学位論文要旨



No 212714
著者(漢字) 中澤,港
著者(英字)
著者(カナ) ナカザワ,ミナト
標題(和) マラリアが風土病である環境下での鉄栄養と貧血 : パプアニューギニア低地に居住するギデラ族の血液学的調査から
標題(洋) Iron nutrition and anemia in malaria endemic environment : Hematological investigation of the Gidra-speaking population in lowland Papua New Guinea
報告番号 212714
報告番号 乙12714
学位授与日 1996.02.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 第12714号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 和田,攻
 東京大学 教授 脊山,洋右
 東京大学 教授 丸井,英二
 東京大学 教授 小島,莊明
 東京大学 助教授 北,潔
内容要旨 はじめに

 貧血は、世界人口のほぼ30%に影響を与えている重大な健康問題である。通常、貧血の診断は、ヘモグロビンのレベルが性・年齢ごとに決められた基準値より低いことによってなされる。今日では、貧血のもっとも多い原因が鉄欠乏であるためと、それ以外の原因による貧血を鑑別診断するのが困難なため、貧血の治療のための鉄剤投与が普通に行われている。しかし、鉄剤投与は、実質組織への鉄の過剰蓄積とか、給食マラリア(鉄剤投与によってマラリア罹患率が上昇し病状も悪化する現象)といった有害な副作用をもたらす可能性がある。マラリアも毎年2億人の患者が発生している重大な健康問題であるため、この給食マラリアというきわめて皮肉な現象は世界の健康科学者の関心の的になってきた。

 Kent、Wadsworthらのグループは、血清鉄レベルが基準値以下になるのは、摂取食物中の鉄が不足していることよりも、慢性感染症への生体防御反応として鉄が血清から実質組織へ移行するために起こる場合が多く、その状態で鉄剤投与が行われると血清鉄レベルが上昇して感染症が悪化すると主張した(以下、この仮説を「低鉄血症適応」仮説と呼ぶ)。マラリアに関して低鉄血症適応仮説を直接検証するためには、鉄剤投与によって血清鉄レベルが上昇した人の方が鉄剤投与を受けない対照群よりもマラリアに感染しやすいかどうかを調べるべきだが、そうした介入研究はフィールド条件では困難であり、ほとんど行われていない。たとえ可能だとしても、対象者をマラリア感染リスクにさらすような実験は、倫理的に許されない。また、鉄剤投与の介入が行われるのは、たいてい公衆衛生プログラムの一環としてなので、薬剤投与による交絡が起こるのは避けられない。そのため、この問題に関しては、鉄剤投与がマラリア感受性を上げたとするOppenheimerらのグループと、有意な影響はなかったとするHarvey,Cardosoらの間で激しい論戦が行われてきており、決着はついていない。また、マラリア感受性と血清鉄レベルの関係は、ヒトの免疫応答特性と個体としての代謝系がからんでくる問題なので、動物実験では検討できない。さらに、鉄剤投与のマラリア感染に対する長期的な影響は、公衆衛生学的には重要であるにもかかわらず、実験研究では決して検証することはできない。

 従って、低鉄血症適応仮説を検証するには、間接的なアプローチをとらざるをえない。そうした方法の一つとして、鉄摂取が十分に多く、マラリア感染率がミクロな居住環境によって異なる、遺伝的には均質と考えられる集団において、鉄栄養状態とマラリア感染状態を同時に調べることが有効である。もし仮説が正しければ、マラリア感染率に応じて、循環鉄と貯蔵鉄のバランスが変わっているはずである。さらに、この研究によって、鉄剤投与の長期的な影響も類推できると期待される。

 パプアニューギニア低地に居住するギデラ族は、人類生態学教室のメンバーによって25年前から調査され、鉄摂取レベルが高く、マラリア有病割合が村落によって差があることが明らかになっているため、低鉄血症適応仮説を検証するのに適したヒト個体群である。本研究では、マラリア有病割合との関連で鉄代謝メカニズムがどうなっているかを明らかにし、マラリア流行地における鉄剤投与が有効がどうがという問題の解決に寄与することを目的とした。

対象と方法

 ギデラ族は、パプアニューギニア西部州のフライ河とトレス海峡に挟まれた約4,000km2の低湿地に、13村落に分かれて居住している。彼らの村落は、その地理的条件から北方川沿い、内陸、南方川沿い、海沿いの4群に分けられる。各群を1村落で代表させた4村落について、これまで集中的に調査が行われてきているので、本研究でもこの4村落を対象とした。

 彼らは、保健医療サービスをあまり受けず、伝統的な生活を維持している。人口は1989年には約2,000人で,増加率は太平洋戦争終了前は0.2%であった。村落別に集計すると、内陸の村落群でのみ人口増加していた。川沿いや海沿いでの人口減少はマラリアによると推定されている。

