学位論文要旨



No 212707
著者(漢字) 大石,眞之
著者(英字)
著者(カナ) オオイシ,シンシ
標題(和) フタル酸エステルの精巣萎縮に関する研究
標題(洋)
報告番号 212707
報告番号 乙12707
学位授与日 1996.02.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第12707号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 清水,孝雄
 東京大学 助教授 横山,和仁
 東京大学 助教授 田島,惇
 東京大学 助教授 長尾,正崇
 東京大学 助教授 坂本,穆彦
内容要旨

 フタル酸エステルはプラスチックの可塑剤として広く使用されている。その中でもジ-2-エチルヘキシルフタレート(DEHP)は相溶性、耐揮発性、低温柔軟性などに優れているため、塩化ビニル樹脂に最大40%程度添加され、医療用プラスチック製品や、建築材料、食品容器、農業用製品等に多量に使用されている。これらの製品はディスポーザブル製品が多いため、廃棄されたプラスチックから漏出したDEHPが河川や土壌、大気を汚染し、さらには人体からも検出されるようになった。そこでDEBPの毒性について検討を行った。

 DEHPの亜急性毒性試験はラットを用いて行った。DEHPを1%および2%濃度で飼料に添加し、10日間摂取させた後、臓器重量の測定と血液、血清生化学、内分泌学的検査を行った。その結果既に報告されている肝臓への影響以外に、投与量が2%(1849mg/kg/day)以上では精巣の萎縮があることを始めて明らかにした。またこの萎縮には精巣のテストステロン濃度の増加を伴ったが、精巣中の総含量の増加はみられなかった。

 次にDEHPの示す精巣萎縮作用はフタル酸エステル類すべてに共通した性質であるかについて検討を加えた。即ちフタル酸(PA)、ジメチルフタレート(DMP)、ジエチルフタレート(DEP)、ジ-n-プチルフタレート(DBP)、ジイソブチルフタレート(DIBP)、ジ-n-オクチルフタレート(DOP)およびDEHPを2%添加した飼料を1週間ラットに摂取させた。その結果肝臓重量の増加はPA以外すべてのフタル酸エステルに見られ、肝臓に対する影響はフタル酸エステルに共通なものである可能性を示唆した。精巣に対してはDBP、DIBPおよびDEHPで重量の減少がみられた。精巣中テストステロンの上昇が萎縮を示したDBP、DIBP、DEHPで見られ、萎縮を示さないDMP、DEPでは減少した。血清中テストステロンはDMP、DEP、DEHPで減少した。また精巣の発達や精子形成に必要な因子とされている亜鉛の精巣中濃度は、萎縮を示したDBP、DIBP、DEHPで減少し、萎縮を起こさないDMP、DEPでは減少しなかったが、DOPでは減少した。

 フタル酸エステルは非特異的リパーゼによりジエステルの側鎖の一方が加水分解を受け、フタル酸モノエステルに代謝されることが知られている。そこで、フタル酸エステルの精巣萎縮作用はフタル酸エステルそのものかあるいはモノエステルで惹き起こされるのかの実験を行った。その結果ジエステルと同様にモノブチル(MBP)、モノイソブチル(MIBP)、およびモノエチルヘキシルフタレート(MEHP)でも萎縮を生じ、またモノオクチルフタレート(MOP)では萎縮を惹き起こさなかった。また精巣や血清テストステロン濃度の変化や亜鉛濃度の変化もジエステルの変化と同様な変化を示した。この結果はフタル酸エステルの萎縮作用は、その代謝物であるモノエステルで惹き起こされることを示した。またその萎縮作用はフタル酸エステルの側鎖の化学構造が関係し、C1〜C3の直鎖またはC8の直鎖アルキル基では生じないことを示唆した。

 ICR系マウスを用いた実験では、ラットで萎縮を惹き起こしたいずれのジエステルとモノエステルとも萎縮を惹き起こさなかったが、亜鉛濃度やテストステロン濃度には変化がみられた。しかし遺伝的起源が同一な別の系統であるCD-1マウスではDEHPを0.2%添加した飼料を摂取させることで萎縮が生じた。このことはフタル酸エステルの精巣萎縮作用には種差や系統差のあることを示唆した。またマウスの系統による感受性の差は、DEHPの毒力学的な差によることも示した。

 精巣萎縮は亜鉛やテストステロンの変化によって生じる以外に、精巣中のビタミンAや脂肪組成の変化によっても生じることが知られている。DEHP投与ラットについてこれらの点について検討を加えた。その結果ビタミンA濃度はDEHP投与では変化がみられなかったが、血清や精巣中脂肪組成は、去勢や亜鉛欠乏によって生じた精巣萎縮時の脂肪組成の変化と類似しており、これらの変化が萎縮に何らかの役割をはたしていることを示唆した。

