今日わが国の大気汚染状況は広域的な複合汚染といえる。主要汚染物質の一つである亜硫酸ガスについては発生源対策によりその汚染はかなり改善されてはきたが、抵抗性の小さい植物にとってその影響は無視できない。また、光化学オキシダントについてはその原因物質である窒素酸化物や炭化水素の低減があまり進んでいないことから依然として厳しい高濃度の発生が危惧されている。 森林・樹木は環境緑化に欠かせない要素であるが、大気汚染環境下での緑化対策のあり方とともに、汚染源の特定や汚染環境監視の植物指標としての活用は環境保全上、極めて重要である。 本研究は、大気汚染環境における汚染源の特定、樹木による環境指標、環境緑化対策の視点から、それらに関わる基礎情報を得るため、東京都市部とその周辺地域にわたり、樹木の異常現象の実態と大気汚染との関係解析を行い、また主要大気汚染物質である亜硫酸ガスと光化学オキシダントの主成分であるオゾン及びそれらの複合ガスによる処理実験によって、樹木被害の特徴、被害発現の関連要因、被害発現機構について調べ、野外での異常現象に対する汚染物質の関与を明らかにする。 1970年代に入ってから、東京都市部で見出されたケヤキの異常落葉現象の実態解析から、落葉率の年変動で見ると地域によって落葉程度に違いがあり、落葉率の高い地域ではオキシダント濃度と高い相関を認めた。また落葉とオキシダントの日変動パターンが比較的よく一致した。これらの事実からケヤキの異常落葉とオキシダント濃度になんらかの関係があることが推定された。 同じく、ケヤキ種子生産について、都市部とその周辺の大気汚染の程度を異にするところで、大気汚染の著しいところほど着果短枝の着果割合が減少すること、またそれに応じて葉中の硫黄含有量も増加すことから、亜硫酸ガス濃度に指標されるような大気汚染がケヤキの種子形成異常をもたらしていると推察された。 苗木を現地に配置して成長量をモニターすると、配置された地域ごとの大気汚染状況と成長量の間に明確な負の相関を認めた。さらに大気汚染が樹木の成長を著しく抑制していることを、浄化空気を供給する対照区を設定する空気浄化チャンバー法により大気汚染が成長量を抑制していることを明らかにした。 以上の結果から、1960年代から顕在化した東京都市部に於ける樹木の衰退をもたらす異常落葉現象、種子生産異常、成長抑制が、亜硫酸ガス、オキシダントをはじめとする大気汚染物質の影響であることを証明した。 また、試験植物にケヤキを選択することで、汚染状況をきわめて明確に把握することができ、これはケヤキの指標性が非常に良好であることを意味しているとともに、複合汚染や未知の汚染に対しても、その評価には適切な樹種を選ぶことで、現地配置法が十分実用になることを示すものである。 亜硫酸ガスと光化学オキシダントの主成分であるオゾンに対する被害の特性と被害発現機構についてガス処理実験によって調べ、野外の異常現象を解明することを試みた。亜硫酸ガス処理によって発生する可視被害は、アカマツ、スギ、ヒノキでは、針葉に淡黄かっ色の変色部が現われ、これがかっ色、赤色に変わっていく。変色の発現は新葉の展開し始めの時期には、前年葉の比較的若い部分および当年葉に現われやすく、成熟してくると当年葉の先端部に現われやすい。 このような可視被害の発現には、濃度・時間効果が存在し、その関係は双曲線状である。この曲線はアカマツ、スギ、ヒノキの亜硫酸ガスに対する有害限界線を示しており、不可視被害の測定に於ける一つの基準を与えるものである。これは、樹種、系統ごとに作成することによって、不可視被害の段階に於いても可視被害の発生予測や汚染環境評価を可能にするものである。 こうした被害をもたらす亜硫酸ガスの葉内への侵入経路は主として気孔であり、気孔周辺の細胞に集積することをラジオオートグラフによって明らかにした。 アカマツ、スギ、ヒノキの亜硫酸ガス処理過程に於ける葉の硫黄含有量は、被害症状の発現時点までほぼ直線的に増加することから、ほぼ恒常的に亜硫酸ガスが気孔から侵入しており、被害の発現時点に於ける硫黄蓄積量が樹種の亜硫酸ガスに対する許容量、すなわちtoleranceを、発現過程の吸収速度が亜硫酸ガスに対する抑制力,すなわちavoidanceを示すと考えられる。被害発現時の硫黄蓄積量が最も多いのはスギで、ヒノキがこれに次ぎ、アカマツで最も少なく、吸収速度はアカマツが最も高く、スギ、ヒノキの順に低いことを明らかにした。 亜硫酸ガスに対する抵抗性は、季節、樹種によって、また土壌水分条件によって異なった。アカマツ、スギ、ヒノキのいずれも最も抵抗性の低いのは7月から8月の生育盛んな時期で、生長開始期、生長停止前の順に被害を受けにくくなる。生長停止期の1〜2月には最も抵抗性が高い。