要する時間が短いという世代時間の短さが寄与しているものと考えられた.より微視的な分布,すなわち同じ種類が塊状に付着する群居性については,同種の幼生を選択的に着底させる要因を想定する必要があるが,エゾカサネカンザシHydroides ezoensisの棲管の塊の抽出物から単離された高度不飽和脂肪酸のモノグリセリドによる幼生の変態誘起は,微視的な分布を決定する要因の一つが化学的な因子であることを示すものと考えられた.

審査要旨

 提出された論文は、フジツボと並ぶ代表的な付着汚損生物であるカンザシゴカイ類が天然生態系中で卓越、群居する機構を、環境、生物特性ならびに化学生態学の観点から論じたものであり、養殖生物への付着被害が頻発している浜名湖をフィールドにした環境ならびに分布調査と飼育実験、化学分析、変態誘起物質の特定、総合考察等からなる6章によって構成されたその概要は以下の通りである。

 I章では、カンザシゴカイ類の付着汚損生物としての位置付けを過去の研究事例から論じ、成体の分布や量を決定する幼生の加入過程に関する情報が少ないこと、とくに大量発生の機構を解明するうえでは浮遊幼生が付着生活に入る着底変態期の研究が欠けていることを指摘している。また、重なりあって群居する機構は、養殖被害を与える機構でもありながら従来はまったく不明とされてきたことも述べている。

 II章では、浜名湖の付着生物相を、環境要因とともに毎月1回、5定点で13ヵ月間調査した結果を述べている。1ヵ月および3ヵ月浸漬した付着板上の各生物について、出現場所と出現期間によって作成したデンドログラムでは、カニヤドリカンザシが出現場所と出現期間で他種と区別され、本種はとくに汽水性の強い支湾の庄内湖で湾奥部に、4月から11月にかけて特徴的な種類であると考えられた。なお、他のカンザシゴカイ類ではエゾカサネカンザシが湾中央から湾口部、ヤッコカンザシは最も湾口に近い部分に出現した。

 III章では、湾奥部でカンザシゴカイ類が卓越する機構を飼育研究から論じている。低塩分、無酸素状態、干出など内湾特有の環境要素に対する耐性を調べたところ、浜名湖に出現する本類3種はいずれも無酸素状態と干出に対し高い耐性を示したが、低塩分については、カニヤドリカンザシのみが塩分3といった環境でも正常に生活することが明らかになり、3種の低塩分に対する耐性の違いが、内湾域での分布を決定していると考えられた。しかし、本種の大量発生については、環境要因のみならず、生物的特性の側面からも次章以降で検討する必要が感じられた。

 IV章では、カニヤドリカンザシの生物的特性を知るため、個体別の成長を1週間毎に定点で観測したところ、殼長の伸長はS字状の曲線になり、Bertalanffyの成長曲線で近似が可能であった。また、殼長と虫体長の間には直線的な関係が見られた。成熟については、4月中旬から5月にかけて急激に起こることが明らかになった。幼生は受精後5〜6日で着底可能であり、孵化した幼生は附近に大量付着するものと考えられた。また約1ヵ月後に成熟に達することは、新生個体が秋の付着期の産卵群になっていることを示しており、このような世代時間の短さが湾奥部における本種の大量発生の要因になっているものと推測された。しかし、プランクトン採集物中の浮遊幼生の出現量を付着量に照してみた場合、カンザシゴカイ類の幼生はフジツボに比較して浮遊量がはるかに少なく、本類が大量に、しかも群居して着生する事実を説明するには、幼生の着底を誘引する何等かの要因を探索するべきと考えられた。

 V章では上記の着底誘引物質について、重なりあって群居する性質から、親の棲管中に化学因子の存在を想定し、浮遊幼生を用いた検定により物質の分画精製を行った。エゾカサネカンザシ棲管7Kgのメチルアルコール抽出物のシリカゲルクロマト分画物で、変態誘起活性が認められたフラクションL3をHPLCを用いて精製を進めた結果、TLC上で単一のスポットを示すフラクションL3-e-2-fを得た。これを機器分析に供した結果、変態誘起物質を1-(4Z,7Z,10Z,13Z,16Z,19Z)-Docosahexaenoyl-X-glycerolと同定した。高度不飽和脂肪酸のそノグリセリドによる変態誘起は従来報告が無い。

 VI章では総合考察として、カンザシゴカイ類が内湾に卓越する機構を、生物の特性と環境によるその選抜、さらに生物過程への化学因子の関与の観点からまとめた。

 以上本論文は、カンザシゴカイ類について、付着汚損生物の特徴ともいえる浮遊生活から着底生活への移行に関わる生物過程を詳細に調べ、それに基き、海域の環境と分布の関係を生態学の観点から論じたほか、着底変態の機構を化学生態学的に研究したものである。審査委員会一同は、本論文に対し生物学、海洋生態学また、化学生態学それぞれの観点からすぐれた価値を認め、基礎科学上、また付着防除を目的とした応用上寄与するところが少なくないとして、申請者を博士(農学)に値するものと判断した。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50971