学位論文要旨



No 212633
著者(漢字) 岩田,鎮夫
著者(英字)
著者(カナ) イワタ,シヅオ
標題(和) 発展途上国の大都市における公共交通の成立に関する研究
標題(洋)
報告番号 212633
報告番号 乙12633
学位授与日 1996.01.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第12633号
研究科 工学系研究科
専攻 土木工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中村,英夫
 東京大学 教授 太田,勝敏
 東京大学 教授 大西,隆
 東京大学 教授 家田,仁
 東京大学 助教授 桑原,雅夫
内容要旨

 発展途上国の多くは激しい都市化に直面し都市問題が深刻化している。とりわけ大都市において顕著であり、なかでも公共交通の強化-拡充は重要かつ緊急を要する政策課題となっているが、多くの大都市では問題を解決し得ないまま事態の悪化に拍車がかかっている。発展途上国の大都市における公共交通に関して様々な研究や調査が行われているが、特定の都市の公共交通の成立をその歴史的背景や都市形成との関係、および様々な成立要因の分析にもとづいて研究した事例は少なく、途上国の大都市が効果的な公共交通政策を発動するためには、こうした研究の蓄積が必要であると考えられる。

 本論の目的は、発展途上国の大都市を対象に公共交通が発達してきた経緯を総合的に分析することによって、公共交通が成立する条件を明らかにし、今後の公共交通計画・政策立案に資することにあり、具体的には下記の4点である。

 (1) 発展途上国大都市(本論ではメトロマニラを中心にジャカルタ、バンコク、クアラルンプール、シンガポールの5都市を東南アジア大都市としてとりあげた)と先進国大都市(本論では東京、ロンドン、ニューヨークの3都市をとりあげた)の公共交通の発展と都市形成の過程を併せて考察し、東南アジア大都市の公共交通の成立過程の特質を明らかにする。先進国3都市をとりあげたのは、異なった時期に受けた激しい都市化のもとで実践された公共交通整備の経験が参考になる知見を与えてくれると考えられたことと、先進国の技術や制度が途上国都市へ導入され現地化し独自のシステムの発生につながる過程を考察するためである。又東南アジア5都市をとりあげたのは、著者の実務・研究本験の場であったことと先進国の影響を同じ時期に受けながらも公共交通の成立が異なった展開を示しているためである。

 (2) 東南アジア大都市の公共交通の定義と分類を明らかにし、(1)の分析結果に基づいて公共交通の成立要因を抽出し、途上国大都市公共交通の分析のフレームワークを構築する。

 (3) 東南アジア大都市の公共交通整備において、量も重要と考えられた中間的公共交通機関(定まった呼称はなく、パラトランジットをはじめとして様々な呼称が与えられているが、本論では中間的公共交通機関又はIPT:Iatermediate Public Transportationを用いた)と都市鉄道の成立状況を上記の分析フレームワークにもとづいて、この課題の対象として最適と思われるメトロマニラを中心に詳細に考察をすることで、それらの役割りと可能性を明らかにする。

 (4) 発展途上国大都市の公共交通整備の将来の可能性と方向について若干の提言を行う。

 以上の目的と視点のもとに行われた本研究の構成は、図-1に示される。

図-1 本研究の構成

 "公共交通"は公衆の需要に応じて対価を払えば、誰もが利用できる交通システムであり、公共交通が大都市において"成立"するという状況を厳密に定義することは困難であるが、実際的にはある公共交通手段が一定期間安定的に存在し公共の用に供される状況と考えることができる。先進国における旅客公共交通手段の分類は主としてサービスの供給と利用方法の特性に着目して行われているが、こうした方法では途上国大都市の様々な公共交通手段の整理が旨くゆかない場合があることがわかる。これは先進国においては、それぞれの公共交通機関が制度的に位置づけられ、車両の形態とサービスタイプが概ね対応しているため組織・運行・利用形態に関しても一定の分類が比較的明瞭にされうるのに対し、途上国においては交通需要に対応する供給が可能となる市場ができやすく、様々な車両形態やフレキシブルに変化するサービス形態が発現するためである。従って、先進国の公共交通手段に与えられた呼称には充分に対応しないし無理に対応させると途上国の公共交通手段の特性を適確に捉えられなくなる。本論においても過去の研究成果のレビューにもとづいて、途上国大都市の交通計画に役立つと思われる実務的な観点から特に問題となるIPTについて分類方法を提案し整理を行った。

