学位論文要旨



No 212670
著者(漢字) 矢ノ下,玲
著者(英字)
著者(カナ) ヤノシタ,レイ
標題(和) 大腸癌の発生と進展における癌抑制遺伝子の研究
標題(洋)
報告番号 212670
報告番号 乙12670
学位授与日 1996.02.07
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第12670号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 井上,圭三
 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 助教授 辻,勉
 東京大学 助教授 久保,健雄
 東京大学 助教授 新井,洋由
内容要旨 序論

 細胞は増殖に関与する複数の遺伝子異常により癌化すると考えられている。これには増殖を正の方向に制御する細胞癌遺伝子の活性化と負の方向に制御する癌抑制遺伝子の不活性化が寄与することが明らかにされつつある。細胞癌遺伝子は優性遺伝子であり片方の対立遺伝子の異常のみで活性化する。これに対して、癌抑制遺伝子は劣性遺伝子であり主に対立遺伝子欠失(欠失と略す、ヘテロ接合性消失とも言う)と突然変異により両方の対立遺伝子に異常が生じて不活性化されると考えられる。癌抑制遺伝子の一方の対立遺伝子に異常のある優性の遺伝性腫瘍症が50種以上知られ、それぞれ別の遺伝子が原因とされている。

 家族性大腸腺腫症(familial adenomatous polyposis:FAP)は大腸に数百から数千の腺腫性ポリープが発生する優性の遺伝性腫瘍症である。ポリープは良性、悪性および境界病変の種々の病理組織化学的進行段階の腫瘍を含み、それらについて遺伝子異常を解析することにより発癌機構を解明することが可能であると思われる。これまでに当研究室では、進行大腸癌でFAPの疾患遺伝子の存在する染色体5番長腕5qの他に17番短腕17p、18番長腕18q及び22番長腕22qの欠失を高頻度に認めており、これらの染色体上にそれぞれ癌抑制遺伝子が存在しそれらが癌で不活性化されていることが示唆された。しかし、これらの遺伝子の不活性化が進行癌においてのみ生じているのか、あるいはより良性の腫瘍にも起きているのか、不活性化の機序は全く不明であった。本研究ではこれらを明らかにする目的で、FAP患者及び一般集団の大腸に発生した腫瘍について欠失領域に存在すると推測される癌抑制遺伝子の異常を解析した。

本論1.大腸腫瘍の進行度と遺伝子異常の蓄積

 大腸腫瘍274検体(FAP160検体、一般集団114検体)を病理組織化学的進行度に従い低異型性腺腫、高異型性腺腫、粘膜内癌、浸潤癌に分類した。腫瘍とそれに対応する正常大腸粘膜からDNAを抽出し染色体5q、17p、18q、22qにおける欠失を調べた。FAPと一般集団のいずれの場合も、低異型性腺腫では欠失は認められなかった。高異型性腺腫では5qにおける欠失が高率に検出されたが、その他の染色体上では起きていなかった。粘膜内癌では5qの他17pの欠失も高頻度に認められた。浸潤癌では5q、17p、18q、22qにおける欠失が高率に起きていた。従って低異型性腺腫から高異型性腺腫への移行には5qの欠失が、腺腫から粘膜内癌への悪性転換には17pの欠失が、粘膜内癌から浸潤癌への進展には18qと22qの欠失が関与することが明らかになった。また複数の欠失を有する浸潤癌が多数見い出され、これらの遺伝子異常が大腸腫瘍の進行に伴って蓄積していくことが示唆された。

 5q欠失を有する癌ではFAPの疾患遺伝子のAPC(adenomatous polyposis coli)遺伝子が存在する染色体5q21-22での欠失の頻度が高く、APC遺伝子が5q欠失の標的と考えられた。17pにはp53遺伝子が存在するが17p欠失を有する癌はp53遺伝子(hp53B)においても高率に欠失を示し、標的がp53遺伝子であることが強く示唆された。また、18qにはDCC(deletion in colon cancer)遺伝子が存在し、18q欠失を有する癌はDCC遺伝子の欠失も示し、DCCが欠失の標的と考えられた。

