本研究では、低周波数域における床衝撃音挙動の解析を目的として、衝撃力により励起される床板の振動解析、床板振動による下室音場への音響放射の解析、の各ステップに適用する解析手法を開発し、これらを結合し、床板に作用する加振力により室内各部に生じる音圧応答をシミュレーション解析する手法を提示した。各ステップの解析は周波数領域で絶対値、位相ともに計算しているので、いずれのステップでも随時、逆Fourier変換の適用により時刻歴応答に変換できる。このため、振動系の共振現象等の特性評価や、床板の変形モードの時刻歴推移、減衰、吸音による振動、音圧応答の時間波形の減衰挙動の解析、実効値レベルによる性能評価等を、高い精度で予測計算し検討できる。 論文は、二編10章で構成している。まず、第1章「序論」では、本研究の目的、背景、および既往の研究と対比させた本研究の意義、位置付けについて述べた。 第一編「床衝撃音の計算手法と実大モデル実験による検証」は、床板の振動および室空間への放射による床衝撃音の発生メカニズムを解析する手法の検討が中心で、鉄筋コンクリート造の実大モデルを用いた実験によって検証を進め、解析手法の骨格を構築した。 第2章「FEMによる床板振動系のシミュレーション解析」では、FEM固有値解析、モーダル減衰解析、周波数応答解析の3ステップから成る床振動解析の理論的検討を行った。FEM固有値解析には汎用構造解析プログラムMSC/NASTRANを適用した。床板振動系のモーダル減衰の評価には、数種の材料から構成される系の減衰を表現するWeighted Modal Dampingを応用することとし、モーダル減衰解析、周波数応答解析のステップについて独自にプログラムを開発した。 実建物の境界条件のモデル化に関する検討は第二編で扱うこととし、ここでは明快な境界条件を与えた実大モデルを対象として解析手法の妥当性を検証した。モデル化においては、質量マトリクスをlumped、consistentの2種に、またFEM要素幅を段階的に変化させ、これらが固有値、周波数応答関数の絶対値、位相の精度に及ぼす影響を調べた。1次の変位関数を用いる要素では、要素幅を上限周波数における曲げ波波長の1/6以下、望ましくは1/9以下とすべきこと、consistent質量マトリクスの方が、lumped質量マトリクスより有利であること、要素幅を曲げ波波長の1/6とするモデルでは、consistent質量マトリクスの採用が不可欠である等、モデル化における有用な知見が得られている。 第3章「BEMによる受音室音場系のシミュレーション解析」では、閉鎖音場のBEM解析理論を検討しプログラム開発を行った。影響係数の数値積分には、要素を再分割しGaussの1点積分法を適用する積分計算法を提示し、無次元要素モデルを用いたパラメトリックな計算によりその適用範囲と精度を明確にした。 解析では、まず、単一の点音源をもつ基本的なモデルとして、境界の任意の1要素を速度境界とし他を剛境界とした閉鎖音場を検討した。このモデルと等価な実験を行うため、実験用スピーカを製作し、スピーカの諸特性、実大モデルの内部音場に与える音響出力を等価な体積速度で定量化することを検討した。このスピーカと実大モデルを用いた実験で、境界上の点音源の体積速度に対する音圧の周波数応答関数を実測し、解析結果と対比させ解析手法の受当性を検証した。次に、第2章の床振動解析の結果を与えて床板面各部の境界条件を拡張したモデルで、加振力に対する音圧の周波数応答関数を計算し、インパクトハンマ加振による実測データと対比し精度を検証した。 この解析を通し、一定要素を用いるモデルで実用上十分な解析精度を得るには、要素幅を上限周波数における音波長の1/4以下とすればよいとの、解析モデルを構築する上での基本的な知見が得られている。 第4章「吸音境界のモデル化による音場シミュレーション解析の拡張」では、局所作用を仮定できる多孔質のグラスウール吸音材を剛壁表面に取付けた吸音境界を対象として、音響管2マイクロホン法によるノーマル音響インピーダンスの測定を行い、解析手法の適用性を吸音性音場へ拡張するための検討を行った。 実大モデルの内壁面にグラスウール吸音材を取付け、単一の点音源による受音室内部の空気加振実験、インパクトハンマによる床板への加振実験を行い、吸音材料表面の振動、室内の音圧等を測定し、検討を行った。