学位論文要旨



No 212700
著者(漢字) 内野,栄治
著者(英字)
著者(カナ) ウチノ,エイジ
標題(和) 原子吸光光度法を用いたラット組織中の各種元素濃度に関する研究 : 生理的体内分布および脳内分布と鉛暴露の影響について
標題(洋) Study on the Concentration of Some Elements in Rat Tissue Using Atomic Absorption Spectrometry : Physiological Distribution in Body and Brain,and the Effect of Lead Exposure
報告番号 212700
報告番号 乙12700
学位授与日 1996.02.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第12700号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 荒記,俊一
 東京大学 教授 高取,健彦
 東京大学 教授 宮下,保司
 東京大学 教授 金澤,一郎
 東京大学 教授 大内,尉義
内容要旨

 生体試料中の微量元素濃度を知ることは生体組織内での元素の役割を知る上でもまた元素の過剰もしくは欠乏による生体影響を評価する際に極めて重要である。

 近年、この種の分析法として、原子吸光光度法、誘導結合プラズマ原子発光光度法、蛍光x線分析法、放射化分析法、荷電粒子励起x線分析法などが採用されている。その中でも原子吸光光度法は比較的廉価でしかも元素特有の種々原子化の技術(フレーム、フレームレス、冷原子吸光法、水素化物発生法など)が開発され測定感度も高く最も多く利用されている。

 しかしながら,生体組織に含まれている元素を正確に測定する為には、試料調製を含めた前処理法について検討する必要がある。最近、この種の試料調製に凍結乾燥法が広く用いられているが、組織内の元素は、その化学形により減圧過程で揮散する可能性がある。一方、重金属の生体への影響を検討する場合、使用する動物の種、齢、性はその実験結果を評価する際極めて重要である。しかも有害元素の影響は一般的には高濃度短期暴露による方法がとられているが、低濃度長期暴露の方がより現実的であり、その重要性が指摘されている。また近年、その影響は生体内での目的元素のみならず他の元素すなわち必須元素との相互作用の結果も無視出来ないものと考えられ、他元素も併せて測定する試みがなされている。

 本論文では、上記の点を考慮し原子吸光光度法を用い、まず測定法上の問題として、1)ラット肝臓を凍結乾燥する際の10元素(鉄、亜鉛、銅、マンガン、コバルト、カドミウム、水銀、ヒ素、鉛およびセレン)の安定性、2)基本的、生理的および標準データ入手を目的として、ラットの各成長段階(1、22、50、72、127、237および364日齢)における、主要臓器(肝臓、腎臓および脳)中の各種元素(鉄、銅、亜鉛、マンガン、水銀、カドミウムおよび鉛)濃度の加齢、性差による変動と併せて、3)より詳細な基本的、生理的および標準データとして、ラット脳各部位(大脳、小脳、延髄、中脳、海馬、線条体および視床下部)における鉛、鉄、亜鉛および銅の濃度と分布について調べた。以上の標準データの応用として、4)ラットに鉛を暴露した際の吸収量対健康影響の定量的な関係について検討を加えた。

 本論文の特長は、ラット肝臓を用いて種々の元素を対象とした分析法を確立し、これまで断片的にしか報告されていなかったラット組織中の7元素の加齢、性による変動を明らかにしたことと、これまでほとんど知見の得られていなかった鉛暴露の際、どの程度で中枢神経障害を起こすのがといった生体蓄積量対生体影響出現に至るのかといった点について明らかにしたところにある。

 その概要についてまとめると次のようになる。

 1)凍結乾燥法を評価する手段として、鉄は凍結乾燥法により予め揮散しないことが確認された為、同一試料群の凍結乾燥前後における各種元素量と鉄量の比を求めた。その結果、鉛を除く他の元素(亜鉛、銅、マンガン、コバルト、カドミウム、水銀、ヒ素およびセレン)は、信頼限界95%で、凍結乾燥処理過程で揮散しないことを明らかにした。一方、鉛も全体の8%がその過程で揮散したに過ぎなかった。以上のように、本実験に用いた試料中の10元素はなとえ揮散しやすい化学形のものが存在していたとしても、その割合は極めて小さいことを指摘した。