2.大腸腺腫から癌への悪性転換におけるp53遺伝子異常

 腺腫から癌への悪性転換にp53遺伝子の欠失が関与することが明らかになったが、FAP患者、一般集団のいずれもp53遺伝子の生殖細胞変異は持っておらず、p53遺伝子の突然変異が大腸の癌化に関与するか否かに興味が持たれる。そこでp53遺伝子の中で動物種を越えた高度保存領域を含むエクソン5、6、7、8における変異をPCR-SSCP(single-strand conformation polymorphism)法とdirect sequencing法により調べた。56例に変異が認められ、その頻度を病理組織化学的進行度と比較したところ、FAPと一般集団のどちらの場合も変異は低異型性腺腫、高異型性腺腫では殆ど起きていなかったが、粘膜内癌で認められ、浸潤癌ではその頻度がさらに高くなっていた。そして変異を有する粘膜内癌、浸潤癌は殆どすべて17p欠失を示していた。従って腺腫から粘膜内癌への悪性転換には欠失と変異によるp53両対立遺伝子の異常が関与することが明らかになった。

 56例の変異のうち54例はアミノ酸置換を伴うミスセンス変異であった。変異の多くは保存領域に含まれており、特にコドン175、238、245、248、273、282における変異が高頻度に生じていた。また全変異の72%はGCからATへのトランジションであったが、この方向性は肝臓癌とは異なっており、組織による発癌物質の差異が示唆された。

 また異常のあるp53遺伝子のmRNAと蛋白質への発現を検討した。17p欠失、変異の有無に拘わらず、p53mRNAは癌において正常粘膜より高いレベルの発現が見られた。一方、p53蛋白質の高い発現が変異を持つ癌の培養細胞の核に認められたが、正常粘膜と変異のない癌ではほとんど認められなかった。大腸癌組織の免疫染色においても変異を有する癌の80%以上が染色されたのに対し、変異のない癌は80%が染色されなかった。

3.大腸癌の進展におけるDCC遺伝子の異常

 粘膜内癌から浸潤癌への進展にDCC遺伝子を含む18qの欠失が関与することが明らかになったが、癌の進展におけるDCC遺伝子の寄与を知るためその遺伝子発現を大腸腺腫と癌について調べた。DCC遺伝子のmRNAへの発現が浸潤癌では消失していることが認められた。18q欠失との間に相関は見られなかったが、癌の進展にDCC遺伝子の不活性化が関与することが明らかになった。

4.変異p53遺伝子の発癌作用

 p53遺伝子の変異はほとんどがミスセンス変異でその位置や方向が多岐にわたっており、多種類の変異蛋白質が産生されると推測できる。変異p53は単に正常機能を失うだけでなく活性癌遺伝子に似た挙動を示すことも報告され、癌化に関連した多様な作用が示唆されている。変異p53遺伝子の作用を明らかにするため、今回見出された6つのホットスポット(11種のミスセンス変異)と1種のナンセンス変異を持つ12種の変異p53cDNAを部位特異的変異導入法に従って作製した。各変異体を発現ベクターに組み込み、活性H-ras遺伝子(コドン61Leu)と共に初代培養ラット胎児細胞(REF)に導入した。ミスセンス変異体と活性ras遺伝子を同時に作用させると形質転換が起きた。その頻度は変異の違いにより異なり273Cys、248Trp、175Hisを有する変異型が強い活性を示した。ナンセンス変異体や正常cDNAにはこのようなras遺伝子との協同作用は認められなかった。ミスセンス変異体のみではREFは形質転換されなかった。各ミスセンス変異体が内在性の正常p53蛋白質とオリゴマーを形成してその活性を阻害する’dominant negative effect’を有しているが、その程度には変異の違いによる差があると思われる。

 また、ミスセンス変異体と活性ras遺伝子を共に導入したREFから、外来性p53遺伝子が存在する形質転換細胞クローンを数種樹立した。これらはヌードマウス皮下での造腫瘍性を有するのみならず、尾静脈あるいは腹部の皮下に移植されると肺へ転移することが認められた。これらのクローンではREFでは見られなかったゼラチナーゼ活性の放出が認められ、転移能との関連が考えられた。

結論及び考察

 種々の進行段階の大腸腫瘍を多数解析することから、複数の癌抑制遺伝子の不活性化が次第に蓄積されて細胞が癌化することが解明された。このうち腺腫の移行には染色体5q(APC遺伝子)の欠失が、腺腫から早期癌への悪性転換には欠失と変異による染色体17pに存在するp53両対立遺伝子の異常が、癌の進展には染色体18qのDCC遺伝子の欠失とmRNAへの発現の消失、および染色体22qの欠失が関与することが明らかになった。p53遺伝子変異を腫瘍組織の免疫組織染色で検出できることから、早期癌の診断に極めて有用と考えられる。また、大腸癌で多く認められるミスセンス変異p53cDNAが活性H-ras遺伝子と協同してREFを悪性転換するのみならず、肺への転移能にも関与することが初めて示され、それらの発癌作用が示唆された。

