学位論文要旨



No 212649
著者(漢字) 岡本,己恵子
著者(英字)
著者(カナ) オカモト,ミエコ
標題(和) 食品タンパク質の物理修飾とその理化学的効果の解析
標題(洋)
報告番号 212649
報告番号 乙12649
学位授与日 1996.02.05
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第12649号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 荒井,綜一
 東京大学 教授 中村,厚三
 東京大学 教授 上野川,修一
 東京大学 助教授 阿部,啓子
 東京大学 助教授 清水,誠
内容要旨

 食品を安定的に効率良く供給するために、種々の加工・貯蔵法が用いられているが、その過程では食品成分は物理・化学的変化を被り、著しい成分の劣化を伴うことがある。筆者はこうした食品の加工・貯蔵中に起る品質劣化の問題を研究課題としてとりあげ、貯蔵中に起る油脂の酸化、酵素的褐変反応、極端な加熱による脱リン現象、水分活性の食品成分変化に与える影響、とくに粉乳貯蔵中のメチオニンの酸化や有効性リジンの減少などのタンパク質の劣化、およびそれらが招く消化性の低下、凝乳性の低下などを検討した。その結果、食品の加工・調理の手段として用いられている物理的手段、特に加熱処理では、食品の色や風味の変化はもとより、栄養成分の分解や新物質の生成など、食品の成分劣化が避けがたいことを知った。

 近年は自然の色、味、香りを大切にする自然志向や本物志向が高まっているが、非加熱処理を模索している中、当時研究が始まったばかりの「食品分野への圧力の利用」の可能性について検討を開始した。数百メガパスカル(MPa)という高圧処理は食品分野では過去に例のない新しい加工技術であり、静水圧を加えることにより、意図的に食品成分の構造や理化学的性質を変化させる物理修飾法の一つといえる。静水圧を加えると、加えた圧力はあらゆる方向に瞬時に伝わり、タンパク質では水和水が増大する形で非共有結合のみが影響され、変性する。このような加圧の特徴を定量的に実証するために、高圧処理による食品物性の改善、高圧下の酵素反応などの研究を行うとともに、高圧による変性機構の解明や高圧処理を分析に利用するための研究を行った。

 本論文はこれらの研究をまとめたもので、5章より成る。第1章、序論に続き、以下の4つの章にそれぞれの概要を述べる。

 第2章では、水分活性と乳タンパク質の修飾、とくに貯蔵中の粉乳の品質変化について研究した結果を述べている。すなわち、市販の脱脂粉乳、調製粉乳、およびカゼインを種々の水分活性(Aw0.23〜0.82)の下に30℃あるいは40℃で1ケ月間貯蔵した。その結果、脱脂粉乳および調製粉乳をAw0.57以上で貯蔵した場合、著しく着色し、溶解性も減少していた。これらの粉乳では、タンパク質構成アミノ酸のうち、とくにリジンとメチオニンが著しく減少していた。すなわち、リジンは非有効性リジンに、メチオニンはメチオニンスルホキシドに変化していた。これらの減少はAwの上昇とともに増加する傾向が見られた。上記のアミノ酸の他アルギニン、チロシン、およびトリプトファンも減少し、これらの結果より、粉乳の着色は、粉乳中の乳糖と乳タンパク質構成アミノ酸、とくにリジンやアルギニンとの間に起るメイラード反応によると考えられた。このようなアミノ酸の変化を生じた粉乳では、トリプシンの消化性が著しく減少し、脱脂粉乳では、キモトリプシンやペプシンの消化性も減少した。また、キモシンによる凝乳性が失われていた。以上のような着色やアミノ酸の減少、消化性の減少は、精製したカゼインや乾燥状態およびAw0.23で貯蔵した粉乳には見られなかった。本章により、食品を長期保存する場合には、水分活性が食品の品質に与える物理的要因となって種々のアミノ酸の修飾が起り、その結果、色や溶解性の変化、プロテアーゼ消化性、キモシンの凝乳性、栄養価値などの低下を招くことを明らかにし、食品の貯蔵中の水分活性や環境の相対湿度に注意を払うことが重要であることを示した。