 2)動物組織中の元素濃度は、動物の生理的条件や内的および外的条件の変化によって、変動することが知られている。本論文では、実験動物として汎用されているラットを用い、その組織中の7元素(鉄、銅、亜鉛、マンガン、水銀、カドミウムおよび鉛)濃度が加齢、性によってどのように変動するか調べた。ラットはラミナーフローラック中、通常の飼料と水道水で最長1年間に渡って飼育し、各成長段階における主要臓器中のそれらの元素濃度を測定した。その結果、雌雄の腎臓中の銅、水銀およびカドミウム濃度は、雌の肝臓と腎臓での鉄濃度同様、離乳期から127日齢にかけて増加した。とくに雌の腎臓の鉄濃度と雌雄の腎臓中のカドミウム濃度は127日齢以降においても顕著に増加した。また、有害元素の一つと見られている鉛については、この条件下における鉛の蓄積性は認められなかった。一方、各種元素濃度の性による違いは、3種類の元素(鉄、銅、および亜鉛)に系統的に認められた。成長期(50〜72日齢)の肝臓中の亜鉛濃度を除いて成獣雌ラット(72〜364日齢)の鉄(肝臓と腎臓)、銅(肝臓、腎臓および脳)、亜鉛(腎臓)濃度は雄のそれらと比較しいずれも高い傾向を示した。正常ラット肝臓、腎臓、および脳の鉛、カドミウムおよび水銀濃度は正常なヒトのそれらと比較し極めて低いが、ヒト組織でよく測定されている鉛とカドミウム濃度の加齢に伴う変動パターンは両者の間で一致していた。

 これらの結果は、動物組織中に含まれている元素濃度を測定し、その値を評価する場合には、使用した動物の齢および性などの条件を十分に考慮することが必要であることを示しており、とくにラットを用いて各種元素の生物学的影響を長期間にわたって観察する際、極めて有用な知見になるものと思われる。

 3)鉛の中枢神経への影響を実験的に検討した際、対照群として用いた、いわゆる鉛を全く投与しない幼若(22日齢)と成熟(290日齢)ラット脳各部位毎の鉛、亜鉛、銅、及び鉄の濃度と分布を詳細に検討した。その結果、幼若期ラット脳中の鉛濃度は、成熟期のそれと比べて高い値を示し、とくに大脳皮質、線条体および小脳においては、その差が著しがった。また幼若期ラット大脳中の鉄濃度は成熟期のそれの約1/2の値を示し、幼若期ラット延髄中の亜鉛、銅濃度は成熟期のそれに比べ高い値を示した。一方、ラット脳組織各部位における鉛の濃度分布と、ヒトで得られているそれらと比較検討した結果、両者の間に極めて類似性があることから、ラットはその中枢神経障害のモデル動物として妥当であると考えた。また、脳組織各部位における各元素の相関について検討し、鉛と鉄の間で弱いながらも相関を認めた。これは正常なラットにおいてさえも、鉛は毛細血管の分布密度の高い脳部位に局在していることが示唆された。その他これまでに報告されている海馬中の亜鉛濃度等について比較し、異常に高い値を示したものについて分析化学的な面から考察を加えた。

 4)近年、鉛を小児期に摂取した場合、初診時には、鉛中毒と判定されなくても後年に微細な運動の障害や、情緒・行動の異常、知能障害などを示す例が注目されている。本論文では、体重に影響のでない比較的低濃度の鉛、すなわち0(蒸留水)、45、90および180g/g体重の濃度の酢酸鉛を生後3日齢より第21日齢まで1日1回ビニールチューブで経口投与し、次の3点、 a)最終鉛暴露の24時間と約10ヵ月後におけるラットの各組織(脳各部位、肝臓および腎臓)に残存する鉛濃度、 b)鉛投与が各組織内の鉄、銅および亜鉛濃度分布に与える影響、 c)行動中毒、病理組織学的な面からの生体影響に焦点を合わせ検討した。

