学位論文要旨



No 212771
著者(漢字) 荒井,良延
著者(英字)
著者(カナ) アライ,ヨシノブ
標題(和) 美術館の温湿度・空気質環境計画に関する研究
標題(洋)
報告番号 212771
報告番号 乙12771
学位授与日 1996.03.18
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第12771号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松尾,陽
 東京大学 教授 安岡,正人
 東京大学 教授 友澤,史紀
 東京大学 教授 鎌田,元康
 東京大学 助教授 坂本,雄三
 東京大学 助教授 加藤,信介
内容要旨

 近年、美術館・博物館が日本各地で建設され、美術・芸術を身近に楽しみ、郷土の歴史や文化にも親しめるようになった。文化施設に対する住民の関心は高く、今後ともこうした建物は増加すると思われる。

 日本では古来より土蔵あるいは校倉等に美術工芸品を保管してきたが、現代においてはコンクリート建造物が美術品の保存・展示場所である。美術館をコンクリート造とする理由は、(1)コンクリートが不燃建材であり防災の面で優れている、(2)建物が堅固となって防犯の面で管理し易い、(3)熱容量が大きく外界の気象変動に対して室温変動を抑えやすい、などのメリットがあるからであるが、他方で、(4)土蔵・校倉等に比べて吸放湿性が劣るため室内の相対湿度が変動し易い、(5)コンクリートの枯らし(乾燥)が不十分な時期に建物の使用を始めると、多湿やアルカリ性汚染因子によって美術品を損傷する恐れがある、などの問題が顕在化している。

 このうち(4)の問題に対しては吸放湿性に優れた調湿性建材を付加することでコンクリート躯体の吸放湿性を補填することが美術館では一般化しつつあるが、必ずしも調湿性建材の吸放湿性の評価法およびその利用法(設計法)は確立されておらず、熱湿気同時移動モデルを用いた設計手法の開発およびその精度検証が望まれていた。

 また(5)の空気質(アルカリ汚染因子)の問題に関しては、コンクリート打設時に使用する大量の水分の処理が重要と思われるが、アルカリ性物質の定性・定量の研究は多いが、コンクリートの含水状態・水分挙動との関連は必ずしも十分に明らかにされておらず、これに関する基礎実験の必要性と、具体的な建設現場でのフィールドデータの蓄積が望まれていた。

 このような背景のもと、筆者は美術館の設計・施工の実務に関わる立場において、温湿度と空気質の双方を考慮した建築設備計画および施工計画が美術館では重要であると認識し、本論文においては、調湿性建材およびコンクリート構造体の設計施工に関わる知見を整理することを目的とした。

 本論文の主な内容と構成は、以下の通りである。

 第1章では、前述に示した研究の背景と既往の研究について概観した。

 第2章では、コンクリートの吸放湿性を補填し、気象変動や空調運転に伴う相対湿度の変動を緩和するために用いられる調湿性建材の熱湿気物性の把握と吸放湿特性の評価法を検討し、以下の結果を得た。

 (1)本論文で用いる熱湿気同時移動モデルを提示した。また、本論文で用いる調湿性建材(ゼオライトパネル)の熱湿気物性値を明らかにした。

 (2)吸放湿特性を把握するための実験手法を提示し、上記の調湿性建材の吸放湿性が木材などより優れていることを確認した。

 (3)(1)の計算モデルと熱湿気物性値を用いて、(2)の実験経過を再現計算できることを確認した。

 第3章では、上記の調湿性建材を用いて美術品収蔵庫を想定した試験室(ゼオライトハウス)を作り、外周部暖房加湿実験(実験A)および庫内暖房加湿実験(実験B)を実施し、以下の結果を得た。

 (1)調湿性建材の特徴を活かす空調方式は、実験Aの二重壁構造を用いた外周部空調方式である。

 (2)実験Bの場合には、室内温湿度が変動した後に調湿性建材が吸放湿するため、暖房加湿の変化に対する応答が遅れた。

 次に、熱湿気同時移動モデルを用いて、実験Aおよび実験Bの室内温湿度変動に関する再現計算を行い、平衡含湿率曲線(湿気物性)の近似モデルと実験値の関係を検討し、以下の結果を得た。

