学位論文要旨



No 212759
著者(漢字) 関根,清三
著者(英字)
著者(カナ) セキネ,セイゾウ
標題(和) 旧約における超越と象徴 : 解釈学的経験の系譜
標題(洋)
報告番号 212759
報告番号 乙12759
学位授与日 1996.03.18
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第12759号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱井,修
 東京大学 教授 坂部,恵
 東京大学 教授 佐藤,正英
 東京大学 助教授 市川,裕
 東京大学 助教授 菅野,覚明
内容要旨

 本論文は、象徴としての様々な旧約テクストの解釈を通し、超越とどこで出会えるかという根本問題の、解答の諸相と展開を明らかにしようとするものである。

 第一章は、倫理的な命法を中心とするモーセの十戒を取り上げる。その旧約学史上の解釈の揺れを、各戒ごとに詳細にたどった後、そもそも何故それぞれの戒めが命ぜられるのか、その根拠を倫理学的に問う必要が確認される。そこで次に、この問題をめぐるカント以降和辻哲郎に至る倫理学史上の諸説を批判的に瞥見し、それらに対し旧約学的にはヘブライ語の語形と歴史的文脈とから、宗教的覚醒感に十戒の発せられる根拠が認められる筈だと主張される。すなわち神の愛を経験した者にとって殺すこと・姦淫すること云々などあり得ないとの覚醒感に外ならない。だがイスラエルの民はそのような覚醒感を出エジプト以後見失った。見失われ隠れた神が再びいつどこに顕れるかを、その後の旧約のテクストとともに問うて行くことが、ここに本論文を貫く主題として定位される。

 第二章では、この問いに特異な解答を与えているコーヘレスが検討される。その際コーヘレスを、ニーチェらの定義に照らして語の充全な意味でニヒリストと規定することが、その思想を読み解く鍵だと著者は主張する。結論としては、超越の顕現をめぐる根本問題に対するコーヘレスの答えは、包摂目的の無いままに生の些細な快楽を愛するところで辛うじて無的な超越の働きを感得し得るというものであった。そこには、ともすれば有的な人格神に固定化されがちな旧約的超越の無性の側面についての認識が確認されるとともに、しかし、自分一個のエゴイスティックな快楽を越える他者への愛の視点の欠落という限界も、また率直に認められねばならない。

 そこで第三章では、姦淫と殺人という他者関係における取り返しのつかない罪の結果、次第にその赦しと償いを示される過程で神との出会いを経験したダビデに焦点を紋り、他者関係に開いた超越の顕現の可能性を闡明することが課題とされる。この課題に入るに先立って、歴史の発見者はギリシア人かヘブライ人かという思想史上のトピックが緒論で検討された後、ヘブライ的歴史とギリシア的歴史という概念をサムエル記下一二章の解釈に適用するのが、第一部となる。ダビデの姦淫と殺人の事後処理の顛末を報告するこの歴史記述を従来の研究はヘブライ的に解釈し、ここに預言者ナタンを通しての神の義の貫徹を読み取ってきた。それに対し、義・不義を問わず人間世界のありのままの姿を問題とするギリシア的な観点からこのテクストを見直すならば、そこにはむしろ愚かで打算的な王とその取り巻きによる、宗教の権威を借り来たっての虚偽に満ちた事件のもみ消しへの疑惑を読み取らざるを得ない。第二部は、この事件の直後のダビデの心境を謳った詩篇五一篇の考察に捧げられる。まずギリシア的解釈に立って、このテクストにも様々な疑惑が投げ掛けられる。次にそもそも詩篇五一篇とサムエル記下一二章の関係をめぐって、グールダーの斬新な所説を検討し、その結果この詩はバテシェバとの姦淫の後その夫ウリヤを殺害したダビデの作としか考えられないことが確認される。その点を踏まえた上で、著者自身の解釈がヘブライ的観点を顧慮しリクールの象徴の解釈学的方法等を援用しつつ一節ごとに試みられ、第一章で指摘された根本の問いに対する一つの典型的な答えが見出される。超越との出会いの場所は、誰もが心の奥に秘めている、罪としか名付けようのない、その場所を措いて他にない、というのがその答えの内容であるが、翻ってこの出会いを倫理の問題との相関において考え直す時、人はこの出会いを通して初めて他者への罪の問題を知り、その償いをめぐって他者への配慮に目覚めて行くのだとしても、突き詰めたところ殺された者は帰って来ない。この詩人が見出したと信じた答えは所詮、神を嵩に着た加害者の虫のいい予断でないと、誰が言い切れようか。著者はこの重い問いを抱えて、旧約の更に別の諸処へと読み進む。