 その結果、これまでほとんど知見の得られていなかった脳内の鉛の蓄積と分布と神経糸への影響との関係を明らかにした。最終暴露後24時間における脳内の鉛濃度は対照群では、海馬に最も高く、大脳皮質や小脳では比較的低かった。低濃度の投与群(45、90g/g体重)では線条体、大脳皮質、海馬の鉛濃度が高いが高濃度投与群(180g/g体重)では、脳の各部位に一様に蓄積し対照群に認められた部位による鉛の濃度差は消失した。肝臓と腎臓の鉛濃度は、 血中のそれとほぼ比例して増加した。なお、血中の鉛濃度は高濃度(180g/g体重)投与群は186±48g/100g、 90g/g体重では 152±39g/100g、低濃度(45g/g体重)投与群、対照群では、各々59±9g/100g、 10±2g/100gであった。また鉛投与群では、全血中の鉄、肝臓の銅濃度が有意に低い値を示した。また、鉛投与による脳内必須元素(鉄、銅および亜鉛)の動態を検討したが、本条件下では減少あるいは増加の一定の傾向は認められなかった。

 その生体影響については、本実験下では小児の鉛中毒でしばしば認められる昏睡、痙攣などの症状は外見上認められなかった。180g/g体重投与群では、Rota Tredmil(53〜58日齢)による平衡運動機能の低下や、正向反射(10〜17日齢)の発達遅延を認め、45g/g体重投与群でもOpen Field Test(57〜60日齢)や自発運動量測定装置(30〜36日齢)による動物の情動性のテストで、対照群と比較して有意の差を認めた。また、基本的な学習能力の指標としてのFR20と長期と短期記憶を要する比較的高度な学習能力としての指標であるDRL20(低頻度差別学習)は鉛投与による影響は認められなかった。次に、脳の各部位の機能と測定値の関係について考察し、情動性に影響を及ぼしていると思われる大脳、海馬および視床下部の鉛濃度は平均値として、それぞれ3.22,2.93および2.50g/g wet weight、平衡機能を司る小脳の鉛濃度が平均値として2.95g/g wet weightに達するとそれらの機能が低下することを指摘した。一方、行動実験から、海馬は鉛濃度が平均値として3.17g/g wet weightに達しても記憶に障害を与える程、ダメージを受けていないものと推定した。しかしながら、10ヵ月齢において、対照群も含めていずれの投与群においても、情動性のテストおよび平衡運動機能に有意な差は認められなかった。なお、その際の鉛投与群の脳中の鉛濃度は、対照群のそれとほとんど同じレベルであった。これらの事実から、本実験下では情動性および平衡運動機能は暴露中止後、時間の経過と共に脳内鉛濃度の減少に伴って回復することが示峻された。また病理組織学的には、光顕レベルの検索では、中枢神経のいずれの部位においても、鉛脳症でしばしば見られる出血斑や、毛細血管増殖などの所見は見いだされなかった。従って、この事実から、上記に観察された行動中毒学的な結果は、少なくとも光顕レベルで検出できる組織学的な損傷によってもたらされたものではないと考えられた。

審査要旨

 本研究はラット肝臓を用いて種々の微量元素を対象にした分析法を確立し、これまで断片的にしか報告されていなかったラット主要組織(肝臓、腎臓および脳)に含まれる7元素(鉄、銅、亜鉛、マンガン、鉛、カドミウムおよび水銀)の加齢と性による濃度変動と、これまでほとんど知見の得られていなかった幼若期(3〜21日齢)に比較的低濃度の鉛を曝露した際、どの程度で中枢神経傷害を起こすのかといった脳各部位の鉛の蓄積と神経系への影響について、ラットを用いて検討し、下記の結果を得ている。

 1.正確な分析値を得るため、凍結乾燥法の評価を試み、ラット肝臓の鉛を除く9元素(鉄、銅、亜鉛、マンガン、コバルト、カドミウム、ヒ素、セレンおよび水銀)はその過程で揮散しない(p<0.05)事が示された。一方、揮散した鉛も総量の8%に過ぎない事が示された。

