近年数多く建設されているアトリウム、ドーム、大規模体育館等の大空間建築物は、その機能上建築基準法どおりの防火区画を設けることは困難であり、建築基準法38条に基づく建設大臣の防災認定が必要となる。このような場合、数値解析、模型実験等の工学的な手法により火災時の煙流動予測を行い火災安全性を検討することになる。これら建物における煙流動予測を行う場合、現在では一般に実用性の高い2層ゾーンモデルが多く用いられている。2層ゾーンモデルは建物内の空間を煙層からなる上部層と下層部の2つのゾーンに分け、それぞれについて熱の収支式、濃度の収支式、体積の保存式等を解き、時間とともに降下してくる煙層の温度と高さを予測するものである。しかしながら2層ゾーンモデルはあくまで煙層が形成されることが前提であるため、煙層が破壊される場合、あるいは形成されない場合や、開放された空間への適用は困難である。またその前提条件として、ゾーン内部での温度や濃度は均一で、運動エネルギーは無視されていることから、流れ場、温度場等に関する詳細な情報は得ることができない。 このような2層ゾーンモデルの適用性の限界から、より高次のモデルとしてフィールドモデル(流体の基礎方程式を数値シミュレーション等の手段により解く方法)に基づく予測手法の開発が望まれている。数値シミュレーションによる煙流動予測に関しては、海外では2方程式モデルを用いたMalkalos,Kumar,Coxら、ラージェディシミュレーションを用いたRchm,Baumらの研究、日本では長谷見による流体の密度変化を考慮した1方程式モデルの先駆的な研究が著名である。しかし、その後日本ではこの問題に関する本格的な研究は行われておらず、例えば汎用コードを用い流体の密度変化や放射を無視した予測がわずかに見受けられる程度であり、定量的な検証もほとんどなされていない。 空調の分野で盛んに流体の数値シミュレーションの研究が行われているのに対し、火災の分野での研究が極めて少ない理由のひとつは、火災は燃焼や強い放射を伴う極めて高温の現象であり、空調で扱う現象よりは格段に複雑であることが挙げられよう。このような複雑な現象に対しては、問題点を絞りそれをひとつひとつ克服し、段階を踏みながら、最終的なフィールドモデルの開発に向けて研究を進めていくべきであると考える。このような観点から本研究では、フィールドモデルの数ある検討課題のうち最も重要でその基盤となる部分、すなわち密度変化を伴う高温高浮力流れの数値シミュレーション手法を開発するとともにその妥当性を実験との比較により定量的に検証している。そして今後のフィールドモデルによる煙流動予測の礎を築くことを研究の目的としている。 本研究における主要な検討課題は以下の2つである。 (1)火災時の流れ場は大きな温度変化に伴い、流体の密度変化も大きくなる。従来、建築環境の分野では、常温で多少の温度変化を伴う流れの数値シミュレーションにはBoussinesq近似が用いられている。しかしこの近似は密度変化の影響を運動方程式の浮力項のみに残し、他は密度一定を仮定しているため、火災時のように濃度変化が大きく、それに伴う流体の密度変化が大きな流れ場への適用には問題がある。一方、火災時の煙流動等の流れは低マッハ数の流れであるが、航空の分野等で行われている通常の圧縮性流体の解析方法は、状態方程式により圧力を決定するため、低マッハ数の流れを精度良く解くには困難が多い。本研究では、このように密度変化が大きくかつ低マッハ数の非定常流れを解くための、特有の方法を開発している。 (2)火災時の煙流動 大きな密度変化を伴う乱流であるため、これを予測するためには密度変動(圧縮性)乱流モデルの導入が必要となる。しかしながら、密度変動(圧縮性)乱流モデルの研究は極めて乏しく前述の長谷見のモデルの他にもいくつかモデルが提案されているものの、その妥当性についてはほとんど検証されていない。また高温流れ場においては特に流速を測定することが困難であり、シミュレーション結果と比較すべき流速や乱流統計量が測定されている例は極めて少ない。このような現状に対して、精密な高温実験の実施とこれとの比較による乱流モデルの検証が必要であり、本研究では乱流数値シミュレーションの検討とともに、これと比較すべき精密な高温実験も実施している。 