 第3章では、高圧を利用したタンパク質の物性修飾について研究した結果を述べている。すなわち、数種の食品タンパク質を高圧によってゲル化させ、得られた加圧ゲルの物性を調べて新しい食品素材としての可能性を評価した。試料に鶏卵の卵黄、卵白、ウサギ肉、鯉肉のアクトミオシン、大豆タンパク質を用い、室温(25℃)下、100〜600 MPaの範囲で30分間静水圧を加え、ゲル化させる条件を検討した。その結果、卵黄は400 MPa、卵白は600 MPa、ウサギ肉ペーストは300 MPa、大豆タンパク質は300 MPaでそれぞれ自重に耐えるゲルを形成した。加圧ゲルはやや収縮し、軟らかいが弾力性があり、破断しにくい性質を有していた。いずれの試料も圧力を増すほど硬いゲルを形成したが、加熱ゲルほどには硬くならず、一般に付着性が大きかった。また加圧ゲルの嗜好性を評価するために鶏卵、うずら卵、スケトウダラのすり身、大豆タンパク質の各加圧ゲルを調製して官能検査を行い、加熱ゲルと比較した。その結果、加圧ゲルはもとの生の色を保持しやすく、きめが細かくつやつやとした光沢があり、なめらかな舌触りと弾力性が感じられ、後味も良いと評価された。とくに、スケトウダラの加圧ゲルは材料が2%の食塩を含んでいたこともあり、市販の上質のカマボコのように噛み応えがあり、舌触りも味も好ましい評価が得られた。本研究により、加圧ゲルは物性、官能検査から加熱ゲルとは異なる独特の性状を有することを示し、高圧処理によってタンパク質性食品の物性の修飾・改変を行えることを明らかにした。高圧処理は非加熱処理であり、共有結合を切断しないため、ビタミンの破壊やアミノ酸の損傷がなく、自然の味や香りを残すことが可能である。圧力による物性の修飾は食品の開発に役立つだけでなく、原料の利用拡大や資源の有効利用にも寄与できると考えられた。

 第4章では、高圧下におけるタンパク質の酵素修飾について研究した結果を述べている。すなわち、牛乳ホエー濃縮物から、牛乳アレルギーの主要因として知られるラクトグロブリンの選択的分解に圧力の利用を試みた。ホエータンパク質溶液にサーモリシンを加えて、可逆的な変性が起る、300 MPa以下の静水圧を加えた。その結果、200 MPa、30℃、3時間の加圧でラクトグロブリンは最もよく分解され、その残存量は10%未満であった。このとき、ラクトアルブミンは分解されず、そのまま残存していた。このような選択的なタンパク質の分解は、基質となるタンパク質の種類による耐圧性の差と、圧力による酵素反応速度の制御の2つの要因により説明できる。さらに、5種のラクトグロブリンモノクローナル抗体を用いて、酵素免疫測定法によりサーモリシン消化物との結合性を調べた結果、いずれの抗体の結合性もほとんど失われ、抗原抗体反応においてもラクトグロブリンが分解消失していることを立証した。本章により、タンパク質の可逆的な変性が起る範囲の高圧下において、タンパク質の選択的分解に酵素反応を有効に利用できることを明らかにした。また、高圧下での酵素によるタンパク質の選択的分解、あるいは部分分解の利用は、物性の改変や新たな機能性を付与することも可能であり、高圧下で高分子化合物が常圧下とは異なる構造をとることを利用すれば、タンパク質のみでなくデンプン、脂質など、高圧下における酵素修飾の多方面への応用が期待される。