 2.微量元素濃度と加齢との関係において、雌雄の腎臓の銅、水銀およびカドミウム濃度は、雌の肝臓と腎臓での鉄濃度同様、離乳期から127日齢にかけて増加し、特に、雌の腎臓の鉄濃度と雌雄の腎臓のカドミウム濃度は127日齢以降においても増加することが示された。一方、鉛の蓄積性は認められなかった。

 3.微量元素濃度の性による違いは、3種類の元素(鉄、銅および亜鉛)に系統的に認められ、成長期(50〜72日齢)の肝臓の亜鉛濃度を除いて成熟雌ラット(72〜364日齢)の鉄(肝臓と腎臓)、銅(肝臓、腎臓および脳)、亜鉛(腎臓)濃度は雄のそれらと比較し、いずれも高い事が示された。

 4.正常ラット肝臓、腎臓および脳の鉛、カドミウムおよび水銀濃度は正常なヒトのそれらと比べて極めて低いが、ヒト組織でよく測定されている鉛とカドミウム濃度の加齢に伴う変動パターンは両者の間でよく一致していた。

 5.幼若期ラット脳の鉛濃度は、成熟期のそれと比べて高く、特に大脳皮質、線条体および小脳において著しい事が示された。また、幼若期ラット脳の鉄濃度は成熟期のそれと比較して低いが、幼若期ラット延髄の亜鉛と銅濃度は成熟期のそれと比べて高い事が示された。

 6.正常なラットとヒトの脳各部位の鉛濃度分布には類似性があり、ラットはヒトの鉛による中枢神経障害のモデル動物になりうると考えられた。また、ラット脳各部位の鉛と鉄濃度の間に弱いながらも正の相関があり、鉛は毛細血管の分布密度の高い脳部位に局在している可能性が示された。

 7.正常なラット脳各部位の鉛濃度は海馬に最も高く、大脳皮質や小脳で比較的低かった。一方、低濃度投与群の鉛濃度は線条体、大脳皮質、海馬で高く、高濃度投与群では一様に蓄積し、部位による鉛の濃度差はなくなる事が示された。

 8.鉛投与による各種組織(肝臓、腎臓、脳各部位、全血および血漿)の必須元素(鉄、銅および亜鉛)の動態について検討し、全血中の鉄、肝臓中の銅濃度は有意に低くなるが、脳各部位の必須元素濃度は変化しない事が示された。

 9.本条件下では小児の鉛中毒でしばしば認められる昏睡、痙攣などの症状はないが、情動性の異常は低濃度投与群でも認められた。また平衡運動機能の低下や正向反射の発達遅延が高濃度投与群で認められた。更に基本的な学習能力や高度な学習能力についても検討したが、その影響は何れの投与群でも認められなかった。

 10.行動実験、脳の各部位の機能および鉛濃度との関係から、情動性と関連していると思われる大脳、海馬および視床下部は鉛濃度がそれぞれ3.22、2.93および2.50g/g wet weight、平衡機能を司る小脳はその濃度が2.95g/g wet weightに達するとそれらの機能が低下する事が示された。一方、海馬はその濃度がたとえ3.17g/g wet weightに達したとしても、記憶に障害を与える程ダメージを受けないと考えられた。

 11.10ヵ月齢における情動性や平衡機能および脳内鉛濃度の測定結果から、これらの機能は脳内鉛濃度の減少に伴い回復する事が示された。

 12.病理組織学的な光顕レベルの検索では、鉛脳症でしばしば見られる出血斑や、毛細血管増殖などの所見は見られず、本条件下で認められた結果は、少なくとも光顕レベルで検出できる組織学的な損傷によるものではないと考えられた。

 以上、本論文は実験動物として汎用されているラットを用い、各成長段階における主要組織の各種微量元素濃度の標準的なデータを提供し、それらの濃度は加齢と性により種々異なって変動する事が示された。また鉛を幼若期に摂取した場合、後にその影響が神経系の疾患として現れる際の量一反応の定量的な関係について明らかにした。本研究は特に、鉛を小児期に摂取した場合、後年に観察される微細な運動障害、情緒の異常、知能障害などの中枢神経障害の解明に、重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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