 (3)室内相対湿度が中湿度域(40〜60%)の実験Aでは、平衡含湿率曲線を中湿度域で直線近似することで実験値を再現できた。今回の実験範囲では、線形計算モデルでも実験値を再現できた。

 (4)室内相対湿度が中湿度から高湿度(50〜95%)にかけて変動する実験Bでは、平衡含湿率特性を曲線(折れ線)近似し、中湿〜高湿の材料物性を考慮するで再現精度は向上した。

 (5)美術品の保存展示空間は中湿度域ではあるが、予測手法としての汎用性や現状のコンピュータ性能を考えれば、平衡含湿率特性を曲線近似して取り扱うのが妥当と考える。

 第4章では、打設時に大量の水分を保有するコンクリートの放湿特性を把握するため、直径10cm、高さ20cmの円柱形のコンクリート試験体を作り、脱型直後からの重量変化を計測するとともにその再現計算を行い、以下の結果を得た。

 (1)コンクリートからの放湿量は、脱型直後に特に大きく、以後漸減した。

 (2)円柱座標系で水分収支の保存則が成立する差分スキームを導出した。

 (3)筆者がフランスCSTBでガンマ線含水率計を用いて計測したモルタルの水分拡散係数を基準に、コンクリート放湿特性を再現する含湿率勾配に対する水分拡散係数を同定した。拡散係数は含湿率に大きく依存し、含湿率の高いときに拡散係数は大きく、放湿量も大きくなった。

 (4)設計・施工上は、含湿率の高い養生期間に強度上の支障にならない範囲で、自然に放湿し易い壁体仕様・工法・環境とすることが重要である。

 第5章では、前章と同時に制作した同形のコンクリート試験体からのアルカリ性物質の放出特性を実験的に把握するとともに、含湿率低減とアルカリ放出の関係を検討し、以下の結果を得た。

 (1)イオンクロマトグラフィーを用いた分析により、コンクリートが放出するアルカリ性物質として、有意にアンモニアが検出された。

 (2)アンモニアの放出量は、コンクリートの放湿特性と同様、脱型直後に特に大きく、徐々に小さくなった。

 (3)試験体を一旦、絶乾状態にするとアンモニアの発生はなかったが、再度、含水状態にするとアンモニアは発生した。

 (4)コンクリート含湿率が高いほど、アンモニア発生量が大きくなる相関関係が得られた。コンクリート中の強アルカリ成分(CaO等)が含水状態ではイオン化するため、弱アルカリのアンモニアが溶液中から追い出される(ガス化)ものと推察できる。

 第6章では、実際の使用状態にある美術品収蔵庫の温湿度を測定し、熱湿気同時移動モデルによる解析を行い、以下の結果を得た。

 (1)収蔵庫内部では棚・収蔵物の吸放熱・吸放湿の影響が大きかった。

 (2)収蔵庫内の見かけの熱容量を同定した結果、6[kcal/m3℃]程度であった。

 次に、設計・施工段階で空気質(アルカリ汚染)に配慮した美術館に関して、施工中から一年間に亘る空気質環境の実態調査を行い、以下の結果を得た。

 (3)コンクリート乾燥促進・防湿処理などの対策を実施した結果、美術館オープン後の環境モニター(空気質の簡易測定法)の測定値は2(中性)〜3(弱アルカリ性)であり、良好な空気環境であった。

 (4)木製内装材の収蔵庫は酸性側と判断された。外気のNOx・SOx濃度は高かった。空調機の酸アルカリ除去フィルターの選定は重要であった。

 第7章では、各章で得られた知見をまとめ、総括的な結論を述べる。

 本論文で提示した熱湿気同時移動モデルは、美術館の計画の中で、保存展示空間の温湿度環境を予測評価し、調湿性建材を含めた建築設備計画を最適化するのに利用可能である。また、コンクリートが放出するアルカリ汚染因子の問題は、設計・施工段階でコンクリート乾燥促進・防湿処理・空調機フィルター等に配慮することで抑制でき、今後はむしろ木材から発生する有機酸などの他の空気汚染因子の評価と対策が重要になることを指摘した。

