学位論文要旨



No 212704
著者(漢字) 服部,峰子
著者(英字)
著者(カナ) ハットリ,ミネコ
標題(和) 分裂病におけるニューロトロフィン3遺伝子の変異
標題(洋)
報告番号 212704
報告番号 乙12704
学位授与日 1996.02.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第12704号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松下,正明
 東京大学 教授 芳賀,達也
 東京大学 教授 三品,昌美
 東京大学 教授 金沢,一郎
 東京大学 助教授 中堀,豊
内容要旨 はじめに

 家系研究、ふたごの研究、養子研究など臨床遺伝学研究の結果から、精神分裂病の成因に遺伝が関与していることは明らかである。近年の分子遺伝学の急速な進歩によって、原因が不明の分裂病においても分子遺伝学的手法を用いて、病因解明の糸口がつかめるとの期待がたかまってきている。

 精神分裂病の病態仮説の代表的なものはドーパミン仮説である。これは、分裂病の急性期の症状に有効な抗精神病薬がドーパミン受容体を遮断することから、精神分裂病の病態には脳内ドーパミンの過剰活動が関与しているというものである。この仮説に従って、精神分裂病と関係するドーパミン受容体遺伝子多型ないし変異が探求されているが、現在のところ成功していない。

 もうひとつの有力な仮説は神経発達障害仮説である。これは胎生期の神経細胞構築の異常を精神分裂病の病因とするもので、精神分裂病の画像所見や死後脳の病理所見などが根拠になっている。すなわち、画像所見では分裂病者では脳室の拡大、側頭葉、特に海馬の萎縮が指摘されている、また死後脳の病理所見では特に海馬付近でグリオーシスを伴わない(すなわち胎生期起源を推定させる)神経細胞の脱落、神経細胞の配向不整、細胞数の減少、細胞密度の減少がみられ、ミエリン化の異常が考えられている。これらの脳の構造異常は、神経発達段階における神経細胞の分化、誘導、突起伸展、生存維持などの神経発生過程における異常が原因であると考えられている。すなわち脳の発達段階の初期にその起源を持つと考えられる。これらの所見はとりわけ男性、早期発症、長期経過をとる重症分裂病によくみられるとされている。

 神経栄養因子は中枢神経系の神経細胞の増殖、分化、誘導、生存維持などの神経発生過程に重要な役割を果たすもので、その中のひとつにNGFファミリーがある。現在までに知られているNGFファミリーの中のひとつであるニューロトロフィン3(NT-3)は中枢神経系ではとくに海馬や新皮質などの未成熟な部分、すなわち神経細胞の増殖、分化、誘導が盛んにおこっているところに発現している。その遺伝子発現の時期は神経細胞発生の最盛期に一致しており、ヒトでは脳皮質の発生時期は胎生40日目から125日目の間と推定されている。さらにそれは脳内では、また他の組織中と比べても、新生児の海馬で一番多く発現している。したがってNT-3は精神分裂病の神経発達障害仮説に基づく候補遺伝子のひとつと考えられる。

 我々はすでにNT-3遺伝子の第一イントロンに2塩基繰返し配列を発見し、これが多型を示すことを報告した。さらにその多型のうちアリルA3が精神分裂病と関連することを見出した。この所見は2塩基繰返し配列多型の近傍に精神分裂病の病因に関与する遺伝子の変異が存在する可能性を示唆している。そこで本研究では、すでにあきらかにされているNT-3遺伝子の塩基配列をもとに、アミノ酸コード領域とプロモーター領域のAP-1結合部位およびTATAボックスを含む領域の多型を検索し、その多型と精神分裂病との関連を検討した。

対象と方法対象

 対象は帝京大学医学部附属病院精神科に通院中の分裂病患者158名(男77名、女81名)である。診断は米国精神医学会診断基準DSM-III-Rに基づいておこない、これとともに発症年齢、罹病期間、家族歴などを調べた。対照群は一般集団の101名(男51名、女50名)である。患者群の年齢は17歳から63歳(平均年齢は35歳)で、対照群の年齢は21歳から55歳(平均年齢28歳)であった。対象に研究の趣旨を説明し、文書にて同意を得た。なお本研究は帝京大学医学部医学研究倫理委員会の承認を得ておこなわれた。

