本論文は、四種の花の香気成分の解明とその構成成分の合成に関するもので、四章よりなる。 第一章では、藤の花の香気成分とその香気成分である1-フェニル-2,3-ブタンジオールの四種の光学異性体の合成と3-ヒドロキシ-4-フェニルー2-ブタノンの二種の光学異性体の合成(天然物の絶対立体配置の決定)について述べる。 第二章では、杏の花の香気成分とその香気成分であるライラックアセテートの合成について述べる。 第三章では、胡蝶蘭の花の香気成分について述べる。 第四章では、えびねの花の香気成分について述べる。 (1)第一章 藤の花の香気を分析して120成分を同定した。その結果次のような成分が藤の花の香気成分に寄与をしていると思われた。(Z)-3-および(E)-2-へキセニル基を持つアルコール、アルデヒド、エステル類と、ヘキサナール、ヘプタナール、オクタナール、フルフラール、ベンズアルデヒド、リナロール、フェニルアセトアルデヒド、アネトール、アニスアルデヒド、シンナミルアルデヒド、2-フェニルエチルアルコール、-イオノン、-イオノン、リナロールオキサイド、メチルチャビコール、メチルサリシレート、(Z)-ジャスモン、メチルジャスモネートなどが香気的に重要な成分であった。以上の成分の他に、エリトロ-1-フェニルー2,3-ブタンジオール(5)およびトレオ-1-フェニル-2,3-ブタンジオール(6)は、天然物中に初めて見いだされた化合物であり、3-ヒドロキシ-4-フェニルー2-ブタノン(4)は今までワイン中の成分としてのみ見いだされた成分であった。そこで、これらの化合物の全ての異性体を合成しその絶対立体配置を決定することとした。その結果は5の異性体としては(2R,3S)-1-フェニル-2,3-ブタンジオール(5b)のみが存在し、6の異性体としては(2S,3S)-1-フェニル-2,3-ブタンジオール(6b)のみが存在した。また、この2つの異性体の存在比は1対2であった。3-ヒドロキシ-4-フェニル-2-ブタノン(4)は(R)-エナンチオマー(4b)と(S)-エナンチオマー(4a)が5対1の存在比であった。 藤の花の香気分析の結果から藤の花の香料を作成し、それをもとに岩手県東山町の特産品としての"藤の花の香水"を販売している。 (2)第二章 杏の花の香気を分析し、合わせて85成分を同定した。これらの香気成分のうちライラックアセテート(21)は文献未記載な成分であった。 杏の香気成分として同定された成分のうち図に示した6つの化合物は、次のような関係があると考えられた。アルデヒド25は酸の存在下容易にライラックアルデヒド19に変化すると考えられる。また、アルコール24a及び24bもライラックアルコール(20)に変化すると考えられる。また、ライラックアルコール(20)よりライラックアセテート(21)が生成すると考えられる。これら、アルコール24aおよび24bとアルデヒド25とライラックアルコール(20)、ライラックアルデヒド(19)およびライラックアセテート(21)は、GC匂い嗅ぎにより香気的に杏の花の特徴づけに大きな寄与をしていると考えられた。また、ライラックの花にも見いだされていないライラックアセテートやこれらの前駆体と思える化合物が杏の花に見いだされたのはきわめて興味深いことといえる。 杏の花についてはその調合品を作り、春らしいパウダリーな香気の香料ができた。また、ライラックアセテート等の化合物は他の花の調合処方等に応用されている。 (3)第三章 胡蝶蘭の花の香気の分析をシレラーナ、エクエストリス、ビーチアナの3つの花について行った。シレラーナは最も強く香気が感じられた。この花の香気成分はネロール、ネリルアセテートが合わせて66%と多く含有されていた。香気の強さは次にビーチアナが強く感じられエクエストリスが最も弱く感じられた。エクエストリスは鼻で嗅いだときにはほとんど香気を感じなかったが分析の結果、ヘキサナール、オクタナール、ノナナール、デカナールなどの脂肪族アルデヒドが同定された。