抵抗性は湿潤な土壌水分条件で低く、乾燥区で高い。なお樹種間の亜硫酸ガスに対する抵抗性の順位はこの場合もアカマツが最も弱く、スギ、ヒノキの順に強くなっている。硫黄の増加割合は、乾燥土壌では同じ程度の増加を示すが、湿潤土壌では樹種間で異なることから、水分ストレスのために気孔の閉鎖が進行し、結果として亜硫酸ガスの吸収も抑制されたと考えられ、その抵抗性はavoidanceによるものである。 亜硫酸ガスによる可視被害症状の発現に先だって呼吸、蒸散量とも一時的に急速に増加し、可視被害発現後はいずれも低下する。亜硫酸ガス処理とともに、まず孔辺細胞に接する表皮細胞が破壊されて気孔が開くが、やがて孔辺細胞自体にも被害が生じて、気孔閉鎖に至ると考えられる。また、呼吸の増加が同時に進行する状況から、葉肉内の炭酸ガス濃度の急上昇がやがて気孔の閉鎖をもたらすとも考えられる。また可視被害の発現に先だつ糖含量の変化は、非還元糖の減少、葉肉内に侵入した亜硫酸ガスの影響が細胞の正常な生理過程阻害の一側面として、toleranceを考える上で重要な現象と考えられる。クロロフィル含量は可視被害の発現とともに減少するが、クロロフィルaの減少がbより著しく高く、光合成過程に深刻な影響をもたらし成長抑制を招くものと思われる。 オゾンに対する抵抗性はポプラの樹種別クローン間で明確な差があり、栄養条件の違いと被害の関係を見ると、標準の施肥条件でもっとも激しい被害を示し、無施肥では被害は軽度であり、これらの中間の施肥条件で被害も中程度である。この順位は、クローン、オゾン濃度、処理時間の違いを通じて同様であった。 すなわち、本処理条件下でのオゾン抵抗性順位は、栄養条件とは無関係に、カマブチ<NR84<OP29≦NR6 となった。オゾン吸収量は、気孔抵抗と葉肉抵抗の両者の大小に左右されているが、クローン間での差は主として気孔抵抗の違いによること、同じクローンにおける栄養条件の違いでは、葉肉抵抗に関係しているといえよう。NR6の抵抗性は、気孔閉鎖によるavoidanceではなく、オゾンの影響がオゾン処理中止とともに回復することからも、葉肉細胞のtoleranceによることを明らかにした。 オゾン処理による落葉反応は、ケヤキ、トウネズミモチ等でみられ、シイではみられなかった。この結果は野外での観察結果と一致した。このことは、オゾンを主成分とする光化学オキシダントが樹木の夏期の異常落葉の原因であることを強く示唆するものである。 落葉感受性が非常に高いケヤキについてオゾン処理を行うと、落葉に先立って内生エチレンが生成、放出されるが、亜硫酸ガスでは放出が起こらない。また放出された内生エチレンを除去すると落葉はおきないこと、Actinomycin Dの投与によってエチレン生成が完全に抑制されること等から、落葉はオゾンによって誘導される内生エチレンによる作用であることを明らかにした。野外の異常落葉現象と光化学オキシダントの関係についての前記の解析結果を裏付けた。 また、オゾン濃度が高くなるにしたがいエチレン生成が促進され、落葉率も高くなる。オゾン処理時の温度が25℃で最も高い落葉率であったが、湿度による影響は明確でなかった。 次に、亜硫酸ガスとオゾンの複合処理による被害の特性を調べた。複合処理によって発生する可視被害症状は葉に現われ、単独処理の症状とは著しく異なった。複合処理に対する抵抗性を評価すると、イチョウ、ポプラ、アカマツで小さく、ケヤキ、ナンキンハゼ、マテバシイは中間であり、シラカシ、スダジイで大きかった。これらの序列は、単独処理の場合とは必ずしも一致せず、被害発生に対する相乗、相加、相殺効果が認められる。被害は、イチョウ、アカマツでは相乗的であり、ナンキンハゼ、マテバシイ、ケヤキ、スダジイは相殺的であった。 オゾンに対して抵抗性があるが、亜硫酸ガスに対して感受性であるポプラのNR6クローンは、これらの複合処理に対して抵抗性があり、両汚染物質の複合効果は被害発現に対して相殺的であった。NR6の抵抗性の機構は、オゾンに対しては高いavoidance能とtolerance能にあり、亜硫酸ガスに対してavoidanceが低く、複合ガスに対しては急激な気孔閉鎖によるavoidance機能が働き、急激な気孔閉鎖によると考えられる。主に気孔閉鎖によりこれらのガスの取込の抑制によって可視被害の発現はないものの、光合成・蒸散速度の著しい減少は、いうまでもなく成長に大きく影響すると考えられる。 本論文によって大気汚染による樹木被害の特性の一端が明らかになり、特に、異常落葉現象や成長抑制に対する大気汚染物質の関与を明確にしえた。これらの成果によって、被害の診断や発生予測の可能性が見いだされ、汚染源の特定や環境監視としての植物指標としての有効性を明らかにしたといえる。 |