審査要旨

 細胞は増殖に関与する複数の遺伝子異常により癌化すると考えられ、癌抑制遺伝子の不活化も細胞の癌化に重要た役割をはたしている。しかしながら、癌抑制遺伝子不活化のメカニズム、不活化と癌化の進行度の関係などについてはほとんど不明であった。本研究ではこれらの点を明らかにする目的で、家族性大腸腺腫症(familial adenomatous polyposis:FAP)患者および一般集団の大腸腫瘍について癌抑制遺伝子と推測される領域の異常を解析した。FAPは腺腫症ポリープが大腸に多数発生する遺伝性腫瘍症でありポリープは良性、悪性、中間型など進行段階の異なる腫瘍を含み、遺伝子異常と癌進行度との関係をさぐる上で有用である。

大腸腫瘍の進行度と遺伝子異常の蓄積:

 大腸腫瘍検体よりDNAを抽出し、染色体5q、17p、18q、22qにおける対立遺伝子欠失を調らべたところ、進行度の低い腫瘍では欠失が認められず、進行度の高くなるにつれて5qの欠失、5qおよび17pの欠失が高頻度で認められた。浸潤性癌では5q、17p、18q、22qの欠失が高率でおきており、これらの遺伝子異常が大腸腫瘍の進行に伴って蓄積していく事が示唆された。5q欠失の標的がFAPの原因遺伝子、adenomatous polyposis coli遺伝子(APC)であること、17p欠失の標的がP53遺伝子であること、18q欠失の標的がdeletion in colon cancer遺伝子(DCC)であることなども欠失領域の詳細な検討より示唆された。

大腸腺腫から癌への悪性転換におけるP53遺伝子異常:

 P53遺伝子の欠失以外の変異と大腸の癌化の関連を、腫瘍サンプルを用いて動物種をこえた高度保存領域を含むエクソンについて調らべた。変異の頻度は病理組織化学的進行度が進むにつれて高くなっていた。このことより、腺腫から粘膜内癌への悪性転換には欠失と変異によるP53両対立遺伝子の異常が関与する可能性が高いことが示された。変異の大部分はアミノ酸置換を伴うミスセンス変異であり、大部分はGCからATへのトランジションであった。この方向性は肝癌とは異なっており、組織による発癌機構の差、おそらくは発癌物質の相違が示唆された。

変異P53遺伝子の発癌作用:

 P53遺伝子の変異はほとんど全てミスセンス変異であり、その位置、方向が多岐にわたっていて、多種の変異タンパク質が産生されると推測される。変異タンパク質は抑制活性を失うのみならず、発癌に積極的に関る作用を有することも明らかとなった。すなわち、変異P53cDNAを発現ベクターに組み込み、活性H-ras遺伝子とともに初代培養ラット胎児細胞に導入した。ミスセンス変異体とras遺伝子を共発現した際、形質転換が観察された。ミスセンスcDNAのみでは形質転換能はみられず、ナンセンス変異体、正常cDNAにはras遺伝子との協同作用は認められなかった。ミスセンス変異体は内在性正常P53タンパク質とオリゴマーを形成して活性を阻害するdominant negative effectを有すると考えられた。ミスセンス変異体と活性ras遺伝子を共に導入した細胞より形質転換クローンを樹立したところ、これらの株はヌードマウス皮下での造腫瘍性を有するのみならず、尾静脈に移植されると肺へ転移することも認められた。これらのクローンではゼラチナーゼ活性の分泌がみとめられるようになっており、転移能との関連が示唆された。以上よりミスセンス変異cDNAが活性H-ras遺伝子と協同して正常細胞を悪性転換、さらには転移能の獲得にも関っているこが明らかとなった。

 以上、本研究は複数の癌抑制遺伝子の変異、欠失を種々の進行段階の大腸腫瘍について解析したもので、これらの間の密接な連関が示され、癌化のメカニズム解明に寄与する情報を提供しており、博士(薬学)の学位に価すると判断された。

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