学位論文要旨



No 212744
著者(漢字) 上垣外,憲一
著者(英字)
著者(カナ) カミガイト,ケンイチ
標題(和) 半井桃水に見る明治日本人の朝鮮観
標題(洋)
報告番号 212744
報告番号 乙12744
学位授与日 1996.03.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第12744号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大澤,吉博
 東京大学 教授 延廣,眞治
 東京大学 教授 伊藤,亞人
 花園大学 教授 姜,在彦
 中央大学 教授 鳥海,靖
内容要旨

 半井桃水は、明治の新聞小説家として現在その名を記憶されている。しかし、明治二十一年、『東京朝日新聞』の小説記者として登場する以前、桃水は『大阪朝日新聞』の通信員として、釜山に長期滞在していた。

 この間桃水は明治十五年の六月から七月にかけて、朝鮮のハングル小説『春香伝』を『大阪朝日新聞』に翻訳連載し、また同年の七月に勃発した壬午軍乱に際しては、ソウルに特別通信員として派遣され、詳細な事件の報道を行い、読者の好評を博した。

 明治十年代の日本人の朝鮮観の一つの典型を示すと思われる、桃水の朝鮮関係報道を詳しく分析した研究は、これまでなかった。

 半井桃水は、徳川時代に朝鮮外交を主管した対馬藩の医者の家に生まれ、少年時代の三年間を釜山で過ごしている。この時期に朝鮮語を習得した桃水は、その朝鮮報道において生彩ある記事を次々を『大阪朝日新聞』の紙上に送り、読者の好評を博した。そこでは、壬午軍乱という一種の反日暴動が勃発するに至る朝鮮の政治、社会状況、開港に伴う社会的混乱や、日本商人と朝鮮人とのトラブルのありさま、それによって増幅される朝鮮民衆の反日感情などが、生彩ある文体で詳細に報道されている。

 このような桃水の朝鮮報道は、明治十六年以降、余り『大阪朝日新聞』紙上に現れなくなり、明治十七年十二月に起きた甲申政変においても、桃水は目立った記事を書いていないのである。これは政治の中心地、ソウルから遠く離れた釜山に、桃水が駐在していたことと、明治十六年以降、政府の報道規制が朝鮮関係記事についても厳しく行われたことが大きな原因であったと考えられる。

 桃水は明治二十一年に帰国後は『東京朝日新聞』の小説記者として、新聞小説にその活躍の舞台を移す。明治二十四年から二十五年にかけて『東京朝日新聞』に連載された小説『胡砂吹く風』には、明治十年代、足かけ七年間にもわたった桃水の朝鮮での取材活動、生活体験が豊富に盛り込まれている。『水滸伝』などの流れを汲む伝奇小説としての性格と同時に、『胡砂吹く風』は、特にその後半部において、「日清韓同盟論」を政治論として提示しており、政治小説としての性格をもっている。これは明治二十四年五月それまで内務大臣、総理大臣として言論統制に大きな力を振るっていた山県有朋が首相を辞職、一時政界を引退したために、朝鮮関係の言論統制が緩んだという事情があったと考えられる。

 この小説『胡砂吹く風』の中で桃水は、朝鮮を喜怒哀楽の人間的感情を豊かに持つ、また義と節操に篤い人々と、英明な国王を持つ国として描いている。日本はこのような朝鮮の関化への努力を、共感を持って扶助を行う態度を取るべきものと桃水は考えていた。

 以上が本稿全体の概略であるが、各章における論考のうち主なものを以下、章ごとに列挙する。

 第一章、「半井桃水の生い立ちと少年時代」では、彼の伝記的資料を可能な限り利用して、彼の少年時代の釜山における生活体験を再現した。また『東京日々新聞』に掲載されたという桃水の投書を特定し、それが当時の江華島での砲撃事件をめぐって、征韓、反征韓の論戦の行われていた日本の言論界に一定の影響を与えたものであることを示した。

 第二章「朝鮮通信員半井桃水の登場」では、『大阪朝日新聞』に明治十四年六月から七月にかけて掲載された一連の匿名の釜山通信が、桃水の手になるものであることを特定し、特に桃水の朝鮮からの第一報に取り上げられた李東仁暗殺事件をめぐる記事を、他の新聞記事との比較に於いて論じた。