審査要旨

 「美術館の温湿度・空気質環境計画に関する研究」と題する本論文は、美術館、博物館等文化財の収蔵・展示を目的とする建築物における空調の計画手法について論じたものである。文化財の収蔵空間は、古来土蔵あるいは校倉等が用いられてきたが、現代においてはコンクリート建造物がこれらに取って替わっている。コンクリート建造物は、不燃性、防犯性、熱的安定性に優れる反面、湿気的安定性に劣り、乾燥不十分なコンクリートからの水分とアルカリ性揮発成分による汚染・損傷などの問題が顕在化している。対策として内装に調湿性建材を用いること、ならびにコンクリートから発生する湿気およびアルカリ分の排除が必要であるが、コンクリート内部での熱・物質伝搬と空気への放散の性状を解明する研究はなお不十分であり、対策のための設計法、効果の評価法は確立されていないのが現状である。このような背景のもとに、著者は美術館の設計・施工にたずさわる立場から温湿度と空気質の双方を考慮した建築設備計画法の必要性を認識して本研究を行ったものである。本論文は全7章よりなる。

 第1章は、上記した研究背景を述べ、既往研究について概観した。

 第2章では、代表的な調湿性建材であるゼオライト・パネルの熱湿気物性を取り扱っている。ここではまず、熱湿気同時移動の計算モデルを提示し、また同建材の熱湿気物性値を測定により明らかにした。次いで同建材の吸放湿の基礎実験を行って、計算モデルが実験経過を必要な精度で再現することを検証している。また、この経過を通してゼオライト・パネルが木材よりも優れた吸放湿性を有することを示している。

 第3章では、さらに実用に近い試験室(ゼオライト・ハウス)を建設し、室内で直接に、またゼオライト内壁の外部から間接的に暖房・加湿する実験を行った経緯を述べている。その結果として、外部からの間接法が優れていることを見いだした。また、前記計算モデルの検証をこの実験に対しても行って、中湿度域(40-60%)だけならば線形化した簡易なモデルでも差し支えないが、室内直接加熱・加湿の場合には高湿度域に入る可能性があることから、平衡含湿率の係数的非線形性を考慮したモデルを使用するべきであると結論している。

 第4章では、打設直後のコンクリートの吸放湿特性を見るための、試験体による実験と再現計算について述べている。すなわち、著者が測定したガンマ線含水率計によるモルタルの水分拡散係数の結果に基づき、コンクリートの含水率勾配に対する水分拡散係数をはじめて同定した。これによると、拡散係数は試験体の含水率に大きく依存し、高含水のときに拡散係数も大きくなる性状を示した。この拡散係数を用いたコンクリート熱湿気移動の計算は実験をよく再現することができた。

 第5章は、前章と同一形状のコンクリート試験体からのアルカリ性物質の放出の実験について考察している。まず、コンクリートから放出されるアルカリ性物質としてはアンモニアが最も多いことが明かとなった。また、アンモニアの放出は試験体の乾燥によって減少するが、再度含水させるとアンモニア放出も増大するという結果を得た。著者は、強アルカリであるCaOが含水状態でイオン化するため、弱アルカリのアンモニアがガス化するのであろうと推測している。また著者はアンモニアは骨材中に必ず含まれるものであるので、あらかじめこれを排除して打設する可能性については懐疑的である。

 第6章では、実際に使用状態にある美術品収蔵庫の温湿度、空気質を測定し、計算モデルとの対比を行った。また、別の美術館においては、本研究の知見に基づいて設計・施工上に配慮し、その成果を1年間にわたって追跡調査した結果を示している。前者の測定からは、収蔵物自体が大きな吸放熱、吸放湿性を持つ場合があり、それによって収蔵環境が安定しているとすれば、それは新たな問題を提起するものであることを述べている。また後者の調査によると、環境モニターは常時中性ないし弱アルカリ性を示し、結果は良好であったが、この場合にも収納用の木製棚が酸性物質を放出していることを見いだし、この点をも考慮にいれた更なる研究が必要であると述べている。

 第7章は前各章で得られた知見をまとめ、総括的な結論を述べた。

 以上を要するに、美術館の計画における収藏品の保存環境維持の重要性に着目し、温湿度と空気質の予測評価の手法を開発し、建築躯体、設備システムの双方、また、設計段階、施工段階の各局面での取るべき手段を明らかにしたものであって、その学術的ならびに実用的価値は高く評価することができる。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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