近代心理学の認識論的基盤は"内"と"外"もしくは"自"と"他"を分ける二元論にあり、この基本的枠組の中で広義の行動主義も含めた近・現代の大部分の心理学が成り立っている。この近・現代心理学を支えて来た大前提ともいうべき心身二元論の歴史的消長とその行方について考えることが本研究の直接の動機であり、その研究を通じて未開拓の分野である"心理学のための心理学史研究"の方法論の確立をも同時に目指している。 論文は、主として近世初頭までの「心理学前史」を扱う第I部と本題である19世紀心理学の成立過程そのものを扱う第II部の二つの部分から成り立っており、各部はそれぞれ二つの章から構成されている。研究全体の狙いは、上記のような目標の下に、今日の、いわゆる"科学的"心理学を支えている方法論と認識論の歴史的な成立経過を明らかにすることであるが、具体的には19世紀後半から20世紀初頭にかけて「新心理学」と呼ばれたライープチヒやゲッチンゲンやベルリンを舞台とする初期実験心理学とその周辺に範囲を限り、それらの基礎にある方法論や認識論がどのような思想的ないし学的背景のもとに確立されたものであるかを詳しく見て行くことにある。従って第I部は第II部に対して序論に当る部分であるが、そこでは「参考論文」として付した20年前の論文「心理学における方法論の史的展開」が扱い残した問題の一つである質料としての身体と形相としての霊魂というアリストテレスの統一的生体観から近世以後のものである物と意識の二元論への転換の過程を取り上げている。この部分の要点を先ず記しておくならば、アリストテレス以後のプシュケー論が、その後、ヌースの部分を重視する神学・形而上学への方向と、生体的機能の物質的機序を問題にする自然学的プネウマ学への方向に分かれて行ったものと見て、このような古代末期以降のプシュケー論の変遷を(1)アレクサンドリア科学を経て中世の霊物思想へと変質しながら引き継がれて行った"自然学としての"プネウマ学の伝統と(2)アリストテレス的形相としてのプシュケー概念を退けて再び復活される思弁的な"唯物論的"プジュケー観(霊物プネウマの一部であるプシュケー)の形成過程の両面から,ひとまず整理する。続いて中世心理学を(1)と(2)が合本した形で展開される中世的"自然学"としての霊物学と中世中期以降に復活される"アリストテレス的"心理学に大別し、後者については、これを近世の能力心理学に連なるものとして位置づける従来の学史の枠組をそのまま採用するが、前者については、これを18世紀以後の自然誌の伝統や進化論に連なるものとして(従ってまた19世紀の「民族心理学」の遠い源泉に当たるものとして)新たに位置づける。また、生命原理としての古代・中世のプシュケーから内的意識としての近代的プシュケーへの転換の第一歩は近代科学の幕開けに伴う霊物思想の漸次的崩壊によって中世的「プシュケー・プネウマ関係」が維持できなくなったことから始まると考え、次の一歩が、この中世的図式に代わるものとして先ず提示されるデカルト的二元論の登場であったと考える。このようにアリストテレスの統一的生体観から物と意識の近代的二元論への大転換は古代的生気論の崩壊を第一の契機にして起こるが、その場合の「生気論」とは従来の心理学史や生物学史で漠然と理解されて来たような"アリストテレスの"生気論ではなく、ストア学派と新プラトン学派によって準備された神秘主義的プネウマ(霊物)思想である。直接には18世紀の連合心理学や19世紀の生理学と精神物理学に支えられて誕生する19世紀後半の古典的実験心理学は、上のような"霊物"消滅後の、そしてデカルトがもたらした新しい形而上学的実体である物体(corpus)と精神(mens)を再び経験科学的実在にまで引き下ろすための様々な認識論的模索の2世紀を準備期間として待ったのちに「内的意識過程の学」として出発することとなる。 以上のような背景を踏まえ第II部「19世紀ドイツの科学思想とヴント心理学の論理」で明らかにされた諸点を、以下、第3章と第4章に分けて、それぞれ箇条書に近い形で整理しておく。なお、この第II部ではヴントらが書き残した各種著作の他に、東北大学附属図書館が所蔵する「ヴント文庫」の調査結果(昭和56年着手)の一部も傍証として多数利用されている。 先ず第3章「実験心理学の成立」では、これまで、その功績のかなりの部分をヴィルヘルム・ヴントに帰されてきた古典的実験心理学の成立過程を、同時代の生理学者ヘルムホルツや、ヴント以外の初期実験心理学者たちにも万遍なく光を当てる形で取り上げ考察を加えた結果、19世紀ドイツにおける実験心理学の誕生に関して次のようなことが明らかになった。