 公共交通の成立は技術、財務性、経済性、社会性、環境、政策の6つの要因の分析を行うことで説明しうると考えた。これらの諸条件は相互に影響を及ぼし、都市や時代によって相互の関係の強弱は異なる。一般に公共交通の成立は、先進諸国では諸要因を考慮して立てられた政策の主導によって規定される場合が多いが、何れの要因がより支配的であるかは時代によっても都市の置かれた状況によっても異なる。一方途上国では政策が余り大きな力を持たず他の条件(例えば、財務性、取得できる技術あるいは規制の不完全さ等)によって公共交通の成立が説明される傾向が強い。

 東南アジア大都市は異なった時期に異なった背景のもとに誕生し発達してきたが、都市形成という観点からみると大きく1900年頃までの初期都市核形成期、その後1950年頃までの初期郊外化促進期(現在の中心市街地が概ね形成された時期)と1950年代以降の都市膨張期に区分でき、この過程は現在の都市構造からもかなり明瞭にうかがえる。こうしたなかで成立したさまざまな公共交通手段は市街地の形成に影響を及ぼし、市街地の構造は逆に公共交通の成立に影響を及ぼすという相互の関係が基本的にみられる。とりわけ都市膨張期における政策対応は他の諸要因の影響を受けながら都市によってかなり異なった公共交通の成立状況をもたらした。

 先進大都市はモータリゼーションに先がけて都市鉄道網を完成し(ロンドン、ニューヨーク)、あるいはこの過程で様々な制度的・技術的工夫をしながら都市鉄道網をつくりあげた(東京)が、東南アジア大都市では、シンガポールが行政の主導による都市と交通システムの一体的開発によって都市鉄道の建設に成功した他は、何れの都市も多大な困難に直面している。この過程で、共通してバスをマストラとして整備する政策対応が推進されたが、シンガポールを除いて成功しているとは言えず、特に公営化を図った都市ではバスは激増する公共交通需要を満たせずサービスレベルも低下し、財政難に陥っている。こうした需給ギャップを埋める形で様々なIPTが発達した。特にメトロマニラにおいては輸送力からはミニバスに分類されるジーブニィとミニタクシーに相当するトライシクルが公共交通需要の70%を占めるまでに発達し、そのサービスは殆ど都市圏全体をカバーし、こうした中小量の公共交通機関が大都市においても基幹的な公共交通システムを形成することができることを実証した。一方IPTを政策的に排除ないし規制してきた都市では、バスが充分に機能しないため、私的交通手段への傾斜が著しくオートバイの普及もメトロマニラを除く都市では顕著である。対象の東南アジア大都市の公共交通の成立条件を分析・考察した結果、いわゆるバスはマストラとして充分に機能し得ず、多くの都市のインフラ条件や風土に適合しないのではないか、むしろIPTがマストラとして成立しうる可能性が大きいと考えるに至った。

 しかしながら、大都市の交通需要が自動車交通だけでは適切に満たせないことは、先進大都市の経験だけでなく、いち早く都市鉄道を導入したが自動車の抑制を必要とする香港やシンガポールの事例、あるいは都市規模も小さく分散型の都市計画と高水準の道路整備を進めるクアラルンプールにおいて進められているLRT(軽便鉄道)建設の動き、自動車交通に依存するバンコクの激しい混雑状況などからも明らかである。大都市には公共交通の核となる基幹システムが不可欠であり、現状の交通技術のなかでは、鉄・軌道システムが最良の選択と思われる。

 途上国大都市において都市鉄道の導入の最大の障害となっているのは財務性であるが、香港のMRT(都市高速鉄道)は都市開発との一体性を高め、シンガポールのMRTは自家用車交通に対する徹底課税、高密度ニュータウンやCBDの統合等、MRTを都市計画や都市交通体系の戦略的要素として位置づけ、更に結果として上下分離方式をとることによって、又メトロマニラは潜在需要より小さくかつ低価格なLRTシステムを選択することによって事業採算性を保ったり高めたりしている。こうした事例は都市開発との統合、最適システムの選択、収入最大化方策の工夫、内部補助財源の確保等を充分に考慮することで成立の可能性をかなり高めることができることを示している。メトロマニラのLRTの事例は、一見より効率的で現実的と思われる在来鉄道の改良による通勤輸送サービス事業が多くの困難に直面し充分な効果をあげ得ないでいる(他のジャカルタ、バンコク、クアラルンプールでも同様である)のに対し、技術的にも高度な新規の都市鉄道の方が建設後はマストラとしての機能を発揮し、円滑に運営されることを実証している。