その結果、厳密には吸音材は板として面外曲げ振動するが、実用的にはこれを無視し、音響管で測定されたノーマル音響インピーダンスを境界条件に与えたモデル化により、かつ支持用ピン等による吸音境界の局部的な若干の差違を無視し、吸音境界全体に平均的なノーマル音響インピーダンスを与えたモデル化により、実用上十分妥当なシミュレーション解が得られることを検証した。 第5章「床衝撃音レベルの評価方法」では、加振力に対する音圧の周波数応答関数から床衝撃音レベルを計算するフローを提示し、C特性、オクターブフィルタ、逆Fourier変換、1次遅れ系のRC平均化回路によるピークレベル、2乗積分法による平均音圧レベル、暴露レベルの演算処理方法について検討した。 第二編「実建物における境界条件の検討とシミュレーション解析の応用」では、実建物への解析手法の適用性を検討し、また、パラメトリックな解析を通し床衝撃音性能を向上する方法について検討を行った。 第6章「実建物における床板振動系の境界条件の検討」では、実際の集合住宅から床板部のみを切出したFEM解析モデルにおいて、大梁、小梁、戸境壁、間仕切り壁、隣接床等が、床板に与える動力学的拘束を表現する方法について検討した。 第7章「吸音壁のノーマル音響インピーダンスの測定」では、音場系の境界条件として与えるべき吸音壁のノーマル音響インピーダンスの定量化に、音響インテンシティ測定法を応用するための検討を行った。 原理的に2つのマイクロホンの中間位置で測定されるノーマル音響インピーダンスの値を、そのまま吸音壁表面の第1次近似とみなす場合、ノーマル音響インピーダンスの絶対値の測定限界が、空気の特性インピーダンスの1〜10倍程度に限定されることを1次元音場の計算から明らかにした。また、音場のリアクティブ性に対する測定法の適用限界に基づき、実大モデルのグラスウール吸音壁で測定した値を音響管2マイクロホン法による測定結果と比較し精度を考察した。さらに、実際の集合住宅の間仕切り壁、内装等に測定法を適用しデータ収集を行った。 第8章「実建物における床衝撃音のシミュレーション解析」では、小梁付き床板構造の集合住宅、アンボンドPS大型床板構造の集合住宅、量近みられる2つの典型的な構造形式の建物を対象として床衝撃音の予測計算を行い、本解析手法の妥当性、適用性を検証した。精度の検証は、床衝撃音の周波数応答関数、1/3および1/1オクターブの帯域応答、各帯域の時刻歴応答、Fastピークレベルを空間平均した床衝撃音レベルの各ステップにおいて行った。 第9章「床板振動系の減衰と受音室音場系の吸音による床衝撃音の改善効果」では、床衝撃音伝達系を構成する床板振動系のモーダル減衰と、音場系の吸音境界のノーマル音響インピーダンスをパラメトリックに変化させた計算を行い、双方の振動系の減衰向上により得られる床衝撃音の改善効果を定量的に調べ、床衝撃音の低減、防止対策を講じる上で有用な知見が得られている。 第10章「結び」では、本研究の成果と今後の課題についてまとめを行った。 床板に要求される諸性能のなかで、遮音性能から求められる仕様が構造設計上要求されるレベル以上にクリティカルな要因となることの多い現在、本研究で提示した床衝撃音の解析手法は、床板の合理的な設計に寄与するものとして大きい意義があり、将来にも十分な発展性を期待できる。 一方で、今後に残された課題も多い。その最大のものは、吸音境界のモデル化技術、すなわち未だ知見の少ないノーマル音響インピーダンスの評価技術である。本論文で扱わなかった加振力の定量化の問題、床板から周壁に固体音としてエネルギが伝搬漏出する側路伝搬の問題、鉄鋼系プレハブ住宅や木造住宅等、軽量で剛性の小さい床構造へ適用性を拡張するための諸問題についても解決していく必要があろう。 このような課題に取組み、住宅の床衝撃音の評価体系を確立していく上でも、本研究で提示したシミュレーション解析手法は、検討手段の礎として、また解析データの蓄積を通して活用できると考えられる。人の五感のなかでも、聴覚は、外的刺激に対して快、不快を選別して取入れることの困難な器官である。騒音の遮断を通して生活の基盤となる住宅の居住性能を向上し、社会的ストックとしての価値の向上を図る上で本研究が役立つならば、その意義は十分に大きいと考える。 |