 第5章では高圧処理を利用したタンパク質の化学修飾について研究した結果を述べている。すなわち、タンパク質の化学修飾には、立体構造を崩す変性剤として、一般に高濃度の尿素や塩酸グアニジンが用いられる。修飾後、これらの変性剤はゲル濾過や透析操作で除去しなければならない。このとき、圧力を"変性剤"として利用すれば変性剤の添加・除去は圧力装置のコックの開閉だけで完了し、操作がより簡便になる。筆者らは、SH基やS-S結合の化学修飾法として知られるカルボキシメチル化(CM化)およびピリジルエチル化(PE化)に上記の考えを適用し、圧力の変性剤としての利用を検討した。リボヌクレアーゼAの溶液にメルカプトエタノールを加え、100〜600 MPaまでの静水圧を加えた。除圧後、直ちにアルキル化試薬を加え、CM化またはPE化を行った。その結果、CM化は25℃、500MPa、1時間の加圧で達成でき、その他インシュリン、トリプシノーゲン、キモトリプシノーゲンAも完全にCM化することができた。また、PE化は25℃、500 MPa、4時間の加圧で達成でき、その他インシュリン、キモトリプシノーゲンAも完全にPE化できた。しかし、同じ加圧条件を用いてもリゾチーム、ラクトアルプミン、ラクトグロブリンは完全に修飾できなかった。リゾチームではエタノールを15%添加すると、45℃、400 MPa、20分の加圧で完全にCM化できた。本研究により、タンパク質の種類によって耐圧性に差があり、リゾチームのように変性しにくいタンパク質では、加圧時の条件の設定やアルコールのような有機溶媒の添加などの工夫により、完全に変性を達成することができるし、加圧時に加熱を併用すると変性は促進さわ、より低い圧力で変性できることを明らかにした。さらに、この方法は従来の修飾法に比べて、尿素や塩酸グアニジンのような化学試薬を多量に使わず、より短時間でSH基やS-S結合の検出・定量ができることを明らかにし、圧力を変性剤として利用する道を拓いた。

 食品の調理・加工分野における圧力の利用は、本研究で述べたようなタンパク質の物性の修飾、不要物質の分解除去の他、糖質や脂質などの高分子化合物の物性の修飾・改良、熟成の制御、調味液の浸透の促進、静菌・殺菌・殺虫効果、酵素の失活、物質の抽出、氷点下での不凍保存、加圧解凍など、広範に渡る用途が考えられる。さらに、圧力と温度を併用することで、上記のような殺菌・殺虫効果を増強したり、抽出・浸透速度を促進する効果が期待できるし、製造・加工工程の大幅な省力化を図ることが可能である。高圧処理技術はまだ新しく発展途上であるが、いくつかの加圧食品の製品化も実現しており、今後の高圧装置の改善・開発により、省エネルギー技術として一層の躍進が期待される。

審査要旨

 食品中の成分は、食品の加工・貯蔵の過程で種々の物理的・化学的変化を被り、著しく劣化することがある。本研究は、こうした成分変化のうち、とくにタンパク質の修飾を研究課題とし、水、温度、圧力などの物理的作用因子によって生じる理化学的性質の変化を明らかにするとともに、とくに圧力によるタンパク質の物理修飾を食品・生化学分野へ応用することを目的として行われたものである。

 第1章は序論で、以後に4つの章が続く。

 第2章は、市販の脱脂粉乳、調製粉乳、およびカゼインを種々の水分活性(Aw0.23〜0.82)下に30℃あるいは40℃で1ヶ月間貯蔵した後の乳タンパク質の修飾、とくに貯蔵中の粉乳の品質変化について述べている。脱脂粉乳および調製粉乳は水分活性の上昇とともに着色度が増し、溶解性は減少した。これらの粉乳では、タンパク質構成アミノ酸のうち、リジンとメチオニンが著しく減少し、それぞれ非有効性リジンとメチオニンスルホキシドに変化していた。その他、アルギニン、チロシン、トリプトファンも減少していた。このようなアミノ酸の変化を生じた粉乳では、トリプシンによる消化性が著しく減少し、脱脂粉乳では、キモトリプシンやペプシンによる消化性も減少し、キモシンによる凝乳性が失われていた。以上の結果より、食品を長期保存する場合には、水分活性が食品タンパク質の劣化を誘起する物理的要因となることを具体的に明らかにした。