(1)アリストテレス的自然学の精神(生物科学の立場)を受け継ぐ20世紀心理学(現代心理学)の原型はヴントの実験心理学よりもヘルムホルツの感覚生理学とその背後にある19世紀ドイツの科学思想の中に顕著に認められる。(2)ヘルムホルツの実験科学の極意は生理学出身のヴントによって必ずしも十分には理解されなかった。(3)ヴントによる実験心理学の独立に関しては、これまで言われて来たような心理学の"哲字からの"独立よりも心理学の"生理学からの"独立の方に、その重心があったと見るべきである。(4)ライプチヒの心理学(ヴントの心理学)は、とくにわが国で従来一般に信じられて来たような初期実験心理学界の中心的地位を当初から必ずしも占めていない。(5)これらの背景にはプロシャ的学問の世界に馴染めなかったヴントの出自や素朴な人柄や学閥問題なども多少は絡んでいたに違いないが、彼自身の履歴から来る哲学的思索の訓練の欠如もまた無視できなかったものと思われる。(6)ゲシュタルト心理学と行動主義心理学を経て"現代心理学"に脱皮して行く(20世紀心理学との或る意味での連続性を有する)19世紀の古典的実験心理学は、ライプチヒ学派よりも、ゲッチンゲン(ミュラー)やベルリン(シュトゥンプ)を中心に形成される"主流派"によって確立されて行った。また、この"主流派"を育てた先駆者としてロッツェとプレンターノの学史上の役割を見落すことは出来ない。(7)実験心理学の独立を直接促した要因の一端として従来からあげられている生理学と統計学の発達や精神物理学による数量化手段の提供以外にも、前世紀のカント哲学に触発されて盛んになる19世紀中葉の空間論争の中から非ユークリッド幾何学の登場に助けられて生得説を抑え優位に立った経験説が、認識の"発達的研究"を目指す独自の実証科学(実験科学)としての新心理学の誕生を容易ならしめたに相違ない。 続く第4章「民族心理学の行方」では、ヴントが(科学として)実験心理学以上の実りを期待していた民族心理学を取り上げ、これについての科学思想史的考察を先ず試みたが、ここではとくにヨーロッパ型(ドイツ型)進化思想と民族心理学とのつながりが明らかにされる。次いでヴントの民族心理学が持つ学問としての性格を、第3章で詳しく見た彼の実験心理学のそれと併せて検討した結果、彼の心理学が全体として備えている特色について、ほぼ次のような点が明らかになった。(1)ヴントの心理学思想の特色は心理主義的な認識論と自然哲学的傾向にある。このうちの前者は要素主義と並んで19世紀心理学の一般的特色の一つであるが、とくにヴントにおいて顕著である後者にはストア哲学や新プラトン主義の伝統を引く中世風の自然誌と空想的進化論の影響が濃厚である。また、その背景にはドイツ浪漫主義の精神的風土があったと考えられる。(2)ヴントの科学的実証主義的心理学と自然哲学的形而上学的世界観との間を媒介する契機となりそうなものが彼の民族心理学の中に認められる。(3)ヴントの心理学が20世紀の進行とともに急速に廃れて行ったのは通常考えられているようなゲシュタルト学派による要素主義批判(連合主義批判)のためだけでなく、また行動主義や、まして精神分析学派による意識主義批判のためでもなく、心理学と哲学の関係をめぐっての考え方の上に現れているヴント自身の、いくぶん時代遅れの"19世紀的"限界(心理主義や自然哲学的形而上学志向。とくに後者)のためである。 以上の他にもヴント心理学の内容自体に関して従来のヴント理解に修正を加える二、三の事実が再発見されたが、とくに彼が行動研究と発達研究(動物心理学と児童心理学)を民族心理学に連なるものとして、精神諸科学の基礎学として位置づけられている実験心理学(個人心理学ないし生理学的心理学)と別途に体系化しようとした結果、後者が非常に内容の貧しいものになったことや、しかも、その「個人心理学」は"現象学"としての内観心理学(いわゆる「内容心理学」)と"方法論"としての精神物理学(すなわち"実験")が曖昧な形で結びついた極めて特異な学問になっていること、そして、これらはすべて彼が物と心の関係を整理する際に犯した認識論上の誤りに起因することなどを指摘した。また、晩年のヴントの中に記号論理学や新時代の論理実証主義運動の芽生えに対する積極的関心が認められることから、彼の心理学体系が抱える論理的矛盾の一端は、後の新行動主義に見られるような操作主義的方向に解消されて行く可能性を有していたこと等も併せて指摘した。 なお、後から付加した序章では心理学における二元論的枠組の現状をめぐる試論を展開した。 |