学位論文要旨



No 212688
著者(漢字) 西井,淳
著者(英字)
著者(カナ) ニシイ,ジュン
標題(和) 神経振動子結合系による運動指令の学習・生成の数理モデル
標題(洋)
報告番号 212688
報告番号 乙12688
学位授与日 1996.02.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第12688号
研究科 工学系研究科
専攻 計数工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中野,馨
 東京大学 教授 甘利,俊一
 東京大学 教授 吉澤,修治
 東京大学 助教授 合原,一幸
 東京大学 助教授 石川,正俊
内容要旨

 生体の多くは運動指令,音声信号などの様々な時系列パターンの学習・生成を行なうことが出来る.このような生体の時系列信号の学習・生成メカニズムに関する研究は,多くの神経細胞の活動に関わる研究なので神経生理学実験は一般に困難であり,糸口を見つけるべき数理モデルの研究もその数学的解析の困難さのためほとんど進んでいない.神経回路網モデルで時系列信号を学習する方法も提案されているが,誤差逆伝播法に基づく生体には考えにくい仕組みを必要とするものがほとんどである.

 そこで本論文では,歩行・遊泳といった基本的な運動パターンの運動指令を発生するCentral Pattern Generator(CPG)をはじめとする生体の様々な器官で神経振動子結合系の存在が報告されていることに注目し,振動子結合系に関する制御・学習モデルを構築することにより,生体が運動指令などの時系列信号を学習・発生するメカニズムを解明することを目標とする.すなわち,従来の神経回路網モデルは非線形写像や安定点を持つ一次遅れ系といった静的な素子を基本要素とする回路網による情報処理を議論してきたのに対し,本研究は振動子という動的な素子の回路網における計算理論を考察することによって生体における学習メカニズムの解明を行なう.従来の神経回路網モデルが静的なパターン変換能力に優れているのに対し,本研究で扱う回路網は時系列信号の学習・発生に有利であると考えられる.以下,本論文の構成に沿ってその概要を述べる.

 まず,第1章「はじめに」では,以上に述べたような本研究の背景と位置づけを踏まえ,目的及び方法論を論じている.

 第2章「ヤツメウナギのCPGの制御・学習モデル」では,ヤツメウナギのCPGを生体における神経振動子結合系の具体例として取り上げ,その制御・学習モデルを提案する.ヤツメウナギなどの多くの魚類は体をうねらせて遊泳を行なう.遊泳速度は体をうねらす周波数に応じて変化するが,遊泳パターンの特徴として,体のうねりの一波長が周波数によらずほぼ一体長に等しいことが知られている.この遊泳のための運動指令は神経振動子結合系であるCPGで生成されていることが知られている.ここでは,ヤツメウナギのCPGにおいては,CPG内の神経振動子間の信号伝達をする介在ニューロンの信号伝達時間が,周波数によってCPGの発火パターンに大きな影響を及ぼしうることを解析的に示し,その信号伝達時間を無視して議論する従来の数理モデルではCPGが周波数によらない一定の発火パターンを生成できることを説明できないことを指摘した.そして,一定の発火パターンを生成するにはCPGに対する高次中枢からの制御機構を考える必要があることを指摘し,高次中枢がCPGからの遠心性コピーの相関に基づいて制御信号を送ることによって適切な発火パターンを実現できることを数理モデルとして示した.このモデルは,(1)ヤツメウナギのCPGの尾部に存在する巨大介在ニューロン(Giant Interneuron)がCPGの様々な位相のときに発火して脳幹に信号を送ってること,およびCPGの頭部付近の活動が脳幹からCPGに投射している神経細胞の活動に影響を及ぼしていることが,CPGへの制御信号の生成に有効に働きうることを説明するモデルである.また,(2)振動子鎖とみなせるCPGの頭部(中心部に比べて他の振動子からの入力の数が少ないと考えられる部分)に制御信号を送ると,振動子鎖の境界条件を定めることになるので振動子全体の位相関係を制御する上で有効であることを示し,ヤツメウナギが様々な遊泳パターンを発生する時に首に相当する部分が重要な働きをしているようだとするGrillnerらの観察結果を理論的に支持するものである.さらに,単離したCPGも通常発生する運動指令を生成する能力があることが神経生理学実験によって報告されていることに基づき,「下位の運動サブシステムの構造は入力信号の影響が小さくなるように変化する」という学習スキーマを提案した.

