学位論文要旨



No 212799
著者(漢字) 星野,聖
著者(英字)
著者(カナ) ホシノ,キヨシ
標題(和) 視覚系における瞳孔反応と瞬目の解析と数理モデル
標題(洋)
報告番号 212799
報告番号 乙12799
学位授与日 1996.03.18
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第12799号
研究科 工学系研究科
専攻 電子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡部,洋一
 東京大学 教授 上野,照剛
 東京大学 教授 原島,博
 東京大学 教授 廣瀬,啓吉
 東京大学 教授 藤田,博之
 東京大学 教授 土肥,健純
内容要旨

 「目は口ほどにモノを云う」と言われる.この格言は,眼球とその周辺器官の運動あるいは変化が,ヒトの心理状態をよく反映することを表している.本論文では,感性や情緒と深い関連のある自律神経系支配の反応でありながら,計測が容易で,被験者への拘束が少ない瞳孔反応と瞬目とを取り上げ,人間の感性評価のための工学的解析を試みた.とくに本研究では,新たな数学的・統計学的手法を導入することにより,従来の研究が見落としてきた生体情報を,これらの計測データから獲得することを目的とした.さらに,瞳孔反応と瞬目の数理モデルを構築することにより,時系列を発生させる生体内部機構の工学的解明を試みた.

 本論文では,次に述べるような5つの工学的解析と数理モデル構築とを主要な骨子として検討を行っている.

 第一に,瞳孔平滑筋と自律神経系の形態から推測される制御上の特徴をもとに評価関数を設定し,最適化の手法により,瞳孔対光反応系における制御機構について考察した.「敏速さ」と「滑らかさ」という相反する2つの条件を最大にするように瞳孔系が制御されていると仮定し,指数関数により重み付けられた時間と加速度変化の2乗との積の時間積分が最小になる解を,変分法により求めた.導出されたパラメータは,初期瞳孔径,反応後瞳孔径,反応所要時間,潜時,反応敏速性の5つであった.パラメータ値の推定のため,ステップ状光刺激を提示し,赤外線撮影装置により縮瞳時および散瞳時の瞳孔径変化を実験的に測定した.得られた実験データをモデル出力と比較すると,両者はよく一致し,瞳孔が敏速かつ滑らかに反応するように最適制御されているとする本モデルの妥当性が示された.

 第二に,新しい測度を導入し,瞬目の点系列解析を行った.すなわち,過去の事象に対する現在の事象の従属度を表す確率過程であるマルコフ性に着目し,これを統計的測度として自発性瞬目の反応間隔点系列に適用し,反応の起こり方を規定している要因とその程度とを定量的に解析した.実験には垂直眼球電図法を用い,安静時と心的負荷時の2条件下で,各々30分間ずつ測定を行った.マルコフ性の次数と値とを,2つの条件間で比較したところ,安静時にはマルコフ性が強く,過去の反応の起こり方に従属して現在の反応が生起する傾向が示された.この現象は,眼球表面の乾燥や塵埃などの比較的定常性のある物理刺激により瞬目が誘発された状態であると想定された.反対に,心的負荷時にはマルコフ性が極めて弱く,これは過去の反応と無関係にもっぱら現在の状態により反応が生起している状態であった.この現象は,過渡的に変化する注意や緊張などの認知機構により瞬目が誘発された状態であると想定された.

 第三に,自発性瞬目の生起パターンに潜む規則性について検討するため,3つの解析を行った.第一に,瞬目間間隔の1次元写像から,ランダムさのなかに潜む生起パターンの規則性について定性的に検討した.第二に,ポアソン分布との適合度の解析により,瞬目間間隔に潜む特有な規則性を定量的に検討した.第三に,時間的フラクタル解析を適用することにより,生体内部状態の変化に伴う瞬目間間隔のフラクタル次元について検討した.すべての解析は,光学的に測定した眼瞼運動データを反応間隔点系列に変換することにより行った.実験は,安静時と加算作業時という2条件下で実施した.実験の結果,3つの事項が明らかとなった.第一に,瞬目間間隔の変化パターンは,おもに3ないし4周期からなる類似の時間変化構造を持つこと.第二に,瞬目のランダム性の背後には,統計的に有意な規則性があること.第三に,反応間隔の累積度数分布を両対数でプロットすると時間的フラクタル性が認められ,しかも,心理状態や疲労などによりフラクタル次元が減少し,よりランダムに反応が生起する傾向が出ることであった.

