関志雄氏から提出された博士論文Economic Interdependence in the Asia-Pacific Regionは序章に当たる展望を含む9つの章から構成されている。それらのほとんどは、氏が現在在籍している野村総合研究所における研究調査の一環としてとりまとめられたものであり、全体としての印象は、良い意味でも悪い意味でも調査研究の色彩が濃厚に読み取れる。
提出論文の概要 第1章(An overview)はこの論文の展望であるが、同時にアジアのマクロ経済のパフォーマンス、および相互連関の推移を統計に基づいて概観している。
第2章(Balance-of-payments imbalances and exchange-rate realignment)は一国の貿易収支の長期的な変動を、一種の「ライフ・サイクル仮説」に立脚して説明している。この仮説によれば、貿易収支の状況は「若い債務国」、「成熟した債務国」、「債務削減国」、「若い債権国」、「成熟した債権国」、「資産消費国(asset liquidator)」の6つの段階に分類できる。関はこの分類法に基づき、為替レートの変動の影響やそれがもたらす「雁行形態」の貿易構造に視点を絞って、アジア経済の近年の推移を展望している。
第3章(Exchange-rate realignment and short-term economic fluctuations)は関論文の核となる分析の一つが提示されている。すなわちアジア諸国を、比較的貿易構造が日本のそれと類似しているNIEsと、貿易構造が日本のそれと補完的であるASEAN諸国に二分し、それらが為替レートの変動から非対称的な影響を蒙ることを強調している。NIEsは円ドル・レートの上昇(円高)からプラスの影響を受け、実質成長率を高める。それは円高がそれらの国々の輸出品の海外市場での競争力を高め、また交易条件を改善するからである。一方、ASEANは円高からマイナスの影響を受ける。それらの国々は日本への原材料・鉱物資源の輸出などに強く依存しているからである。関論文では、単純なモデルで開放された小国の交易条件と労働市場の均衡の関係を分析し、かつ実質GNP成長率と為替レート、あるいは交易条件の関係を統計的に調べ、NIEsとASEANで上に述べたような(主に1970年代後半から90年代初頭までの期間について)非対称性が見られることを確かめている。
第4章(An optimal peg for the Asian currencies)は、アジア各国が実質成長率を安定化させるという政策目標に照らして、どのような為替レート政策を採用するのが望ましいかを検討している。この章の分析は一国の実質GNP(y)が交易条件の上昇からプラスの影響を、実質賃金率上昇からマイナスの影響を受けるという仮説から出発するモデルに基づいて、yの変動を小さくする上で、当該国が為替レートをドルのペッグすべきか、それとも円にペッグすべきかを分析する。NIEsのように日本と競合する製品輸出が重要であるような諸国は、円レートにリンクさせて自国通貨レートを変動させることが望ましい。この結論が得られる理由を大まかに説明すれば以下のようになる。円高(円安)は当該国の輸出品価格を上昇(下落)させ、交易条件を改善(悪化)する。このためにyは上昇(下落)する圧力を受ける。この影響を除去ないし緩和するためには、自国通貨を円高(円安)に合わせて切り上げ(切り下げ)、国内物価水準を下落(上昇)させ実質賃金率を上昇(下落)させることが適切である。一方、ASEAN諸国は総じて、日本への輸出に依存し補完的な貿易構造を持っているので、上のような議論は妥当しない。むしろ自国通貨を円レートにリンクさせれば、円高がもたらすデフレ的影響が交易条件の画でも、国内の実質賃金の面でも現れてしまう。この章では、韓国を例にとって、交易条件の円ドル・レートに関する弾力性、実質生産の交易条件関する弾力性、輸出価格(および実質賃金)の円ドル・レートに関する弾力性、実質生産の実質賃金に関する弾力性を推計し、そこから韓国ウオンが円とどの程度リンクすべきかを計算している。関氏の推計によれば、ウオンは円ドル・レートの変化の75%で変化させるべきである。
第5章(The flying-geese pattern of changing trade structure)はアジア諸国の貿易構造の変化を比較優位の変遷を軸に分析している。この視点は赤松要教授が提唱した「雁行形態論(Flying-geese hypothesis)」の応用である。経済発展と貿易構造との関係は、発展初期の導入段階(農産物、鉱物資源の輸出)、輸入代替製品の生産、労働集約的製品の輸出(若いNIE段階)、資本集約的製品の輸出(成熟NIE段階)、直接投資と資本集約的製品の逆輸入(成熟工業国段階)という段階を辿るという通説を解説した後、産業の特化指数(製品の輸出超過額を輸出入合計で割った比率)を基準としてアジア各国の発展段階を調べている。この分析では、日本、およびシンガポールが現在、成熟した工業国段階に達しているのに対し、韓国、台湾、香港が成熟NIEの段階に達している。
第6章(Deepening intra-regional interdependence)はアジア経済の域内交易の高まりと、対アメリカ貿易の重要性低下を分析している。まず簡単な統計に基づいてアジアの域内交易の重要性が1980年代を通じて序々に上昇してきたことを指摘した後、その結果としてアジア地域(ASEANとNIEs)の実質経済成長率とアメリカのそれとの相関関係が80年代後半に有意に低下したことを明らかにしている。また日本とアジア諸国、とりわけNIEsとの相互依存的関係の高まりが強調されている。この関係は為賛レートの変動を媒介として次のように説明されている。円レートの増価は第3章で示したように、NIEsの製品の国際競争力を高め、それらの国の輸出を増加させる。一方、NIEsが輸出を拡大するためには、日本からの資本財や中間財の輸入を増加させなければならない。かくして、円レートの上昇(下落)とNIEsの輸出拡大(縮小)、日本からNIEsへの輸出拡大(縮小)という相互連関が生み出されたというわけである。アメリカ、ヨーロッパなど他の地域への日本の輸出は円レートの上昇とともに縮小する傾向を示すので、円高にともなうNIEsへの輸出拡大は日本にとって輸出のビルトイン・サタビライザーの役割を担っていると主張されている。
