戦後の国土開発、都市開発の中で、民間が所有し、日常使用する建造物までが特別に保護されるべき対象に含まれた時、歴史的建造物を継承するという行為は、それまでの重点的・厳選的な文化財保護という考え方では補いきれない様相を呈してきた。何故なら、こうした都市の大分部を占める建造物は、公共事業及び大規模開発事業において非常に弱い立場にあるばかりでなく、生活行為或いは生産行為に伴う開発欲求の中で物理的改変を受けやすいという性格を有するからである。 この二重の課題の克服に取組むなかで、歴史的建造物に測るべきものとして、その実質的形態(材料や古来の構造形式)に見られる普遍的価値(歴史的、意匠的、技術的等)のみならず、風土の中で育成された感性や慣習性及び、それに基づく地域に固有な社会的変化の流れが求められるようになってきた。 本論文は、この歴史的建造物の解釈の拡張を示し、歴史的建造物が都市の発展過程を確認・評価するに効果的な素材として認識されつつあることを明らかにするものである。 なお、論文中、「歴史的建造物」は、民間が所有し、日常の中で使用する建造物を対象としており、その歴史的、意匠的、技術的価値或いは、それが醸しだす情緒性、景観的重要性等により、当該建造物からは実生活上の直接的影響を受けない第3者(市民及び組織)が将来も残して行きたいと要望を抱く建造物を指している。人々が情緒や愛着で捉えられるところまでを「歴史的建造物」に含めるものとし、重要文化財(建造物)や、都道府県・市町村が指定した有形文化財については、「文化財建造物」と記した。 第1章では、歴史的建造物のうちから対象を民家にしぼり、その中でも最も重点的な保護が図られるべく重要文化財(建造物、国宝を含む)に指定されたものについて考察を行った。 建築史学としての民家研究は、民俗学としてのその研究に「復原的考察」を加え、建築を史料として庶民の生活習慣の裏付けを試みるものである。それ故、「建造物」としての文化財の保護に、民俗学の特質である2つの課題、「地方文化の価値評価」と「個人有の建造物の保護」をもたらした。 個人が所有し住居施設として使用している民家は、事業的開発だけではなく、生活行為に伴う小さな開発行為の積み重ねにどのように対処するかという課題を含むものである。理想とする復原・保存の姿を描きつつも、「残す」という根本的な目的の下で、様々な開発要求との間で調整を行っていかなければならない様子を、「公有化」及び「移築」に民家を残す道が委ねられていく経緯から明らかにした。 また、「屋敷構の整備」という課題に面する中で、整備対象の構造までは言及せず、外観、様式等、表層的な面についてのみ規制し、維持管理する方法が必要となってきたことを述べた。 現代の社会における歴史的建造物の保護は、調整、すなわち非常に微妙な社会のバランスの上に成り立つものであることを、重要文化財(建造物)民家の保存の経緯は示唆している。 第2章では、民家群の中でもとりわけ法的な保護措置を施すべきと認識されるものに視点を置き、歴史的環境を「都市の遺構」として見る場合、及び、「生活環境」として見る場合での価値評価の差異について考察した。作業は、奈良国立文化財研究所「今井町民家調査」と奈良女子大学「今井町の住生活についての調査」の比較を通して行った。 「今井町民家調査」は有形文化財としての民家の集合体として歴史的環境を捉えたとして位置づけられる。一方で「今井町の住生活についての調査」は居住者の住要求の検討という視点から、歴史的環境に居住環境の質を追求した調査であった。 歴史的町並みを民家が群として残る都市の遺構として文化財建造物保護の延長線上に考えたならば、群として残る稀少性とは別に、次の要素が価値として見いだされる。 (1)歴史的建造物としての民家を良く残していること。 (2)都市構造としての町割、水路等を良く残していること。 (3)(1)(2)の上に立ち、歴史的特色としての景観がよく残っていること。 しかし、文化財保護の対象が有形文化財としての民家(点)から、その集合体である伝統的建造物群(面)へと拡張した時、民家の有する民俗学的性格、すなわち大衆の生活的要素が一層強く現れ出て、生活者の住要求の充足に視点をあてた強い主張をもたらした。