 DEHP投与後のラット精巣の経時的変化は、投与3日後には重量の有意な減少がみられ、6日後では前立腺、10日後には精嚢も有意に減少していた。精細胞中の酵素活性では、減数分裂以後に特異的とされるラクテートデヒドロゲナーゼのアイソザイムX、ソルビトールデヒドロゲナーゼ、ヒアウロニダーゼの活性が3日目以後経時的に減少した。またセルトリ細胞と精原細胞に特異的な-グルタミルトランスペプチダーゼと-グルクロニダーゼの活性はDEHP投与で増加した。また亜鉛酵素であるアルコールデヒドロゲナーゼとアルドラーゼも活性が上昇した。これらの酵素活性が上昇したのはDEHPの影響を比較的受けない間質細胞やセルトリ細胞の相対的な増加によるものと考えられる。

 DEHPによる精巣萎縮は投与中止45日(1精子形成サイクル)では完全に回復されず、亜鉛濃度やテストステロン濃度も回復しなかった。しかし前立腺や精嚢重量は回復し、肝重量も対照群と差がみられなかった。

 DEHPによる精巣萎縮は精巣亜鉛濃度の変化を伴う。そこでDEHP投与と同時に硫酸亜鉛(亜鉛として9mg/kg)を経口的にまたは腹腔に投与した。その結果、投与経路に関わらず、また肝臓および血清中亜鉛濃度の上昇が見られたにも関わらず、精巣亜鉛は有意に減少しており、萎縮の防止もできなかった。これらの結果はDEHPの精巣萎縮作用は亜鉛の吸収阻害による精巣中亜鉛の減少によるものではないことを示した。また外因性の亜鉛は精巣に分布しずらいことも示唆した。

 DEHPによる精巣の萎縮は亜鉛の減少ばかりでなくテストステロンの変化もともなう。そのため精巣のヒト絨毛性ゴナドトロビン(hCG)に対する反応や黄体形成ホルモン放出ホルモン(LRH)やテストステロン負荷の実験を行った。その結果 hCG刺激によるテストステロン分泌はDEHPにより減少していた。またテストステロンやLRH負荷では精巣萎縮の生じないDEHP投与量でも萎縮が生じ、精巣亜鉛濃度の低下や酵素活性の変化等も見られた。この原因としてはテストステロンとDEHPの同時投与ではMEHPの精巣での半減期や組織濃度曲線下面積(AUC)の増加が推定された。

 精巣ミトコンドリアに対するDEHPの影響のin vitro実験では、MEHP、MOPともにstate 3呼吸を0.065mol/mlで阻害したが、DEHPとDOPは1.30mol/ml以上で始めて阻害した。またDEHPあるいはDOP投与6時間後の精巣より調製したミトコンドリアではDEHP投与群では、萎縮を起こさないDOP投与群よりstate 3呼吸と呼吸調節率が低く、DEHPまたはDOP投与後の精巣中の代謝物の半減期もDEHPの方が長かった。このことはDEHPによる精巣萎縮は亜鉛の減少や内分泌的な攪乱が直接の原因ではなく、DEHP(MEHP)の精巣での長い滞留時間がミトコンドリア呼吸を阻害し、精巣の萎縮を生じる可能性をうかがわせた。

 ヒトの精子減少症の治療にビタミンB12(特にその活性代謝物メチルコバラミン)が使われることがある。そこでビタミンB12の体内での活性代謝物であるメチルコバラミン(MeCbl)とアデノシルコバラミン(AdoCbl)のDEHPによる精巣萎縮への効果を実験した。その結果現在治療に使われているMeCblは効果がみられなかったが、AdoCblで組織学的にも生化学的にも萎縮の回復がみられた。AdoCblによる萎縮の回復作用は初めての報告である。しかしDEHP投与による精巣でのビタミンB12濃度の減少は見られなかった。この回復作用は精巣に特異的であり、血清生化学的検査や組織中金属濃度測定の結果から肝臓への保護効果はほとんど見られなかった。

 哺乳動物においてはAdoCblはメチルマロニルCoAムターゼの補酵素として作用し、メチルマロニルCoAからスクシニルCoAへの反応を触媒する。またこの反応が阻害されると生じるメチルマロン酸はミトコンドリアのstate 3呼吸を阻害することが知られている。DERP(MEHP)はこのAdoCblのメチルマロニルCoAムターゼに対する補酵素作用を拮抗的に阻害し、その結果生じるメチルマロン酸によりミトコンドリア呼吸が阻害されると推定された。さらにMEHPの直接的なミトコンドリア呼吸阻害作用も加わり、精巣の萎縮が生じるものと考えられる。

