学位論文要旨



No 212786
著者(漢字) 川上,智規
著者(英字)
著者(カナ) カワカミ,トモノリ
標題(和) 高山湖沼としての乗鞍岳湖沼群における酸性物質の供給と中和ならびに消費機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 212786
報告番号 乙12786
学位授与日 1996.03.18
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第12786号
研究科 工学系研究科
専攻 都市工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松尾,友矩
 東京大学 教授 大垣,眞一郎
 東京大学 教授 戸嶋,直樹
 東京大学 教授 花木,啓祐
 東京大学 助教授 味埜,俊
内容要旨

 今日欧米における酸性雨は,広域的な森林被害,湖沼の酸性化に伴う魚類の死滅などの被害,歴史的建造物の被害などをもたらし,地球的規模の環境問題のひとつとして認識されるようになってきた。わが国においても環境庁により昭和58年から5ヶ年計画で第1次酸性雨対策調査が実施され,その結果,全国的に多くの地点で年平均のpHが4台の降水及び欧米並かそれ以上の酸性物質の沈着量が観測された。また,陸水の酸性化に関して同調査は酸性雨による被害は顕在化していないとしたが,山岳地の小河川において近年pHの低下が報告されるなど,酸性雨の陸水に対する影響は否定できない。酸性雨による長期的影響は不明な点が多く,被害が顕在化した時には既に手遅れとなっている可能性があるため,対策が後手にまわることのないよう,適切な現状評価と将来予測が行えるように調査研究を実施していく必要がある。

 湖沼の酸性化問題において最も重要な課題は,酸性化は,いつからどこで始まるのかあるいは始まらないのかという問題である。本研究では,湖沼の酸性化はどこで始まるのかという問題に対して,湖沼の位置する地理的な条件から酸性物質の陽イオンによる中和と生物学的な消費のプロセスに関して検討を加えた結果,標高の高い山岳地の湖沼が酸性雨に対して最弱であると考え,高山湖を研究の対象として選択した。また,いつから酸性化が始まるのかという問題に対して,酸性物質の供給と消費ならびに陽イオンによる中和の各プロセスを定量的に扱うことのできる水質予測モデルを構築し,酸性雨が高山湖沼に及ぼす影響を評価した。

 各章の要旨は以下の通りである。

 第2章「乗鞍岳湖沼群における水質」では乗鞍岳の山頂付近に点在する高山湖沼を対象として1992年〜1995年の4年間にわたる降雨と湖水の水質を中心とした調査を行い,それらの湖沼の過去のデータとの比較,国内におけるその他の多くの湖沼との比較ならびに既に湖水が酸性化したとの報告のある海外の湖沼との比較を行い,乗鞍岳の湖沼群の水質が湖水の酸性化に関してどのような特徴を有し,多くの湖沼の中でどのような位置付けにあるのか考察を行なった。その結果,図1に示すように乗鞍岳の湖沼群では近年pHの低下がみられた。また国内外の湖沼との比較の結果,乗鞍岳の湖沼群の水質はイオン成分濃度が極めて低く,酸性雨に対する感受性が極めて高いものであった。pHの低下の原因としては鉱山,火山,腐植質の影響ではなく,酸性雨による可能性が最も高いものと考えられた。

図1 乗鞍岳湖沼群におけるpHの経年変化

 第3章「酸性化予測モデルに関する既往の研究」ではこれまでに提案されたいくつかの酸性雨の陸水影響予測モデルについて文献調査を行い,本研究の対象とする高山湖沼における水質予測モデルの構築に必要な基本的フレームを決定した。