 第3章では、鶏卵の卵黄、卵白、家兎肉、鯉アクトミオシン、大豆タンパク質を高圧処理によってゲル化させる条件を検討するとともに、得られた加圧ゲルの物性測定および官能検査を行い、新しい食品素材としての可能性を検討した結果を述べている。高圧処理は非加熱処理であり、共有結合を切断しないため、ビタミンの破壊やアミノ酸の損傷がなく、自然の味や香りを残すことが可能である。室温(25℃)下に30分間の静水圧を加えた場合、自重に耐えうるゲルを形成する圧力は卵黄では400MPa(4000 気圧)、卵白では600 MPa、家兎肉ペーストおよび鯉アクトミオシンでは200 MPa、大豆タンパク質では300 MPaであった。加圧ゲルは、軟らかいが弾力性があり、破断しにくい性質を有していた。いずれの試料も圧力を増すほど硬いゲルを形成したが、加熱ゲルほどには硬くならず、一般に大きい付着性を示した。また鶏卵、ウズラ卵、スケトウダラすり身、大豆タンパク質の各加圧ゲルと加熱ゲルを調製して比較した結果、加圧ゲルはもとの色調を保持し、きめが細かく光沢があり、なめらかな舌触りと弾力性が感じられ、後味も良いと評価された。このように、本研究は、高圧処理によってタンパク質性食品の物性の修飾・改変を行いうることを明らかにした。

 第4章では、牛乳ホエー濃縮物から牛乳アレルギーの主要因であるラクトグロブリンの選択的分解へ静水圧を適用した結果を述べている。ホエータンパク質溶液にサーモリシンを加えて高圧下においた場合、ホエー中のラクトグロブリンが最もよく分解される条件は 200 MPa、30℃、3時間であり、このとき、ラクトアルブミンは分解されず残存していた。さらに、5種のラクトグロブリンモノクローナル抗体を用いた酵素免疫測定法によってもサーモリシン消化物との結合性がほとんど失われ、ラクトグロブリンが分解消失していることを立証し、酵素によるタンパク質の選択的分解に圧力を有効に応用できることを明らかにした。

 第5章の研究では、静水圧による食品タンパク質の構造変化の要因を探る一助として、モデルタンパク質の修飾に関する基礎データの取得をめざした。まず、SH基やS-S結合の化学修飾法として知られるカルボキシメチル化(CM化)およびピリジルエチル化(PE化)に、通常の変性剤の代わりに圧力が利用できるか否かを検討したところ、リボヌクレアーゼA溶液を還元剤の共存下で加圧し、除圧後、直ちにCM化またはPE化を行った結果、CM化では25℃、500 MPa、1時間の加圧で達成でき、インシュリン、トリプシノーゲン、キモトリプシノーゲンも完全にCM化することができ、PE化では25℃、500 MPa、4時間の加圧で完全に修飾することができた。タンパク質の種類によって耐圧性に差があるが、リゾチームのように変性しにくいタンパク質では、加圧時の条件の設定により完全に修飾できる。たとえば、加圧時に加熱を併用するとその変性は促進され、より低い圧力で修飾でき、しかも、従来の修飾法に比べて短時間でそれが達成できた。

 以上を要するに、本研究は食品の加工・貯蔵中に起るタンパク質の劣化を水分活性との関連で明らかにし、また、高圧によるタンパク質修飾が食品物性の改良、酵素作用の制御、生化学的応用などの途があることを示したもので、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

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