方法

 末梢血より採血し、フェノール法でゲノムDNAを抽出した。アミノ酸コード領域とプロモーター領域のAP-Iタンパク結合部位とTATAボックスを含む領域を特異的ブライマーをもちいてPCR法で増幅後、1本鎖高次構造多型法(SSCP法)および制限酵素断片長多型法(PCR-RFLP法)によって変異を検索した。SSCP法で泳動に差が認められた例やPCR-RFLP法で変異が認められた例では、直接塩基配列決定法で変異を確定した。

結果

 アミノ酸コード領域に3つの多型を検出したが、ブロモーター領域には多型はみられなかった。多型1はマイナス63番目のアミノ酸であるグリシンのコドンの第2番目の塩基GがAにかわり(GGG→GAG)、グリシンがグルタミン酸に変化するミスセンス変異であった(Gly-63→Glu-63)。多型2はマイナス55番目のアミノ酸であるプロリンのコドンの第3番目の塩基AがGになったサイレント変異であった(CCA→CCG)。多型3は65番目のアミノ酸であるアスパラギンのコドンの第3番目の塩基CがTになったサイレント変異であった(AAC→AAT)。多型1と多型2は特異的プライマーで増幅後、制限酵素HaeIIIとMspIでそれぞれ消化切断して同定した。多型3はアリル特異的PCR増幅法(PASA)で同定した。3つの多型について対照群の遺伝子型の頻度を調べ、多型情報量(PIC)やヘテロ接合率を計算した。いずれの変異もハーディー・ワインベルグの法則に一致していた。またそれらの多型について分裂病群と健常対照群の間のアリルの頻度と遺伝子型の頻度を比較検討した。その結果いずれの多型についても分裂病群全体としては両群の間に有意差はなかった。また、2塩基繰返し配列多型のアリルA3と関連する変異は今回の研究では検出できなかった。神経発達障害仮説は早期発症で長期経過をとる重症分裂病に多いとされているので早期発症(≦25歳)、罹病期間10年以上の分裂病患者61名を選んだところ、変異型アリルGlu-63をヘテロ接合体ないしホモ接合体でもつ個体の頻度が対照に比べ有意に高かった(P=0.004,2=8.290,df=1)。その相対危険度は2.595倍であった(95%信頼区間(CI)、1.356-4.966)。

考察

 NT-3遺伝子の全塩基配列はまだ決定されていない。しかしそれには長、短、2種類の前駆体が存在し、両者とも合成されたのち蛋白質分解を経て119個のアミノ酸からなる活性型に変化すると考えられている。本研究では短い前駆体をコードする領域(長い前躯体の一部でもある)に3つの変異を検出した。その中のひとつマイナス63番目のアミノ酸であるグリシンがグルタミン酸に変わるミスセンス変異のある領域は、NT-3の前駆体から生理活性をもつ2量体(ホモダイマー)になるまでの一連の生成過程で重要な役割を果たすと考えられている領域である。

 2塩基繰返し配列多型をDNAマーカーに用いた我々の先行研究ではアリルA3は精神分裂病と有意の関連があったが、今回検出した3つの変異のいずれも分裂病群全体としては病因との関係は明らかではなかった。先行研究と本研究の結果の不一致については3つの可能性が考えられる。ひとつは前回の所見は偶然の有意の関連の結果である可能性であり、第2番目はNT-3遺伝子には分裂病の病因である変異が存在するが、今回の研究ではそれを見落としたかまたはまだ塩基配列の決定されていないところにその変異は存在する可能性、第3番目は分裂病の病因遺伝子は用いたDNAマーカーと連鎖不平衡にある他の遺伝子である可能性、である。