 彼らの生業は、サゴヤシからの澱粉抽出、焼畑農耕、狩猟、漁撈、採集である。ただし、西部州の州都ダルーとの距離に応じて現金経済が導入されており、ダルーにもっとも近い海沿いの村で、もっとも購入食品の摂取割合が高くなっている。1981年に行われた、2週間の食物摂取調査の結果、成人男性一人一日当りに換算したエネルギー摂取量が2,980kcal〜3,553kcal、タンパク質摂取量が54.3g〜73.3gとほぼ十分であった。鉄摂取量は海沿いで30mg、内陸と南方川沿いで60mg、北方川沿いで100mgと、食物中の鉄の吸収割合が中程度であるとした場合の所要量8mgより遥かに高値であった。この結果は、1989年の食物摂取調査の予備的な解析からも支持されている。ギデラ族の主要な鉄摂取源は畑作物、陸棲動物とサゴ澱粉であり、前二者に村落間差が少ないのに対して、サゴ澱粉の摂取量には大きな村落間差があり、それが鉄摂取量の村落間差の原因である。それに加えて、北方川沿いではソテツの実、南方川沿いではエビも大きな鉄摂取源となっている。

 西部州の保健局の協力を得て、1989年の8月から9月に、成人(ほぼ15歳から50歳)の約80%にあたる264人から血液サンプルを得た。ただし、サンプル量などの関係から、本研究で分析したのはそのうち206サンプルである。同じサンプルを用いてマラリア抗体価を測定した結果は、既に報告済みであるが、本研究との関連でもっとも重要な結果は、熱帯熱あるいは三日熱のどちらかのマラリア抗体価が1:64以上であった割合が、海沿いで100%、北方と南方の川沿いでは90%に達していたのに対して、内陸では30%に過ぎなかったことである。

 採血は、5人または6人の調査チームで村を巡回して行い、その場でヘモグロビン(シアンメトヘモグロビン法)を測定し、血清を遠心分離して凍結した。凍結血清を日本に空輸後、血清鉄(バソフェナンスロリン法)、血清トランスフェリン(単純免疫拡散法)、血清フェリチン(ELISA法)を測定した。測定の正しさは、すべて標準血清を用いて確認した。また、血清鉄と血清トランスフェリンからGuindiら(1988)の式を用いてトランスフェリン飽和度を算出した。鉄欠乏と鉄過剰の基準値は、Expert Scientific Working Group(1985)に準じて設定した。統計解析にはSASを用い、検定の有意水準は5%とした。

結果

 ヘモグロビン濃度の分布は、海沿いでもっともばらつきが大きかった。また、海沿いの女性の分布は有意な負の歪みを示した。他の性/村落群でも濃度分布は負の歪みを示したが、有意ではなかった。高い外れ値を示した人は少なかったが、低い外れ値はたいていの性/村落群でみられた。多重比較の結果、男女とも北方川沿いと内陸の住民のヘモグロビン濃度は、南方川沿いと海沿いの住民よりも有意に高かった。貧血は北方川沿いと内陸では皆無で、南方川沿いと海沿いでは10〜30%程度みられた。

 トランスフェリン飽和度の分布は、海沿いの男性と内陸、南方川沿い、海沿いの女性で有意に正規分布から外れていたが、それは高い外れ値を示した各々1人によるので、対数変換せずに統計解析を行った。多重比較の結果、トランスフェリン飽和度の平均値は男女とも内陸で最も高かったが、村落間差は有意でなかった。鉄過剰の人は北方川沿いと海沿いの男性2人のみであった。トランスフェリン飽和度が基準値を下回った割合は、南方川沿いの女性で17.1%、海沿いの女性で31.3%あったのを除けば、どの性/村落群でも10%未満だった。この傾向は、血清鉄でも同様であった。また、トランスフェリン飽和度により鉄過剰と診断された人は、北方川沿いに1人と海沿いに1人みられただけであり、そのうち海沿いの人はマラリア罹患による血管内溶血のために血清鉄が過剰になっていただけであった。

 血清フェリチンは、ほぼ全ての性/村落群で有意な正の歪みを示したので対数変換して統計解析を行った。全体的な傾向として、男性が女性より高値を示した。村落間比較の結果、男女とも南方川沿いの村で血清フェリチンが最も低く、男性では北方川沿いと海沿いより、女性では北方川沿いと内陸より有意に低かった。平均値の村落間差は血清フェリチンが基準値を下回った人の割合に反映されており、南方川沿いと海沿いの女性で1割弱、海沿いの男性で5%弱であったが、北方川沿いと内陸では皆無であった。