 また桃水が報道した朝鮮の凶作の模様と、それに伴う米輸出禁止措置について、他の文献に見られる朝鮮の飢饉関係の記事をつき合わせて、その背景を考察した。

 第三章「青年記者、文学者、桃水」においては、その前半において桃水訳『春香伝』について、その原本を推論し、また翻訳の文体が、原文の持つ漢文の要素を生かすことを眼目にしたものであったことを示した。

 後半においては、桃水の壬午軍乱における報道ぶりを、それに先立って『大阪朝日新聞』からソウルに特派された記者の記事の報道ぶりと対照する形で考察し、朝鮮語の能力もあり、朝鮮の社会、風俗に通じた桃水が、より具体的に、また民衆の心理にわけ入った報道をなし得ていることを分析した。

 第三章の最後では、明治十六年以降、桃水の朝鮮特派員としての活動が全く不活発になっていることを叙述し、それが日本政府が朝鮮関係の報道規制を甲申政変以降、極めて厳格に行ったことと関係するものであることを推定した。これに関連して明治二十年「大阪事件」の被告たちが裁判の中で朝鮮に関して発言した内容を『大阪朝日新聞』の傍聴記事から抜粋して分析し、それが同紙の停刊処分と関係があったであろう事を示した。

 終章「小説『胡砂吹く風』」においては、この小説に半井桃水の朝鮮での生活体験、取材、伝聞がどのような形で盛り込まれているかを略述し、また伝統的な伝奇小説として、説話の連鎖という構成法を用いていることをも示した。同時に、この小説が政治小説としては日清韓同盟論を前提としており、特に朝鮮が日本の同盟の相手としてなお信頼に値する存在である、ということを主張として内在させていることを、小説中に見える主人公の朝鮮国王に対する崇敬の態度の分析によって示した。

審査要旨

 本論文「半井桃水に見る明治日本人の朝鮮観」は、今日では主として樋口一葉が想いをよせた「二流」の新聞小説家として想起されることのみ多い半井桃水(なからい・とうすい 1860-1926)の、ジャーナリストとしての初期の仕事を発表時の新聞記事・新聞小説に基づいて探査し、その仕事の中に近代日朝文化交流史において特筆すべき朝鮮観を見ようとするものである。

 本論文の構成は欠のとおりである。まず第1章は「半井桃水の生い立ちと少年時代」とされ、半井桃水、幼名、泉太郎の伝記的事実が述べられる。桃水は万延元年、現在の長崎県下県郡厳原(いずはら)に対馬藩主・宗家へ代々仕えた典医の家の長男として生まれた。日朝貿易が対馬藩に独占されていた時においては、半井家は裕福であったが、明治維新の動乱によりそうした特権が否定され、半井家、さらには対馬藩も困窮した状態に追い込まれる。費用の節減のために桃水は、釜山の倭館で医者として勤務していた父のもとで、給仕として働くことになる。そうした強いられた状況を桃水はその後の自己の経歴形成に活用した。例えば、明治6年、倭館の外に日本の条約違反を非難する東莱府使の告示が掲示されたことがあるが、桃水は年少であるため、朝鮮側の監視の目を逃れてその告示を写し取ることができ、それを上司に見せることで、その告示の件が日本政府に伝達されるきっかけを作ったと自ら回顧している。それが桃水の「ジャーナリストとしての活動」の始まりであると言える。

 その後釜山から東京に送られ、英学塾として名高かった共立学舎に入学、英学を学ぶことになる。ただし、塾生である時から、依然としてジャーナリズムには強い関心を持ち、確定はできないが、東京日々新聞に仮名で投書を寄せたとされる。彼が書いた可能性のある投書を当時の新聞記事に探すと、明治8年10月19日付けの桂馨名義の投書が挙げられると論文提出者の上垣外憲一氏は考える。なぜなら、そこでその投書者は、それまでの日朝関係を俯瞰し、朝鮮が近世において日本の属国であったことはなく、対等の関係であったのだから、日本が一方的に朝鮮に開国を強制することは日朝の善隣関係を維持する方策とはなりえないと主張しているからである。それは具体的な歴史的事例を伴った議論であり、具体的な経験に裏付けられた平和論であったと氏は判断する。そうした友好的な日朝関係を維持したいという意志は、対馬藩に仕えた儒者で、やはり善隣外交を主張した雨森芳州(1668-1755)を想わせるものだと氏は考える。