本論文は以下の9章から構成されている。 第1章では、序論として本研究の背景と目的、本研究における検討課題と研究範囲、研究内容の概要が述べられている。 第2章では、まず圧縮性流体を支配する厳密な基礎方程式が示される。厳密な圧縮性流体の基礎方程式は音波を含んおり、火災時の煙流動のように低マッハ数流れを解くには様々な困難を伴うため、基礎方程式自身から音波を除去した近似的な圧縮性流体の基礎方程式を検討する。この基礎方程式は本研究で検討する圧縮性乱流モデルの基礎となるものであるため、本章において、そのモデル化の構造及び方程式の性質を詳細に説明している。 第3章では、近似的な圧縮性流体の基礎方程式の数値計算のアルゴリズムの検討を行っている。この基礎方程式には、様々な解法の可能性が考えられるため、数種類の数値解法を試み、鉛直加熱壁近傍の2次元層流解析により、これら解法の妥当性を検討し最適な解析方法を見い出している。またRoussinesq近似による解析結果との差異についても検討し、密度変化を考慮することの必要性を確認している。 第4章では、本研究で検討する2種類の圧縮性乱流モデル(アンサンブル平均に基づき密度変動との相関項を数多く含むTo&Humphreyのモデルとファブル平均すなわち質量加重平均に基づき密度変動との相関項を含まない簡易圧縮性モデル)の導出方法及びその数値計算手法を述べている。特にTo&Humphreyのモデルは乱流ヒートフラックスに関して一見矛盾する点が存在するが、その構造と数値計算上の工夫について説明する。 第5章では、圧縮性乱流モデルを検証するデータを得ることを目的として行った高温鉛直加熱壁近傍の自然対流に関する実験について述べている。この実験ではレーザードップラー流速計と線径12mの極細熱電対を用いて平均流のみならず、レイノルズストレスや乱流ヒートフラックス等の各種乱流統計量も詳細に測定されている。壁面温度が比較的低い鉛直加熱壁近傍の自然対流に関しては、いくつか既往の実験があるので、まず比較的温度が低い条件のもとて実験を行い、既往の実験との比較により実験精度を確認した上で高温の実験を行っている。高温の場合は壁近傍において常温の場合とは異なる性状が現われることが、この実験により明らかとなっている。 第6章では第5章で行った実験に対応する鉛直加熱壁近傍の自然対流をTo&Humphreyの圧縮性モデル、簡易圧縮性モデル、非圧縮性モデルの3つにより解析し実験結果と比較検討した結果について述べている。まず加熱壁の温度が低い場合は、3つのモデルによる計算結果はいずれも実験結果と良く対応し、これらの計算結果にはほとんど差異が生じないことから、密度変化の影響が無視できることが示されている。次に高温の加熱壁の場合には非圧縮性モデルと圧縮性モデルには顕著な差が生じた。圧縮性モデルのほうが実験との対応が良く、高温の場合には密度変化を考慮することが重要であることを確認している。一方、To&Humphreyの圧縮性モデルと簡易圧縮性モデルによる計算結果には大きな差異は生じないことが明らかとなり、実用的には簡易圧縮性モデルで良いとの感触を得ている。 第7章では、より複雑な3次元モデル火災室内の高温自然対流に関する実験について述べている。既往の火災分野の実験では、流速を測定することが困難であるため、温度のみが測定されていることが多いが、本実験ではレーザードップラー流速計と線径12mの極細熱電対を用いて平均流のみならず、レイノルズストレスや乱流ヒートフラックス等の各種乱流統計量も詳細に測定している。この実験により既往の火災分野の研究では測定されていない各種乱流統計量が明らかにされている。 第8章では第7章に述べられているモデル火災室の高温自然対流の実験を対象とした数値シミュレーションを行っている。モデル火災室内では温度成層により鉛直方向の乱れが抑制され、流れ場が層流化している領域が見られたため、圧縮性モデルに浮力ダンピング効果を考慮した低Re数型モデルを組み込んで解析を行っている。計算結果は実験結果と概ね良く対応し、このような複雑な3次元の高温流れ場に対してもかなりの精度で予測が可能であることが示されている。 第9章では、全体のまとめを行っており、本研究の成果とフィールドモデルの実用化に向けての今後の課題が総括されている。 |