また、1,4-ジメトキシベンゼンも同定された。両種の配合体であるビーチアナは1,4-ジメトキシベンゼン、デカナールなどを多く含んでいた。この様にビーチアナの香気成分はエクエストリスの影響を多く受けているといえる。 シレラーナの花における1日の香気量の変化を調べてみると1日の総香気量100としたとき午前5時から午後1時までのステージ1の香気量は約87%、午後1時から午後9時までのステージ2の香気量は約12%、午後9時から翌朝の5時までのステージ3の香気量は約2%に相当した。この結果から香気の発生量から見ると朝型の花であることがわかった。 シレラーナの花の主な香気成分の咲き始めから咲き終わりまでの香気量の変化を見てみるとネロールと2-フェニルエチルアルコールが第1日目から発生していた。2日目からはゲラニオール、2,3-ジヒドロファルネソールが生成してきている。そして、4日目でネリルアセテートとシトロネロールが生成してきている。香気的に見ると開花直後は弱いがフレッシュな香気であり、その後だんだん強くなって8日目には強い華やかな香気になった。そしてその後は熟れたような香気となってきた。経日変化の各成分において,まずネロールが生成されその翌日にネロールの二重結合の(Z)-フォームが(E)-フォームに異性化したゲラニオールが生成している。また、品種間の差の分析において酢酸が確認されているが、4日目からネロールがアセチル化されたネリルアセテートが生成してきている。また、シトロネロールも4日目から生成してきている。この様に、各成分の生成しはじめる日がはっきり区別して確認できたという事は花の香気の発生のメカニズムの解明という点からも興味深いと考えられる。 胡蝶蘭の香気成分より再構成して得られた香料は日本メナード株式会社より"シレリアナ"という名前の香水として売り出されている。これは、今までにない胡蝶蘭のにおいの香水として評判になっており、その評価は非常に高い。またこの香水では胡蝶蘭の花の開花当時のフレッシュなにおいを若い人向けのコロンとして開発し、花の成熟した時期の香気の再現品を熟年向きの香水として売り出した。花の開花時期の香りの変化を捕らえ香水のにおいにバリエーションを持たせるというアイデアの香水は今回が初めてだと思われこの様な点にも今回の研究成果が生かされている。 (4)第四章 えびねの香気分析として原種のにおいえびねと黄えびねを中心に香気の分析を行った。その結果、においえびねの香気の主成分は(E)-オシメン、リナロール、インドールなどであった。一方、黄えびねの香気の主成分はリナロールと(E)-シンナミックアルデヒドであった。また、においえびねとえびねの自然交配種であるコオズの香気成分はにおいえびねの香気成分とよく似ていた。 においえびね3株の株の間の香気の差を見る実験から、えびねの種としては1つの種であっても、香気成分としてはかなりのばらつきがありそれに伴って香気も微妙に違うということが分かった。また、黄えびねの抽出物の分析から多くの微量な化合物や、高い沸点を持つ化合物が多く含まれていることが示された。 えびねの香気の検討結果のうち、においえびねの研究結果を基に香料が作られ株式会社資生堂よりこの香料を用いた製品が販売される予定である。えびねは日本に多く見られる蘭としてその人気は増す傾向であり、蘭展などにおいても環境フレグランスとしてこのにおいが使われることが多くなってきている。 (5)まとめ 以上本論文は、花の香気成分研究として藤、杏、胡蝶蘭およびえびねについて行ったものである。これらの分析結果に基づいて再構成した調合組成物はフローラル・フレグランスとして香水や芳香剤などの製品として生かされている。また、これらの香料を開発することにより今までにない新たな香調を持った香料の開発に大きな役割を果たしてきた。さらに、今回の研究を通じて見いだされた新規化合物や、新たに天然物中の成分として見いだされた成分も他のフローラル・フレグランスの調合素材として有効に用いられている。 |