 第四に,自発性瞬目の一次元拡散モデルを提案した.併せて,同モデルを用いて,覚醒水準低下時における瞬目群発化の解明を試みた.モデルでは瞬目発生器を想定し,眼球などからの末梢刺激の入力が,一次元ブラウン運動的に,反応生起に必要な電位を増減させると仮定した.電位がある閾値を超えると瞬目が起こり,電位はゼロにリセットされるが,入力がない場合は,一定電位に指数関数的に減衰する.瞬目発生器が,このような一種の充放電をくり返すと仮定することにより,自発性瞬目の反応間隔を,Ornstein-Uhlenbeck過程(OU過程)の,定閾値への初通過時間とみなした.瞬目反応間隔系列データにOU過程を当てはめ,パラメータ推定を行うため,光学的に眼瞼運動を測定した.覚醒水準が変化するような時間帯を選んで実験を行い,覚醒水準の平常時と低下時とでパラメータ値を比較した.その結果,覚醒水準の低下に伴う瞬目パターンの変化は,OU過程における一定閾値の上昇として捉えられた.実験データの当てはめにも,良い精度が得られた.一連の結果は,OU初通過時間モデルが瞬目発生モデルとして妥当であるだけでなく,覚醒水準低下時の群発化が,OU過程の閾値の変化として捉えることが可能であることを示していた.

 第五に,視覚負担の簡便で他覚的な評価方法を提案した.眼球電図(EOG)波形の頂点をもとに閉瞼と開瞼とを分離し,一回の自発性瞬目において閉瞼および開瞼に要した反応時間を別々に指数関数で近似推定し,これらの反応所要時間の変化が視覚負担の生理的指標となり得るか否かを,3つの実験により検討した.第一に,閉瞼および開瞼時間の変化と視覚負担との関係について検討した.第二に,これら2つの反応時間の日内変動について検討した.第三に,瞼裂幅が反応時間に及ぼす影響について検討した.その結果,自発性瞬目の開瞼時間が視覚負担の程度をよく反映し,しかも日内変動や個人内差,反応開始時の瞼裂幅の影響を受けにくいことが明らかになった.この現象は,瞬目に関与する2つの筋のうち,眼瞼挙筋を支配する動眼神経が,注意力や関心などを司る上位中枢の抑制を受けやすいためであることが示唆された.

 以上のように,本論文では,視覚運動系のなかで瞳孔反応と瞬目とに着目し,工学的な解析と数理モデルの構築とを行った.本研究で導入した新しい解析手法は,ヒトの注意や関心,興奮や覚醒水準,眠気や疲労感などの心理・認知機能を他覚的に評価するのに有効であった.また,本研究で構築した数理モデルは,視覚系における合目的性や,時系列を発生させる生体内部機構を理解する上で有効であった.

審査要旨

 本論文は「視覚系における瞳孔反応と瞬目の解析と数理モデル」と題し,瞳孔反応と瞬目とを取り上げ,人間の感性評価のための工学的解析と数理モデル構築に関する研究をまとめたもので8章からなっている.

 第1章は序論であり,研究の背景と目的,および研究概要について述べている.

 第2章は「視覚系の生理学的基礎知識」と題し,瞳孔反応と瞬目の解剖学的および神経学的構造を説明している.また眼球とその周辺器官の運動あるいは変化が,ヒトの心理状態をよく反映すること,自律神経支配の反応は感性や情緒と深い関連があること,瞳孔反応や瞬目は計測が容易で,被験者への拘束が少ないことを説明している.

 第3章は「瞳孔対光反応の数理モデル」と題し,瞳孔平滑筋と自律神経系の形態から推測される制御上の特徴をもとに評価関数を設定し,瞳孔対光反応系における制御機構について考察している.敏速さと滑らかさという相反する2つの条件を最大にするように瞳孔系が制御されていると仮定し,指数関数により重み付けられた時間と加速度変化の2乗との積の時間積分が最小になる解を,変分法により求めている.この評価関数から導出されるパラメータである初期瞳孔径,反応後瞳孔径,反応所要時間,潜時,反応敏速性の推定のため,ステップ状光刺激を提示し,赤外線撮影装置により縮瞳時および散瞳時の瞳孔径変化を実験的に測定している.得られた実験データをモデル出力と比較すると,両者はよく一致し,瞳孔が敏速かつ滑らかに反応するように最適制御されているとする本モデルの妥当性が示されている.