 その後桃水は明治10年に共立学舎を出て、三菱会社に入社するが、結局そこでの金銭第一主義が肌に合わず、退社する。桃水はその後初志を貫徹する形でジャーナリズムの世界に入り、初め西京新聞、次に魁新聞と職場を変えるが、ついには明治14年5月には朝日新聞の非常勤の通信員という形で釜山に渡ることになる。

 第2章「朝鮮通信員半井桃水の登場」では、朝日新聞に掲載された桃水の、さらには桃水によると思われる朝鮮通信を具体的に分析することに主眼が置かれている。確かにおおくの朝鮮通信は無署名であったから、それらを桃水が書いたと確定することはできない。しかし、当時、朝鮮から朝日新聞社に通信を送ってきた人はそう多くなかったし、また釜山にいる日本人通信員は桃水しかいなかったという状況を考えると、特に釜山からの朝鮮通信はかなりの確度で桃水の書いた記事であるだろうと氏は判断する。そしてそれらの記事では、記者が当時の朝鮮社会に深く入り込んで取材したことが認められるという著者の分析が提示される。

 第3章は「青年記者、文学者、桃水」と題されて、文学者桃水の出発点とも言える『春香伝』の翻訳(1882)がまず分析される。桃水は『春香伝』の翻訳の初めにこの翻訳は朝鮮の人情を伝えるために行うものだと述べており、そうした視点からのハングル民衆小説の翻訳紹介という桃水の仕事の意味は大きいとの氏の評価が示される。また壬午の変(1882)における桃水の報道も民衆の心理にわけ入って行なったものであったとの氏の評価が下される。しかし、残念なことに、その後桃水は新聞記者としてはさほどの活躍を見せなくなる。それは氏によれば、日本政府による言論統制のためであるとされるが、その点はさらに調べる必要があるとの意見が審査員の中から出された。

 終章は「小説『胡砂吹く風』」と記されて、その章は主として桃水の代表作とされる新聞小説『胡砂吹く風』(1891-1892)の分析に充てられている。ここでも桃水は、朝鮮が日本と変わらぬ感情を持つ人間が暮らす人類社会であるとの視点から小説を構成したと氏は考える。そうした上下の関係でない、「水平」の視点から朝鮮社会を見、朝鮮の人々に共感する態度は近代の不幸な日朝関係において特記すべきものであると氏は論を結ぶのである。

 以上述べたきたことでわかるように、本論文は、明治25年までの半井桃水のジャーナリストとしての仕事を、彼が書いた新聞記事・新聞小説にまで戻って、吟味するという作業を行なった。これほど大規模にそうした作業を行なうことはこれまでどの研究者も試みなかったことであり、また桃水の業績を広く日朝文化交流史の中で再評価するという視点も、日本と韓国の文化交流史を自己の仕事と考えている上垣外氏ならではの観点と言うことができるであろう。比較文学という分野において東アジアを中心領域に据えた仕事はやっとその端緒が開かれたと言ってもいいのであり、その分野において上垣外憲一氏は先駆的業績をこれまで示されてきた。今回の研究においても領域設定、観点において氏の独創は疑いえないものがあるというのは審査委員会の一致した判断であった。比較文学がこれまでの日本-ヨーロッパという枠組みから、より広い枠組みで展開するためにも、このような東アジア比較文学研究は推進されるべきである。

 ただし、本論文がそうした特長を持つにしても、いくつかの疑義は審査委員から提出された。まず形式的には先行論文の言及がないことであった。半井桃水に関する研究はきわめて少ないとはいえ、いくつかの先行研究があり、それに対する言及は必要と思われるとの意見が審査委員から出された。また本論文は半井桃水の報道記事を探査すると同時にその報道がなされた時代的背景を説明するという形式を取っているため、議論がある論点を中心に組み立てられるというよりは、歴史の流れの中で叙述されてしまい、論文というよりはジャーナリスト半井桃水の評伝という色彩が強い文章となっているという批判が出された。論文が議論の展開を中心に据えた文章だと規定すれば、本論文はその概念からはややはみ出すものであるとの意見も表明された。またそのことと関連して序章において展開されるべき問題の設定、方法論の提示が明確でないため、序章が論理展開上、弱いという指摘があった。

 本論文は近く、筑摩書房より出版が予定されている。その時には審査委員から示された批判を組み入れた形で、文章を推敲し、内容を補正することが上垣外氏には求められたが、以上のことを総合的に判断して、審査委員会は本論文が博士(学術)の学位に相応しいものとの結論を下した。

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