 途上国大都市の公共交通整備は、豊富に存在する公共交通手段のスペクトラムの適切な選択と運用によって短期的にも中・長期的にも改善の方策は充分にあり、それぞれの都市における公共交通の成立条件を体系的に考察することで、より効果的な政策形成が可能になると考えられ、特に鉄軌道系マストラの戦略的・計画的導入と途上国大都市で発達してきた様々な形態のIPTの市場メカニズムに対応した活用が持続的な途上国大都市公共交通の成立を支える鍵と思われる。

審査要旨

 多くの発展途上国は激しい都市化に直面し、各種の都市問題が深刻化している。特に大都市における交通問題は深刻であり、公共交通の改善・拡充は重要かつ緊急を要する課題となっている。しかしながら、これまでその整備のあり方について、いくつかの東南アジア途上国の大都市を全体として眺めた体系的な検討はほとんどなされてこなかった。本研究は、発展途上国の大都市を対象に公共交通が発達してきた経緯をその歴史的背景や都市形成との関係及び様々な諸要因から総合的に分析することにより、公共交通が成立する条件を明らかにした上で、今後の公共交通計画・政策立案のあり方について検討を行っている。

 本論文は全5章より構成される。

 第1章では、前述した研究の背景及び目的を述べている。

 第2章では、大都市における公共交通の発達と成立の経緯について整理している。東京、ロンドン、ニューヨークといった先進国大都市、及びジャカルタ、バンコク、メトロマニラ、クアラルンプール、シンガポールといった東南アジア諸国の大都市を対象に、まず都市の形成過程と交通の関係について整理している。交通が市街地の形成に支配的な役割を果たしていること、都市人口においてその所得階層別の構成や、増加の規模や速度が発生する交通需要の性格に影響を与えていること、などを明らかにしている。次に交通技術とその普及、交通政策とその影響について分析し、都市形成の態様に交通が果たした役割を考察している。先進国では公共交通機関や自動車交通が本格化する前に都市化が進展したのに対し、途上国の場合には交通技術は存在していたが、都市化と自動車の普及が急激であり、加えて政府の指導力、財政基盤など様々な制約のために先進国のシステムを導入することができなかったこと、などを述べている。

 第3章では、前章における考察から発展途上国における公共交通の成立条件を抽出し、その成立を総合的に記述するためのフレームワークを構築している。まず従来研究の成果を踏まえて発展途上国の公共交通の定義と分類を行っている。次いでこうした公共交通が一定期間安定的に存在するため条件として、技術、財務性、経済性、社会性、環境、政策の6つがあること、それらの相互の関連において成立の可否を説明しうることを明らかにしている。途上国では都市膨脹期における政策対応の違いによって国ごとにかなり異なった公共交通の成立状況を生みだしたこと、また政策が余り大きな力を持たず、財務的能力あるいは取得できる技術など他の条件によって公共交通の成立が説明される部分が大きいこと、などを示している。さらに途上国においては中小の輸送量をもつ公共交通機関が発達しており、今後ともこの中間的公共交通機関が重要な役割を果たすと主張している。

 第4章では、途上国大都市における中間的公共交通機関及び都市鉄道整備についての今後の方針ならびに手法について詳細な考察を行っている。たとえば、途上国大都市における都市鉄道の導入の最大の障害となっている財務性について、香港のMTRやシンガポールのMRTにみるように都市開発との統合、内部補助財源の確保等によって成立の可能性を高められること、メトロマニラでは潜在需要より小さい需要しか満たさないLRTを採用しているが、それにより事業採算性が高められること、などを示している。

 第5章は、結論であり、本研究の成果についてまとめている。今後の途上国大都市の公共交通整備に当たっては、豊富に存在する公共交通手段のスペクトラムの適切な選択と運用が必要であること、またそれによって短期的にも中・長期的にも改善の方策は十分にあり、それぞれの都市における公共交通の成立条件を体系的に考察することにより、より適切な公共交通政策の形成が可能となりうることを示している。その際、鉄軌道系マストランジットの戦略的かつ計画的導入と途上国大都市で発達してきた様々な形態の中間的公共交通機関の市場メカニズムに基づく活用が持続的な大都市公共交通の成立の鍵であると述べている。

 以上要するに、本論文は発展途上国大都市の公共交通整備について工学上はじめて体系的に検討を加えた研究である。そこでは公共交通の歴史的発展経緯、各公共交通機関の成立条件などについて分析的に記述し、体系的な計画手法についても検討を行っている。このように本研究はきわめて独創性が高く、東南アジア途上国大都市の交通研究水準を一段と高めたとも言え、土木工学、特に交通計画に関する研究の発展に大いに貢献するものと判断される。

 よって本論文は、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50972