 第4章は「瞬目の点過程解析」と題し,新しい測度を導入することにより,瞬目の点系列解析を行っている.とくに系列のマルコフ性に着目し,これを統計的測度として自発性瞬目の反応間隔点系列に適用し,反応の起こり方を規定している要因とその程度とを定量的に解析している.実験には垂直眼球電図法を用い,安静時と心的負荷時の2条件下で測定を行い,マルコフ性の次数と値とを,2つの条件間で比較している.安静時にはマルコフ性が強く,神経生理学的な根拠から,眼球表面の乾燥や塵埃などの比較的定常性のある物理刺激により瞬目が誘発された状態であると説明している.反対に,心的負荷時にはマルコフ性が極めて弱く,過渡的に変化する注意や緊張などの認知機構により瞬目が誘発された状態であると説明している.

 第5章では「瞬目における時間的フラクタル性の解析」と題し,自発性瞬目の生起パターンに潜む規則性について検討を行っている.第一に瞬目間間隔の1次元写像から,ランダムさのなかに潜む生起パターンの規則性について定性的に検討している.第二にポアソン分布との適合度の解析により,瞬目間間隔に潜む特有な規則性を定量的に検討している.第三に時間的フラクタル解析を適用することにより,生体内部状態の変化に伴う瞬目間間隔のフラクタル次元について検討している.実験は,安静時と加算作業時という2つの条件下で実施し,光学的に測定した眼瞼運動データを反応間隔点系列に変換することにより行っている.実験より,第一に瞬目間間隔の変化パターンは,おもに3ないし4周期からなる類似の時間変化構造を持つこと,第二に瞬目のランダム性の背後には,統計的に有意な規則性があること,第三に反応間隔の累積度数分布を両対数でプロットすると時間的フラクタル性が認められ,しかも,心理状態や疲労などによりフラクタル次元が減少し,よりランダムに反応が生起する傾向が出ることを示している.

 第6章は[瞬目の数理モデル」と題し,自発性瞬目の一次元拡散モデルを提案し,併せて,同モデルを用いて,覚醒水準低下時における瞬目群発化の解明を試みている.モデルでは瞬目発生器を想定し,眼球などからの末梢刺激の入力が,一次元ブラウン運動的に,反応生起に必要な電位を増減させると仮定している.電位がある閾値を超えると瞬目が起こり,電位はゼロにリセットされるが,人力がない場合は,一定電位に指数関数的に減衰する.覚醒水準が変化するような時間帯を選んで実験を行い,覚醒水準の平常時と低下時とでパラメータ値を比較した結果,覚醒水準の低下に伴う瞬目パターンの変化は、閾値の上昇として捉えることが可能であることを指摘している.

 第7章は「瞬目の時系列解析」と題し,視覚負担の簡便で他覚的な評価方法を提案している.眼球電図波形の頂点をもとに閉瞼と開瞼とを分離し,一回の自発性瞬目において閉瞼および開瞼に要した反応時間を別々に指数関数で近似推定し,これらの反応所要時間の変化が視覚負担の生理的指標となり得るか否かを,3つの実験により検討している.第一に閉瞼および開瞼時間の変化と視覚負担との関係について.第二にこれら2つの反応時間の日内変動について.第三に瞼裂輻が反応時間に及ぼす影響について検討している.その結果,自発性瞬目の開瞼時間が視覚負担の程度をよく反映し,しかも日内変動や個人内差,反応開始時の瞼裂幅の影響を受けにくい事実を明らかにしている.神経生理学的な根拠から,この現象は,瞬目に関与する2つの筋のうち,眼瞼挙筋を支配する動眼神経が,注意力や関心などを司る上位中枢の抑制を受けやすいためであると説明している.

 第8章は結論であり,本研究で得られた知見を要約している.

 以上を要約するに,本研究は視覚運動系のなかで瞳孔反応と瞬目を工学的に解析し,ヒトの視覚系における合目的性や時系列を発生させる生体内部機構を理解する上で有効な数理モデルの構築を行ったもので,生体工学分野へ貢献するところ少なくない.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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