 ヘモグロビンとトランスフェリン飽和度と血清フェリチンを組み合わせて判断された鉄欠乏の人は、男性で1人、女性で5人だけであった。血清フェリチンが高いために正常と診断された中に偽陰性の人がいる可能性はあるが、北方川沿いと内陸で鉄欠乏が皆無だったのは注目に値する。

 トランスフェリン飽和度あるいは血清鉄濃度を共変量としてヘモグロビン濃度の村落間差について共分散分析をした結果、修正平均についても村落間差は残っていた。共変量とヘモグロビン濃度との関係は村落によって異なり、南方川沿いの村の方が、北方川沿いや内陸に比べ、傾きが急であった。海沿いでは有意な相関はみられなかった。

 血清フェリチンとトランスフェリン飽和度の関係は、マラリア抗体陽性の人と陰性の人の間でまったく違いがなく、どちらでも強い正の相関がみられた。したがって、貯蔵鉄と循環鉄の関係に対して、抗体価で示されるマラリア感染はまったく影響していないと判断された。

考察

 ギデラ族の鉄欠乏割合は、これまで熱帯で報告されてきた20〜30%という値に比べると遥かに低い。とくに鉄摂取がもっとも多い北方川沿いの村と、マラリア有病割合がもっとも低い内陸の村では、鉄欠乏は皆無であった。すなわち、鉄の過剰摂取かマラリア感染が少ないかのどちらでも、鉄欠乏と貧血を防げるように思われる。この説明は、北方川沿いと同じレベルのマラリア感染で、内陸と同じレベルの鉄をとっている南方川沿いの村で鉄欠乏ではないが貧血の人がいたことを考慮すると、合理的な解釈である。

 過剰摂取にもかかわらず、鉄過剰症の人がほとんどいなかったことも注目に値する。これは、1)エチオピアで1日当たり400mgという高い鉄摂取にもかかわらず鉄過剰になっていない人々と同様、鉄摂取源の多くを植物性のものによっていて、貯蔵鉄が十分なときには吸収が悪くなること、2)伝統医療としての瀉血が広く行われていること、3)本研究で示唆されたようにマラリア(と、おそらく鉤虫症)の有病割合が高いことによって溶血を通じて鉄を失っていること、の3点によっていると考えられた。

 海沿いではマラリア有病割合がもっとも高く、鉄摂取がもっとも少なく、それに対応して鉄欠乏がもっとも多かった。しかし、海沿いの村民の血清フェリチンの平均値は、北方川沿いに次いで高かった。このことは、海沿いの村には、マラリア感染によって肝臓に炎症を起こし、フェリチンの血清への放出率が高まった人がいることを示唆する。一方、他の人と同じように高い鉄摂取をしながら、海沿いに4人もいた鉄欠乏の原因も、マラリア感染によっていると考えられる。溶血がおこると、循環鉄が比較的高いレベルに保たれながら鉄が失われてゆくので、腸管粘膜細胞の鉄濃度も高くなり、鉄吸収が悪くなるからである。この解釈は、ギデラ全体で6人だった鉄欠乏の人が、サンプル量不足のために測定できなかった一人を除けば全員マラリア陽性だったことを考慮すると、もっともらしく思われる。

 トランスフェリン飽和度または血清鉄濃度を共変量としたヘモグロビン濃度の村落間差について、どちらを共変量としても結果が同じだったことと、血清トランスフェリン濃度が正常域にあったことから、トランスフェリン飽和度は、循環鉄の指標とみなすことができる。したがって、村落によって循環鉄量とヘモグロビン濃度の関係が異なり、南方川沿いでは相対的に低レベルの循環鉄の増加でも造血が昂進しているといえる。これは相対的に低い鉄摂取と高いマラリア罹患に対する適応を意味するように思われる。海沿いで相関がなかったことは、マラリアで溶血性貧血を起こしている人と、マラリアには罹患していないがヘモグロビン濃度とトランスフェリン飽和度がより急勾配の関係をもつ人が混在しているためと推察された。

 マラリア抗体陽性者と陰性者の間で、血清フェリチンを共変量としてトランスフェリン飽和度の修正平均に有意差がみられず、両群ともに同程度の正の傾きを示したことは、マラリア感染が、循環血中の鉄の状態にも貯蔵鉄にも有意な影響は与えていない(あるいは仮に影響したとしても短期間に回復する)ことを示唆した。このことは、マラリアが風土病である環境下では、鉄摂取が十分にあれば、マラリアに罹患した時には鉄の吸収効率が上昇することによってマラリアは鉄代謝に影響を与えない、ということを意味する。したがって、短期的な影響はわからないが、低鉄血症適応仮説は支持されなかった。マラリアは、宿主の生体防御機構としての循環鉄の貯蔵鉄への移行という適応形態を引き起こさないように思われる。しかし、マラリア抗体陽性者のヘモグロビン濃度が男女とも陰性者よりも有意に低値を示したのは、いくつかの先行研究で示されているように、マラリア感染が鉄代謝に影響を与えることなくヘモグロビンレベルを低下させうることを示している。マラリア治癒後のヘモグロビンレベルの回復が鉄代謝の回復より有意に遅れるという解釈も可能なため、今後さらに検討すべきである。