 次に神経発達障害仮説に基づいて患者を重症分裂病に限ると、変異型アリルGlu-63をヘテロ接合体ないしホモ接合体でもつものの頻度が高く、その相対危険度は2.595倍であった。この結果は変異Glu-63は重症精神分裂病の病因のひとつである可能性を示唆している。変異Glu-63と重症分裂病の間に有意の関連が得られたのは、臨床症候群としてのひとまとめの分裂病群から、晩期発症型、あるいは、マンフレッド・ブロイラーの分裂病経過の分類のなかの波状経過群のうち、波状・治癒型などを除外したからであろう。いいかえれば、晩期発症型や波状・治癒型は神経発達障害仮説が適合しない分裂病型であるといえる。分裂病の異種性が推定される場合、臨床症候群としてひとまとめの分裂病を亜型に分類することは、分裂病の分子遺伝学研究では必須であり、いかに分類するかは今後の重要な問題であろう。

 今後、変異Glu-63と重症分裂病の関連研究の追試および連鎖研究が必要であることはいうまでもない。さらに、他の神経栄養因子や神経細胞接着因子(NCAM)、N型カドヘリンなども神経発達障害仮説に基づく候補遺伝子として検討の余地があると考えられる。

審査要旨

 本研究は精神分病裂の病態仮説のひとつである神経発達障害仮説に基づいて、中枢神経系の発達に重要な役割を果たす神経栄養因子のひとつであるニューロトロフィン3遺伝子を取り上げ、その遺伝子の多型を検索し、さらに発見した多型を用いた分裂病の関連研究である.すでに見い出しているニューロトロフィン3遺伝子の2塩基繰返し配列多型のアリルA3と精神分裂病との関連を示唆した先行の関連研究をさらに進めたものであり、以下の結果を得ている.

 1.現在までに報告されているニューロトロフィン3遺伝子のアミノ酸コード領域とプロモーター領域のAP-1タンパク結合部位及びTATAボックスを含む領域のDNA塩基配列の解析の結果、アミノ酸コード領域に3つの多型を検出した.

 多型のひとつはマイナス63番目のグリシンのコドンの第2番目の塩基G(GGG)がA(GAG)にかわり、グリシンがグルタミン酸に変化するミスセンス変異であった(Gly-63→Glu-63).変異2はマイナス55番目のプロリンのコドンの第3番目の塩基AがGに変化したサイレント変異であった(CCA→CCG).変異3は65番目のアスパラギンの第3番目の塩基CがTになったサイレント変異であった(AAC→AAT).

 2.検出した3つの変異について健常対照群の遺伝子型の頻度(日本人集団での頻度)を決定し、多型情報量(PIC)やヘテロ接合率を算出した.

 3.それらの変異について分裂病群(158名)と健常対照群(101名)の間のアリルの頻度と遺伝子型の頻度を比較検討した結果、いずれの変異についても分裂病群全体としては両群の間で有意差はなかった.

 4.遺伝様式が不明で異種性が示唆されるなどの特徴を持つ精神分裂病においては、神経発達障害仮説は重症分裂病の病因をある程度説明できるので、患者群を早期発症(≦25歳)、罹病期間10年以上の重症分裂病群(61名)に限ることにより、変異Glu-63については統計的に有意の差があることが示され(P=0.004,X2=8.290,df=1)、変異型アリルGlu-63をもつひとの相対危険度はもたないひとに比べて 2.595倍であることが示された.(95% 信頼区間(CI)、1.356-4.966).

 以上、本論文は精神分裂病の神経発達障害仮説に基づいて、分子遺伝学的手法を用いたはじめての関連研究である.候補遺伝子として取り上げたニューロトロフィン3遺伝子の多型を検出し、それらの多型の日本人集団での頻度を確定した.検出したいずれの多型もアミノ酸コード領域に存在し、そのひとつはアミノ酸が変化するミスセンス変異であることなどから、精神科領域のみならず、他の領域においても分子遺伝学研究の重要なDNAマーカーとして価値を持つと考えられる.さらに、それらの多型と精神分裂病との関連を検討し、神経発達障害仮説のより適合する重症分裂病群で有意の差を得ている.本研究は近年、急速に進歩した分子遺伝学的手法を精神科領域の研究へ適用することにより、難病のひとつと考えられている精神分裂病の病因遺伝子の究明に示唆を与えると考えられ、学位の授与に値すると考えられる.

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