 以上述べたように本研究では、フタル酸エステルのうちDEHP、DBP、DIBPは通常の環境汚染レベルでは有害とは考えられないが、大量投与によりにより精巣に回復不能の傷害を起こすことを提唱した。

審査要旨

 本研究はプラスチックの可塑剤として広く使用されているフタル酸エステルの毒性、特にジ-2-エチルヘキシルフタレート(DEHP)の精巣に対する影響を明らかにするため、ラット及びマウスを用いて研究を行い、下記の結果を得ている。

 1. DEHPは2g/kg以上の経口投与または飼料添加量が2%以上ではラットにおいて精巣萎縮をもたらすことを明らかにした。この萎縮は精巣の発達及び機能維持に重要な役割を果たす精巣中亜鉛濃度の減少、精巣中テストステロン濃度の増加及び血清中テストステロン濃度の減少をともなうことを示した。

 2. フタル酸エステルの精巣萎縮作用はフタル酸にエステル結合している側鎖アルキル基の構造に依存しているか否かの実験を行ったところ、ジメチルフタレート、ジエチルフタレート、ジ-n-オクチルフタレート(DOP)では萎縮は生ぜず、ジ-n-ブチルフタレート、ジイソブチルフタレートでDEHPと同様な亜鉛の減少とテストステロンの変化をともなう萎縮が認められた。これらの結果はフタル酸エステルの萎縮作用はフタル酸に結合した側鎖アルキル基の構造に関係し、C1〜C3の直鎖またはC8の直鎖アルキル基では生じないことを示した。この構造に関係した作用は精巣特異的であり、肝臓に対する毒性はすべてのフタル酸エステルで発生することが示された。

 3. フタル酸エステルの主代謝物であるモノエステルが同様に精巣萎縮作用を示すか否かの実験を行ったところジエステルと同様にモノブチル、モノイソブチル、モノエチルヘキシルフタレート(MEHP)では萎縮を示したが、モノオクチルフタレート(MOP)では萎縮を示さなかった。これらの結果はフタル酸エステルの精巣萎縮作用は、その主代謝物であるモノエステルによることが示された。

 4. DEHPのマウス精巣に対する実験では、マウスの系統差により感受性に大きな違いがあることが示された。この感受性の差はDEHPの毒物動態学的な差によるものであることを示した。

 5. DEHPの精巣萎縮作用の回復実験を行ったところ、投与中止45日(1精子形成サイクル)では精巣重量、精巣亜鉛濃度及び精巣テストステロン濃度の回復はみられず、DEHPによる精巣傷害は非可逆的傷害である可能性を示した。

 6. DEHPと亜鉛の同時投与の経口または腹腔投与実験では肝臓及び血中濃度の上昇がみられたにも関わらず、精巣亜鉛濃度は有意に減少しており、精巣の萎縮も防止できなかった。これらの結果はDEHPの精巣萎縮作用は亜鉛の吸収阻害による精巣中亜鉛濃度の減少によるものではないことを示した。またテストステロンまたは黄体形成ホルモン放出ホルモンの負荷実験ではDEHPの精巣萎縮作用が増強された。この原因はテストステロンとDEHPの同時投与ではMEHPの精巣での半減期や組織濃度曲線下面積の増加によることを示した。

 7. 精巣ミトコンドリアに対するDEHPの影響のin vitro実験では、MEBP、MOPともにstate 3呼吸を0.065mol/mlで阻害したが、DEHPとDOPは1.30mol/ml以上で始めて阻害した。またDEHPあるいはDOP投与6時間後の精巣より調製したミトコンドリアではDEHPがより低い濃度で萎縮を引き起すことを示した。またMEHPの半減期がMOPのそれよりも長いことを示した。

 8. ビタミンB12活性代謝物アデノシルコバラミン(AdoCbl)とメチルコバラミン(MeCbl)及びDEHPの同時投与実験では、AdoCblのみにDEHPの精巣萎縮作用に対する保護効果があることを示した。この機構はDEHP(またはMEHP)がAdoCblのメチルマロニルCoAムターゼに対する補酵素作用を拮抗的に阻害し、その結果生じるメチルマロン酸によるミトコンドリア呼吸の阻害とMEHPの直接的な阻害により精巣の萎縮が生じることを考察した。

 以上、本論文はラット及びマウスにおいて、精巣中亜鉛濃度やテストステロン濃度の変化をともなう精巣萎縮を引き起こすことを明らかにし、またその萎縮はアデノシルコパラミンにより保護されることを示した。本研究はこれまで知られていなかったフタル酸エステルの回復不能な精巣萎縮作用を始めて示し、フタル酸エステルの毒性評価に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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