 第四章は、原初史からアダム神話に題材を取り、人間の罪の起源をめぐる考察を課題とする。ここでも、リクールの悪の象徴学から有益な示唆が与えられるが、それと平行して、旧約学・哲学両方の側からの解釈史に目配りしつつ、各段落ごとに釈義がなされ、そこから抽出される諸問題が整合的に解かれる。最後にリクールの解釈と著者の解釈が突き合わされ、それぞれの論の不備が指摘され、解釈の言わば閉じた体系に揺さぶりが掛けられる。こうして揺さぶられた結果それでも残る知見を纏めるならば、人が罪に陥らざるを得ない事情と、そこにおいて顕れる超越の消息が、原初の神人関係のパラダイムの先に洞見される筈である。だがここにも最後に蟠るのは、このように罪をただ愛をもって赦す神の義は弁証され得るのかという、第三章で行き着いたのと同断の疑念を、神義論的に言い換えた問いであろう。

 そこで最後に第五章で著者は、預言書からその最高峰に数えられる第二イザヤを取り上げ、これを第一章に掲げた超越の顕現する時処を問う問いに充全に答え得る、すなわち第三・第四章の解答に最後に蟠った疑念をも払拭する、窮極的な解答を呈示するものとして読み解こうと試みる。まず第一部の冒頭で、神義論の観点から物されたヴェーバーの第二イザヤ論を吟味し、その思想的な掘り下げの深さを評価しつつも、四つの方向からこれに疑義を呈する。以下その四つの問題を著者自身のテクスト解釈に基づいて一つ一つ解いて行くことが、考察を綾なす縦糸となる。著者はまず第四の問題、すなわち第二イザヤ書の編集をめぐる問題から入る。そして特にディオンによる編集史的研究を批判的に瞥見し、著者自身の編集史的仮説を提出する。これは飽くまで文献学的な仮説に過ぎないが、これを編集各層の思想実質を精査することによって、修補検証して行く作業が、以下の考察の横糸となる。こうして編集各層の思想の位相が、救済理解、罪理解、普遍救済主義をめぐって意味論的な方法に基づいて検討される。その検討の過程でヴェーバーへの、代贖の意義を貶価していないかとの疑問の第二、また第二イザヤ書の神義論は苦難の神義論単色と言い切れるかとの疑問の第三にも、答えが出る。こうした思想実質の精査を経て、先の編集史的仮説はより厳密な形に修補される。さて以上の横糸に対し縦糸を縫い取ることが、第一部の最後の課題となるが、この課題は、個人の苦難の根本義についての考察を欠いているという、ヴェーバーへの第一の疑問に答えることによって果たされる。ここでは義なる僕の苦難と死が第四の僕の詩において、代理贖罪という視点から見直されることによって、救済論的な意義付けを与えられ、また応報の地平での説明と、倫理と宗教の乖離するアポリアの現実的な超克の道とを共に指し示すものと解される。斯く代贖において超越は顕れるとは、第二イザヤ書の行き着いた最終的な解答であった。単にそればかりではない。代贖による連帯責任は、罪の赦しの消息を殆ど完璧な筆致で描き取った詩篇五一篇をめぐって、またそれをそれをより普遍化して神話に構築した創世記二-三章をめぐって、最後にどうしても残らざるを得なかった償いをめぐる問いに対しても某かの解答を与えるものとして、旧約における超越の顕れ出る時処を問う問いに対する、恐らく窮極の象徴的解答としての意義を失わないと著者は評価する。そのことを第二部は、第一部の僕理解を根底から問い直す作業を通して示そうとする。第一部で著者は、僕の詩の僕および作者が誰を指すかという旧約研究史の古典的な問題に対して、第四の僕の詩の僕を第二イザヤ、その作者を第二イザヤの弟子と解することで答えた。しかしこの解釈には、第四詩のような預言書中白眉とも言うべき絶唱を、この無名の、他にこれといった仕事をしていない弟子が書いたという奇妙さが難点として残ることを認めねばならない。といって、第二イザヤ自身が自己の死と高挙を生前あのように自負して語ると解するのもいかにも不自然である。その他従来の研究史を逐一洗い直す時、いずれも解釈上の難点があることが判明する。それらの難点を払拭するのは、作者第二イザヤが元来メシアとしての僕を謳ったのに、弟子が編集句を加えて、この僕を第二イザヤ自身を指すものと改変したとの解釈のみであろうと、著者は全く新しい見解を呈示する。この解釈を著者は、第四詩の完了形と未完了形の奇妙な混淆の問題と、編集者の多面的な編集意図の問題とに照らして、ヘブライ語原典の詳細な読みによって跡付ける。こうして、旧約学の研究史上最大のアポリアの一つが画期的な形で解かれることとなる。しかも著者は問題はここに尽きず、本質的には更にその先にあると考える。すなわち、こう僕と作者を解する時、代贖そのものの内容について、何が新しく見えて来るかが、より本質的な問題である。第二イザヤは代贖の僕を単に将来現れるべきメシアと解したが、この弟子の前代未聞の発想の転換は、将来現れるべき者を現実に既に現れた苦難の義人と同定した点にある。そのことによって、加害者、被害者、被害者を愛する者、そして神、の四方から罪の受け取り直しがなされ得るのである。すなわち代罰による倫理的責任の放棄ではなくむしろ、復活した被害者の得心と、加害者の罪の悔い改めへの覚悟とによる倫理的責任の貫徹となり、被害者を愛する者に希望が与え返され、神の義と愛の相剋が解かれ得るのである。恐らく独りこのような発想の転換こそが、新約のイエスの十字架理解に受け継がれた肯繁であり、十字架の代贖思想に対するカントや若きヘーゲルの批判に対する、また本論文第三・第四章に残された問いに対する、充全の解答を提供し得る筈だと考えられる。