 第3章「位相振動子結合系における教師信号の学習」では,振動子結合系の学習方法として,教師信号が与えられる場合について議論する.ここでは振動子として位相振動子を考え,個々の振動子に対して教師信号が強制振動項として与えられる場合に,与えられた信号の位相パターンを学習するためのパラメータ(固有周波数,結合係数)の学習則を提案し,学習・想起の条件を議論する.提案した学習則はヘッブ則のように局所的な情報に基づく相関学習の形で与えられ,CPGが高次中枢や反射系から教師信号を与えられる時,その信号を出力できるようなパラメータを獲得するための学習モデルとして有効なものと考えられる.

 第4章「評価関数に基づく振動パターンの学習」では,振動子結合系において,教師信号は陽には存在せず,各振動子間の位相差に関する評価関数が与えられる場合に関して位相パターンを学習するための学習則を提案する.ここでも振動子としては位相振動子を用い,パラメータの学習則はヘッブ則のように局所的な情報に基づく相関学習の形で与えられる.また,ここで提案した学習則を物理系の学習制御に応用すると,制御対象からのフィードバック信号の学習を行なうことにより,物理系のダイナミクスに関する知識がなくても,歩行速度といった運動の評価に基づく運動パターンの学習が行なうことができる.提案した学習モデルの有効性は,0本脚ロボットやホッピングロボットのシミュレーション実験および,一次元ホッピングロボットの試作実験等を通じて確認した.神経生理学実験においても,物理系からCPGへのフィードバック信号がCPGの発火パターンに大きな影響を及ぼしていることが知られており,生体が運動学習を行なう時には,まずフィードバック信号の調節によりある程度望ましい運動パターンを実現し,制御対象のダイナミクスを獲得した後に,運動指令の調節を行なっていると考えられる.

 第5章「神経振動子に関する学習則」では,第3章,第4章で提案した位相振動子結合系に関する学習則をホップ型の非線形振動子結合系に適用する方法を考え,その結果をもとに神経振動子結合系に関する学習則を導出し,その有効性をシミュレーション実験によって確認した.導かれた結合重みに関する学習則は,生理学的には前シナプス細胞の活動度と,後シナプス細胞へのシナプス流量の相関に基づく学習を行なっていると解釈できる.この学習則は,特定の神経振動子に関して導かれたErmentrout & Kopell(1994)の学習モデルを一般化した形になっており,ヘッブ則の改良版として提案された教師無し学習のSutton-Bartoモデル(1982)を教師あり学習に拡張した形になっている.周波数の学習に関しては,シミュレーション実験では振動子のダイナミクスの時定数の学習をかわりに行なった.これは神経振動子の時定数を決めるような化学環境の調節を行なうことに相当すると考えられる.このように,ここで導出された学習則は生体の学習モデルとして妥当なものと思われるが,さらに神経生理学実験結果に基づく妥当性の検討を行なっていく必要がある.

 第6章「振動子ネットワークによる周期波形の学習」では,提示される周期信号を振幅成分も含めて学習するモデルとして振動子ネットワークを提案する.振動子ネットワークは振動子結合系と出力細胞により構成され,振動子結合系は第5章までに提案した教師信号に基づく学習則でパラメータの学習を行なう.出力細胞は各振動子からの入力の線形和を出力し,各入力の結合重みは教師信号と出力の自乗誤差が小さくなるように学習を行なう.学習により各振動子の固有周波数は教師信号の周波数成分のうち初期値に近いものに収束するので,初期状態で様々な固有周波数を持った振動子が存在すれば,教師信号の各周波数成分を学習することができる.強制振動の各周波数成分の振幅及び位相の調節は,振動子から出力細胞への結合重みの調節で行なわれる.すなわち,各振動子の出力が正弦波であり,直交する2つの信号が各振動子から得られる場合には,フーリエ級数による周期信号表現を行うことと等価になり,任意の信号を表現できることになる.

 第7章「おわりに」では,本論文の総括と結論を述べる.本論文では神経振動子結合系に関する制御および学習モデルを提案した.神経振動子結合系に関する制御モデルとしてはヤツメウナギのCPGを取り上げ,適切な運動パターンを発生するための制御機構の数理モデルを提案し,高次中枢がCPGからの遠心性コピーの相関に基づいて制御信号を送ることによって適切な発火パターンを実現できることを数理モデルとして示した.学習モデルとしては,神経振動子結合系に関する学習則を提案し,誤差逆伝播といった手法を使わなくても単純な相関学習則によって教師信号や評価関数に基づく学習を行なえることを明らかにした.また、提案した学習則を用いると,物理系の学習制御が対象のダイナミクスが未知でも行なえることを示した.これらの制御モデルや学習則の生体のモデルとしての妥当性を生理学実験によって検証していくことが今後の課題である.