それは、群を構成する歴史的建造物に、 (4)改変が繰り返される中で保ち続けてきた普遍性と規則性、 (5)日々の住要求に対応する軽微な改変に現れ出る共通性、 を読み取り、地域に固有な社会的変化の流れを示す指標としての役割を見いだすことであった。 「民家の集合体」としての地域を文化財保護の対象に含み込むことによって、文化財建造物の保護は生活改善への積極的な考慮を求められ、社会的、経済的発展と共に歩む責任を背負い込んだ。従来からの実質的形態の保存と並び、表層的様相の保存の解釈が広がる中で、「民意の総体」としての地域が生まれてきたと言えよう。 第3章では、法的な保護措置の下に置かれなかった歴史的建造物或いは歴史的町並み・集落を対象とし、それらが、自治体及び住民の自発的、積極的な保護活動の中で、いかなる社会的位置づけを得てきたかを考察した。 歴史的環境の保存を目的とした市町村独自の条例は、昭和43年から48年にかけて、先進的な取組みを成した幾つかの自治体によって制定され、その後、昭和58年までは、ほとんど数の増加を見ない。条例の制定状況としては低迷期である昭和50年代には、しかし、住民による歴史的環境の保存運動、或いは、自治体によるアーバンデザインの取組み等を通し、都市の発展過程を社会が共通に認識する媒体として景観を位置づける視点が形成されていった。昭和59年以降は、都市景観条例の制定数が急増する中で、歴史的環境保存の取組みも「景観」という言葉に統合され、住環境創出に総合的に対処する動きに取込まれていった。歴史的市街地はもはや都市の中で特別に保護されるものではなく、創出、育成と並ぶ都市発展のための選択肢として位置づけられている。また、歴史的建造物も、周辺に及ぼす「景」としての効果を測りながら、活用という積極的な意図を以て継承が考えられるようになってきた。 歴史的建造物は、生活環境を改善するための素材として様々な方法で用いられつつある。その中では、保護の欲求と開発の欲求の接点として現れ出てきた形態に環境指標としての価値が見いだされている。よって、結果として歴史的建造物が様々な形で継承されていったとしても、これは指定文化財に見る行為とは性格を異にするものである。 第4章では、第3章の結果を受けたケース・スタディとして、歴史的建造物を積極的に取り込んだ総合的な地域計画の策定及び建築開発行為の誘導基準の設定(以下、景観ガイドプラン)を試みている。対象地としたのは岐阜県吉城郡古川町である。 古川町中心部の町並みは、地元古川大工の伝統と技術、及び古川町に根づく「そうば(コミュニティで生活するための約束事)」によって、独特の統一感を形成している。その町並みは明治37(1904)年の大火以降に形成され、年代的にそれほど古いものではない。また、市街地には町指定史跡、県指定史跡が存在するものの、指定文化財となっている建造物はない。よって、歴史的建造物に認められる公共的な価値は主に、一定の期間を経て人々の眼に親しまれてきた慣習性によるところが大きい。 しかし、地域固有の景観や町並みの現状に立脚した環境整備のあり方を見いだしてゆく中で、寺や屋台蔵はランドマークとして都市発展の指標となり、個々の町家は町並み全体の中で意味を持つことを明らかにした。 古川町という一市町村を対象とした取り組みではあるが、現状の町並み景観、及びその構成要因としての歴史的建造物を都市計画の視点から包括的に捉え、日常的な営みの中で継承していけるしくみをつくりだすという大きなテーマにつながるものと考えられる。 民家を文化財建造物の範疇に取り込んだ時点から、歴史的建造物の保護は、それ自体をゴールとするのではなく、「住環境創出における市民性の獲得」というスーパーゴールに寄与することを求められてきたと言えよう。とりわけ、「景観」の概念の発達は、歴史的建造物に住環境創出の指標としての役割をもたらし、現代社会との新たな接点をつくりあげた。歴史を読み解く作業と、現代社会の動向を見極める作業とのバランスの中で、歴史的建造物には未だ多くの可能性が潜在しているのである。 |