審査要旨

 関根氏の論文『旧約における超越と象徴 -解釈学的経験の系譜-』は、旧約の様々な記者が、超越とどこで出会ったか、その諸相と展開を、象徴としてのテクストの解釈を通して考察したものである。

 「旧約聖書」という大部のテクストは、言うまでもなく、さまざまな時代の成立になる多くの成層を、ときにきわめて錯綜した形で含む迷宮にも似た世界である。西洋の文化の大きな源流の一つであり、今日におよぶ世界宗教の聖典でもあるこの書物が、今世紀、もっとも精細な文献学的探索の対象となり、解釈学的分析のもっとも厳しい試練の場となったとしても不思議ではない。関根氏の研究は、こうした旧約学の長い蓄積を自家薬篭中のものとした上で、厳密な文献学の方法を駆使して旧約聖書のいくつかの最重要箇所を読みぬき、多くの新たな視界を開いて、日本の旧約研究に新時代を画するとともに、世界の学界にも新たな寄与をもたらすものである。

 関根氏の研究を、単に高水準の文献学的研究におわらせず、魅力に富みまた今日に生きて働く思索の表現たらしめているのは、現代の人間の置かれた状況に対する氏の域烈な関心である。この関心を抱いて、氏は一層一層と旧約のテクストの成層に分け入り、遂に古代ユダヤの民が生そのものの意味を読み解かんとした層面とあい渉る。「十戒」、「コーヘレス」、「詩篇」、「アダム神話」、「第二イザヤ書」をめぐる綿密な研究は、ひとつひとつがこうした立て杭を掘り進める手探りの探索であり、それが鉱脈をさぐりあて、幾千年の時を超えたそこに思索の共鳴が起こるとき、われわれは著者とともに学問研究の醍醐味を知る。こうしたスノリングな探索の文脈の中に、現代哲学の手法もよく生かされており、たとえばガダマー、リクールらの解釈学の方法を実地にこれほど見事に適用した邦語文献は今までなかったと言ってもよいであろう。旧約思想の角度からする和辻倫理学の周到な批判的位置づけや、代贖思想のユダヤ・キリスト教倫理における現代的意義の解明もまた、本論文の寄与として特筆に値すると言えよう。

 もちろん、旧約における代贖思想を強調するあまり新約の十字架との劇的な差異が暗まされたといった批判もあり得るが、氏は旧約の義と新約の愛とを対立させる従来の見方に対して意図的に両者の連続性を剔出しようとしたのであり、また歴史的視点が希薄だという否定的印象も或いはあるかもしれないが、思想の類型論に集中した本論文の方法論的一貫性の裏面として、これを肯定的に評価することもできるであろう。したがって審査委員会はこれらの疑念も本論文の瑕疵とするほどのものとは認めず、関根氏の論文を博士論文として十分な評価に値するとの結論に達したのである。

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