審査要旨

 本論文は,「神経振動子結合系による運動指令の学習・生成の数理モデル」と題し,七つの章からなる.

 生体の多くは運動指令,音声信号などの様々な時系列信号の学習・生成を行なうことが出来る.さまざまな生理学実験によって,生体には,歩行・遊泳といった基本的な運動パターンの運動指令を発生するCentral Pattern Generator(CPG)その他の器官に神経振動子結合系が存在することが報告されている。本論文は,その事実に注目し,振動子結合系を基礎とする数理モデルを構築し,それを検討することによって,生体が運動指令などの時系列信号を学習・発生するメカニズムを解明することを目的としている.

 脳などの高次中枢における学習メカニズムのうち,静的な認識等については,非線形写像や安定点を持つ一次遅れ系といった静的な素子を基本要素とする神経回路網モデルを用いて議論されてきたが,時系列信号の学習・生成メカニズムに関する研究はあまり進んでいなかった.本論文は神経振動子という動的な素子に注目することによって,神経振動子結合系が目的に応じた運動指令を発生するための制御機構のモデル,および,望ましい運動指令などの時系列信号を学習するための学習モデルを提案し,これに基づいて細胞間のシナプス効率の学習則モデルを導いてその有効性を実験的に検証している.

 以下,本論文の構成に沿ってその概要を述べる.

 まず,第1章において,本研究の背景や位置づけを踏まえ,目的及び方法論を論じている.

 第2章では,ヤツメウナギのCPGを生体における神経振動子結合系の具体例として取り上げ,その制御・学習モデルを提案している.その中で,CPGから得られる信号間の相関に基づいて,高次中枢がCPGへ制御信号を送ることにより,遊泳の速度に応じた望ましい運動指令をCPGが発生できることを数理モデルとして示した.さらに,生体から単離したCPGも,通常の遊泳時に観察される運動指令を発生する能力があることが神経生理学実験の結果として報告されていることに基づき,「下位の運動サブシステムの構造は入力信号の影響が小さくなるように変化する」という学習スキーマを提案した.

 第3章では,位相振動子結合系において,望ましい出力信号が教師信号として与えられる場合について,その位相パターンを学習するための学習則を提案している.提案された学習則は,ヘッブ則のように局所的な情報に基づく相関学習の形で与えられ,CPG等が高次中枢や感覚器から教師信号を与えられる時,その信号を出力するようなパラメータを獲得するための学習モデルとして妥当なものと考えられる.

 第4章では,位相振動子結合系において,教師信号は陽には存在せず,各振動子間の位相差に関する評価関数が与えられる場合に関して位相パターンを学習するための学習則を提案している.ここでも,学習則はヘッブ則のように局所的な情報に基づく相関学習の形で与えられる.また,ここで提案した学習則を物理系の学習制御に応用すると,制御対象からのフィードバック信号の学習を行なうことにより,物理系のダイナミクスに関する知識がなくても,歩行速度といった運動の評価に基づく運動パターンの学習を行なうことができることを示すとともに,その有効性を,ホッピングロボット等のシミュレーション実験および,一次元ホッピングロボットの試作実験を通じて確認している.

 第5章では,第3章,第4章で提案した位相振動子結合系に関する学習則を神経振動子結合系に適用し,その結果をもとに神経細胞のシナプス効率の学習モデルを提案して,その有効性を物理系の学習制御等のシミュレーション実験により確認している.導かれた結合重みに関する学習則は,生理学的には前シナプス細胞の活動度と後シナプス細胞へのシナプス流量の相関に基づく学習を行なっていると解釈できる.

 第6章では,提示される周期信号を振幅成分も含めて学習するモデルとして振動子ネットワークを提案し,誤差逆伝播法といった生体に考えにくい学習法を用いることなく,単純な相関学習則で時系列信号を学習できることを示している.

 最後に第7章では,本論文の総括と結論が述べられている.

 以上要するに,本論文は中枢神経系が運動指令を学習・発生するためのアルゴリズムを,神経振動子という機能単位に注目して考察することによって数理モデルとして定式化したものである.本論文の成果は,従来あまり研究の進んでいなかった,生体における運動指令などの時系列信号の発生・学習メカニズムに関する数理モデルを提案するとともに,物理系の学習制御や人工神経回路網による時系列信号学習の新たな手法を提案するものであり,生体工学および情報工学の研究に貢献するところが大きい.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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