 第4章「集水域土壌と底泥による酸性物質の中和ならびに消費機構」では酸性雨が湖水の水質に及ぼす影響を評価する上で必要な,酸性物質の消費と塩基性物質による酸の中和を定量的に評価することを目的とし,以下の3種の実験を行った。(1)陽イオンによる中和能力を評価するために,乗鞍岳の高山湖沼をはじめ,湖沼型の異なるものも含む合計12の湖沼において集水域土壌と底泥の交換性陽イオン量を測定した。その結果,乗鞍岳などの高山湖沼における交換性陽イオン量はいずれも通常の中栄養湖である縄ヶ池に比較して1/100程度と極めて低いものであった。(2)実験室内において乗鞍岳の高山湖沼である鶴ヶ池,中栄養湖の縄ヶ池,腐植栄養湖の刈込池の3湖沼の湖沼環境を再現したmicrocosmsを作成し,酸を添加した後の中和のプロセスについて検討した。その結果,表1に示すように脱窒速度と硫酸還元速度を求めることができたが,鶴ヶ池では脱窒速度は他の湖沼の1/10程度であり,また硫酸還元はみられなかった。(3)乗鞍岳の鶴ヶ池と権現池,ならびに縄ヶ池の3湖沼において底泥の間隙水に含まれるイオン成分の鉛直分布を測定し,底泥から湖水への拡散による脱窒速度と硫酸還元速度を解析した。鶴ヶ池の湖水は湖底からの浸透流出速度が4.2cm/dayと速く,底泥中で脱窒が行われたとしても浸透による流出のため,底泥中の脱窒量が必ずしも湖水に対する脱窒量とはならない。拡散による脱窒速度の解析手法を用いると,底泥における全脱窒速度と湖水に対する脱窒速度を求めることができる。その結果はそれぞれ229 eq/m2/day,27 eq/m2/dayであり,湖水に対する脱窒速度は全脱窒速度の12%に留まっていた。

表1 microcosmsにおける脱窒速度と硫酸還元速度の比較

 第5章「高山湖沼としての乗鞍岳鶴ヶ池における水質予測モデル」では乗鞍岳の鶴ヶ池を対象として,第3章において決定した基本的なフレームに即して,第2章で得た降雨による酸性物質の供給と,第4章において検討した酸性物質消費能力を考慮した水質予測モデルを構築した。モデルは水理モデルと水質モデルに分かれており,それぞれについて4年間にわたる現地調査結果との比較を行い,妥当性を検討した。その結果,鶴ヶ池の主要なイオン成分について図2〜4に示すように推算値と実測値は比較的良く一致した。水質予測モデルによる結果は,鶴ヶ池の主要な陰イオン成分である硫酸イオンや硝酸イオン濃度は降雨の影響を強く受けているうえ,主要な陽イオン成分であるカルシウムイオンは降雨からもたらされていることを示しており,集水域土壌や底泥における生物学的な酸性物質消費や陽イオン交換による中和のメカニズムはほとんど機能していないというものであった。

図2 硫酸イオンの推算値と実測値の比較(1995)図表図3 カルシウムイオンの推算値と実測値の比較(1995) / 図4 硝酸イオンの推算値と実測値の比較(1995)

 第6章「酸性物質の供給機構」では融雪初期の段階における酸性物質の融雪水中への濃縮のメカニズムについて検討を行った。また,高山にあって冬期積雪が多く酸性物質の濃縮の影響を受けやすいと考えられる乗鞍岳の鶴ヶ池の水質に与える影響を評価した。その結果,図5に示す次のような新しいメカニズムを提示することができた。「水の存在下で,小さな雪粒子が融解し,大きな雪粒子が成長するという断熱状態における粗大化過程においてイオン成分が放出される」

 このメカニズムによる雪粒子から湖水へのイオン成分の放出に伴う濃縮過程として次の3種が考えられる。

 (1)積雪層中において融雪水と接触した雪粒子よりイオン成分が融雪水中に放出され,濃縮された状態で湖沼に流入する。

 (2)SNOW JAMによるイオン成分の湖水への放出による濃縮。

 (3)0℃の湖水に降雪があった際の雪粒子から湖水へのイオン成分の放出による濃縮。

 乗鞍岳の高山湖沼では,これらのプロヤスが単独または複数同時に作用することにより融雪初期における各湖沼のイオン成分濃度は濃縮されており,酸性雨の影響が拡大される結果となっていた。