 食物中の鉄が多いことと鉄剤投与を同等に考えれば、北方川沿い村落で鉄欠乏と貧血が防がれていたことは、給食マラリア現象と相反している。このことは、給食マラリアが見られた集団と異なり、ギデラ族のように栄養状態が十分によい集団では、マラリア感染がもはや鉄の栄養状態に制限されていないことによると解釈される。他方、鉄剤投与は短期的に血清鉄濃度を上昇させマラリアに罹りやすくするが、食物からの高い鉄摂取は長期的にマラリアに対して防御的な適応を形成させているという解釈も可能である。マラリア抗体陽性者と陰性者の鉄栄養状態の個人差はみられなかったのに対して、村落間差が顕著だったことを考慮すると、後者の解釈の方がもっともらしく思われる。

 なお、北方川沿い村落ではマラリア陽性者が多いにもかかわらず貧血の人がいないが、この村落だけについてマラリア陽性者と陰性者の簡でヘモグロビン濃度を比較してみると差が無いことから、マラリアが重症化しない何らかの機構の存在が示唆される。北方川沿いだけでソテツの実が多量に摂取されていることから、ソテツの実の中に何らかのマラリア抵抗性を増大させる薬理成分がある可能性がある。アフリカで食べられているビターキャッサバ中のシアン配糖体が、赤血球を脆弱にし、マラリア抵抗性を増大させるという知見から考えると、この可能性は今後詳しく検討されるべきである。

結論

 ギデラ族の村落間では、人々の造血の状態に違いがあることが示唆された。この違いは、鉄摂取の違いと、マラリア有病割合の違いの組み合わせに起因するものであり、それは長期的な適応の結果として考えられるべきである。したがって、こうした地域での貧血の対策としては、鉄剤投与よりもマラリア対策が進められるべきである。

 また、本研究の結果では、マラリアは循環鉄にも貯蔵鉄にも長期的な影響を与えていなかった。したがって、低鉄血症適応仮説は支持されなかった。一方、マラリアは、ヘモグロビンレベルを有意に低下させていることも明らかになった。ヘモグロビンが貯蔵鉄レベルの指標である血清フェリチンと相関がなかったことと併せて考えると、ギデラ族のような栄養状態のよい集団では、マラリアが鉄代謝には影響を与えずに、溶血を通してヘモグロビンレベルを直接低下させている機構が示唆された。

審査要旨

 本研究は、ともに世界の重大な健康問題である貧血とマラリア感染について、貧血治療のために現在広くおこなわれていて、有効性を主張するグループとマラリア感受性をあげるという有害性を主張するグループの間で激しい論戦が続いている、鉄剤投与との関連を明らかにするため、パプアニューギニアのマラリア流行地で伝統的に鉄を多量摂取している集団で血液検査を行い、各指標間の関連の解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

 1.鉄を多量摂取し、他の栄養素摂取も充分な集団においては、マラリア感染が頻繁にあるにもかかわらず、鉄欠乏の人が少ないことが示された。

 2.マラリア流行地で、伝統的に鉄を多量摂取している集団では、その摂取量が鉄過剰症のリスクとなりうる過剰レベルであるにもかかわらず、鉄過剰状態の人が皆無であることが示された。

 3.本研究の対象集団で若干見られた鉄欠乏の人は、マラリアに感染しているという可能性が示された。

 4.本研究の対象集団においては、鉄摂取量とマラリア有病割合が異なる村落の間で、人々の造血の状態に違いがあることが示され、これは長期的な適応の結果と考えられた。

 5.マラリアは循環鉄にも貯蔵鉄にも長期的な影響は与えていないことが示された。すなわち、マラリア流行地の人が低鉄血症によって高めてきたマラリア抵抗性を鉄剤投与が損ねているという、鉄剤投与有害説グループの主張は支持されなかった。しかし、マラリア感染によってヘモグロビン濃度は有意に低下しており、溶血を通して直接貧血をもたらしている仕組みが示唆された。したがって、マラリア流行地での貧血と鉄欠乏の対策としては、鉄剤投与よりもむしろマラリア対策をすすめることが重要であると考えられた。

 以上、本論文は、マラリア流行地居住者の血液検査から、貧血に対するマラリアと鉄栄養の関係を明らかにした。本研究は熱帯の発展途上国での鉄剤投与をめぐる問題の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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