第7章(Expansion of new frontiers)はアジア経済圏のニュー・フロンティアとして、中国、その他の旧社会主義諸国経済の位置を分析している。まず中国、ヴェトナム、北朝鮮の経済開放政策の推移を簡単に展望し、次いでこれらの国々と他のアジア諸国との間の補完的関係の高まりが強調されている。この補完関係を経済発展戦略に利用しようとする試みが「南中国経済圏」、「東北アジア経済圏」、「拡大ASEAN」などの経済圏の形成であると説明されている。経済分析として興味深い点は、中国との経済関係の深化が香港経済に与えるインパクトに関する分析である。中国の開放政策の進展とともに、香港から中国への資本移動が急増する。その結果、香港における製造業製品を中心とする交易財の生産が縮小し、非交易財の生産が増加しなければならない。これは工業生産の空洞化(de-industrialization)である。一方、固定為替レート制度を採用している香港にとって、交易財の価格が外貨建てで外生的に与えられているので、非交易財生産の拡大を実現するためには、非交易財の国内価格を上昇させる必要がある。これは国内インフレをもたらす。つまり中国の市場経済化の進展は、香港の工業部門の空洞化と慢性的なインフレの危険をもたらしているのである。インフレを回避するために、香港は伸縮的な為替レート制を採用する必要がある。
第8章(The Asian economies in the 1990s)はアジア経済の今後に関する中期的な予測を行っている。アジア地域が今後も高い成長率を維持するための前提条件として、世界経済の安定的成長、アジア地域の政治的安定、各国国内の構造的政策調整(産業インフラ整備、所得格差の是正、労働条件の改善など)の成功を挙げた後、アジア地域をNIEs、ASEAN、中国の3地域に分け、これらの地域の1990年代に予想される成長率を代替的なシナリオの下で予測している。シナリオ分析は、それなりの面白さを持っているが、経済分析の側面が希薄であるのでここでは、立ち入った紹介は割愛する。
最終章の第9章(Formation of a yen bloc)は、アジア地域において円ブロック形成の可能性を巡る経済的分析である。円通貨圏の可能性を国際通貨に関する伝統的な理論に即して展望している。関氏によれば、これらの伝統的理論は通貨圏を構成するべきアジア諸国にとって、円との連関を深める誘因があるかどうかという視点を無視している。この問題点を踏まえて、アジア経済の相互連関の高まり、特にNIEsの貿易構造が急速に日本のそれに類似するようになるとともに、それらの国々にとって自国通貨と円との連動性を高めるメリットが高まっている(第4章の分析結果を参照)と主張されている。またミクロ的視点からも、アジア諸国の生産者にとって円と自国通貨の交換比率の安定化から大きな便益を得られると判断されている。以上の分析から関氏は、円が従来に増して国際通貨としての重要性をアジア地域において高めるであろうと予想している。
提出論文の評価 以上が、関志雄氏によって提出された博士論文の要約である。この論文のメリットとしては、現実の日本と東アジア東南アジアとの経済的・金融的連関の変容を非常に鮮明に捉えている点を挙げることが出来よう。とくに日本円レートの変動がアジア経済に及ぼす影響に関して、いわゆるNIEsとASEAN諸国に対称的なインパクトを与えていることを指摘している分析(第3章)は、関論文の非常に興味深く、かつ重要な貢献である。アジア経済圏における国際通貨としての円の役割に関しても、円を利用するアジア各国の立場に視点をおいて分析している点は重要である。
一方、デメリットとしては、各章を構成する理論的あるいは実証的分析に、やや深みを欠いている点を指摘できる。円・ドル為替レートを中心とする為替レート変動がアジア経済に及ぼすインパクトや、円を基軸とする経済圏の形成に関する見通し等について、この論文は興味深く、しかもバランスのとれた見方を提示しているが、その見方をサポートするより厳密な分析については、少々物足りないという感じを読者に与える。為替レートの変動、あるいは交易条件の変化が実物部門へ及ぼす影響に関する分析(第3章)、経済発展が貿易構造の変化を規定するありさまに関する理論分析(第5章)などは、出来合いの単純なモデルを巧みに利用していると言えるが、しかし分析の幅が限定されており、そこで得られている結論の一般性については疑問の余地が残されている。
またアジアにおける円通貨圏の形成の可能性に関する分析では、交易条件の変化が実物経済に与える攪乱を重視する一方で、金融的攪乱の可能性や、各国の金融政策運営の在り方については、十分な注意を払っていない点も関論文の限界であろう。たとえば、EMSの形成の背景として、ドイツ以外の各国の金融当局が自国通貨とドイツ・マルクの連動性を高めることによって、自国民からの信認を獲得しようとする動機が存在していたと考えられるが、関論文においては、このような側面は全く考慮されていない。
以上述べたように、関氏の理論的分析には多少物足りない面を否めないが、しかし近年のアジア経済の急速な発展と日本経済とのかかわりについて、非常に明確な問題意識をもって取り組んでおり、その実践的接近方法は十分高い意義を認められる。以上の評価を踏まえて、関志雄が提出した博士論文は、博士(経済学)の学位に値するものと認められる。