図5 雪粒子の粗大化過程におけるイオン成分の融雪水への排斥のメカニズム

 以上の結果から,湖沼の酸性化問題における最も重要な,いつからどこで酸性化が始まるのかという課題に対しての解答を得ることができる。すなわち,標高の高い山岳地では酸性雨の影響を受け酸性化が進行中である湖沼が既に存在している。このような高山湖沼では,陽イオン交換による中和や,生物学的な酸性物質消費のメカニズムがほとんど機能していないため,今後降雨によりもたらされる酸性物質の沈着量が増加した場合には「湖水の酸性化は時間遅れを生じることなくさらに進行する」という結論が得られた。

審査要旨

 今日、酸性雨の問題は単に大気汚染の一現象ではなく地球規模環境問題の一つと捉えられるようになってきた。わが国においても環境庁などにより大規模な調査が実施され降水の酸性化が生じていることは確認されてきているが、生態系への広域的な影響は日本ではまだ顕在化していないとされている。このような現況に於いて、酸性雨の影響が日本で顕在化してくる可能性があるのかないのか、またあるとしたらいつ、どこからはじまるのかという問題は重要である。本論文は、酸性雨の影響が最も早く顕在化する可能性の高い高山性の湖沼の酸性化の問題に焦点を当て、乗鞍岳湖沼群を対象としてその酸性化の機構を現地調査の結果をもとに考察するとともに、酸性化予測モデルを構築して降雨が湖水の水質に与える影響を評価したものである。

 本論文は「高山湖沼としての乗鞍岳湖沼群における酸性物質の供給と中和ならびに消費機構に関する研究」と題し7章から成っている。

 第1章は「序論」であり、本研究の背景・目的について述べている。

 第2章は「乗鞍岳湖沼群における水質」であり、日本の湖の酸性化や、本研究の対象である乗鞍岳湖沼群の水質の現況を過去の調査結果をもとにレビューし、近年乗鞍岳湖沼群に見られるpHの低下の原因は酸性雨である可能性が最も高いことを指摘している。

 第3章は「酸性化予測モデルに関する既往の研究」であり、既存の湖沼酸性化予測モデルに対して検討をおこない、高山湖沼に適用可能な水質予測モデルの基本フレームを決定している。

 第4章は「集水域土壌と底泥による酸性物質の中和ならびに消費機構」と題し、実験室におけるミクロコズムを用いた実験および現地での底泥間隙水サンプラーによる採水調査により、脱窒反応・硫酸還元反応の速度を推算した。その結果、陽イオン交換などの化学的プロセスに加えて、脱窒・硫酸還元という生物学的な酸消費機構があることが定量的に確認された。

 第5章は「高山湖沼としての乗鞍岳鶴ヶ池における水質予測モデル」である。調査対象湖沼の一つである鶴ヶ池を対象に、酸性物質中和・消費機構を組み込んだ湖水水質予測モデルを構築した。鶴ヶ池では陽イオン交換による酸性物質の中和や生物学的なその消費反応が小さいため、さらなる酸性物質の沈着があった場合の影響が大きくなることが予測された。

 第6章は「酸性物質の供給機構」である。積雪中のイオン成分が融雪初期に融雪水中に濃縮される現象に対し、雪粒子が成長し粗大化する断熱過程でイオン成分が水中に放出されるという新しいメカニズムを、室内実験の結果にもとづき提案している。

 第7章は「総括」であり、本研究で得られた成果をまとめるとともに、今後の課題について言及している。高山湖沼では既に酸性雨の影響による酸性化が進行中であり、今後降雨によりさらに酸性物質がもたらされれば湖水の酸性化は即座に進むであろうとの評価が結論として示されている。

 本研究は、酸性物質の沈着量の評価などの単純な物質収支に加えて、その化学的・生物学的な中和・消費機構や融雪過程での酸性物質の挙動など関連する重要なプロセスについても実証的に検討を行ったものである。日本ではきわめて少ない高山湖沼の酸性化の現状を示す調査データを集積した点において、また、高山湖沼の酸性化のメカニズムに関する基礎的な理解を大きく促進した点において、本研究の成果は高く評価されるものである。よって本論文は、都市工学とりわけ環境工学の発展に大きく寄与するものであり、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50990