学位論文要旨



No 212802
著者(漢字) 岩坂,正和
著者(英字)
著者(カナ) イワサカ,マサカズ
標題(和) 血液凝固・血栓線維素溶解系に対する磁場効果に関する研究
標題(洋)
報告番号 212802
報告番号 乙12802
学位授与日 1996.03.18
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第12802号
研究科 工学系研究科
専攻 電子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上野,照剛
 東京大学 教授 正田,英介
 東京大学 教授 神谷,武志
 東京大学 教授 羽鳥,光俊
 東京大学 教授 岡部,洋一
 東京大学 教授 原島,博
内容要旨

 10T(テスラ)オーダの強磁場の室温での実験空間か得られるようになり、これまでほとんど考慮されていなかった非磁性物質への磁場効果が観測されるようになってきた。例えば、血液凝固系の血栓線維素であるフィブリンが11Tの強磁場のもとで磁力線の方向に平行に配列する現象が1981年にTorbetらにより報告された。このフィブリンの磁場配向は均一磁場における高分子反磁性物質の回転運動により生じる現象である。しかしながら、フィブリン溶解過程における蛋白質分解酵素プラスミンをはじめとする種々の酵素の活性に対する磁場影響についてはほとんど明らかにされていない。

 一方、空間的に不均一な磁場に物質が曝された場合、磁場と磁場勾配の積に比例する磁気力が物質に作用する。いわゆる、高勾配磁気分離法はこの原理を応用した技術であり、強磁性微粒子や常磁性物質の磁気分離の研究報告がなされている。しかし、フィブリンなどの反磁性生物物質を対象とした、磁気分離や勾配磁場の作用についての研究はこれまでほとんどなされていない。

 このような背景のもとに、本研究ではフィブリンが関与する生化学反応系である血液凝固・血栓線維素溶解系に及ぼす磁場影響を明らかにすることを目的として、フィブリン重合過程およびフィブリン溶解過程に対する均一磁場と勾配磁場の影響を検討した。フィブリン重合過程では均一磁場および勾配磁場の影響を観測した。フィブリン溶解過程では均一磁場の影響は最大8Tの強磁場でも認めなかったが、6Tおよび50T/mの勾配磁場のもとでは顕著な溶解促進作用を見い出した。これをもとに、反磁性高分子物質の磁気泳動による新しい磁気化学分析法および磁気制御法の可能性を提案した。

 第1章は序論であり、血液凝固・血栓線維素溶解系と磁場との関わりについての現在までの研究の歴史と問題点について述べた。

 血液凝固・血栓線維素溶解系への静磁場効果の機構解明においては、物理的な磁場効果と化学的な磁場効果を区別して考察を行う重要性を述べた。また、ラジカル対を経由する光化学反応の磁場効果が見い出されているにもかかわらず、酵素活性に対する磁場効果が見い出されていないことを指摘した。

 第2章では、血液凝固系および血栓線維素溶解系の酵素反応、血栓線維素、蛋白質分解酵素プラスミンの分子機構に関する知見を述べた。また、生体関連物質の磁気的性質に関して、反磁性、常磁性、および強磁性生体物質の実例について述べた。

 第3章では、反磁性であるフィブリンの磁場配向において強磁性物質および常磁性酸素が関与する可能性について検討した。血液凝固第一因子であるフィブリノーゲン溶液中に分散された磁性微粒子が最大8Tの静磁場中において磁場方向に平行な鎖状クラスタを形成した。ゲル状態のフィブリンに磁性超微粒子の鎖状クラスタが均等に分散して存在する場合、鎖状クラスタによるフィブリン重合体の磁場配向の妨害が見られた。また、低濃度の溶存酸素溶液中でもフィブリンの磁場配向が見られた。以上より、フィブリンの磁場配向がフィブリン自身の反磁性の磁化率異方性によって引き起こされることを確認した。

 第4章では、プラスミンの酵素反応に対する均一磁場の影響の有無について実験的考察を行った。すなわち、プラスミンの酵素反応の基本過程であるペプチド結合部位の加水分解への磁場効果の有無について調べるため、フィブリンおよび低分子量ペプチドの合成基質のプラスミンによる分解過程を最大8Tの磁場のもとで観測した。その結果、酵素反応の初速度に顕著な磁場影響がないことを明らかにした。一方、最長80時間の34℃での保温によるプラスミンの失活過程において、保温開始時刻より60時間以降のプラスミン活性が不安定な期間にて、8Tの強磁場が失活を促進することを低分子量ペプチドの合成基質を用いた活性測定により見い出した。しかし、保温開始時刻より60時間以内のプラスミン活性が安定な期間、またはフィブリンを基質とした活性測定では磁場による失活促進作用を見い出さなかった。

 第5章では、血栓溶解過程に対する勾配磁場の影響の有無について実験的考察を行った。磁場を与えない状態で凝固させたフィブリン・ゲルにプラスミンを添加し、5〜8Tおよび50T/mの勾配磁場でフィブリン溶解実験を行った。フィブリン平板法およびフィブリン・カラム法を用いた測定より、磁場と磁場勾配の積が最大370T2/mの勾配磁場においてフィブリン溶解反応を観測した場合、フィブリン溶解量が増加することを見い出した。この機構として、反磁性物質のフィブリンや水に対して磁気力が作用した結果、フィブリンと水の磁化率の相違によって、フィブリン重合体の遊離とプラスミン溶液の拡散が磁場により促進されるモデルを提案した。

 第6章では、巨大高分子であるフィブリン重合体の磁気泳動現象、すなわち、勾配磁場空間におけるフィブリンの濃度分布変化を観測した。磁場と磁場勾配の積が最大370T2/mの高勾配磁場中において分子量約34万D(ダルトン)のフィブリン単量体が重合する場合、約50%の濃度変化を観測した。フィブリン重合体が磁気力による磁気泳動を行った結果、フィブリンの濃度変化が生じたものであり、この磁気泳動現象が溶媒である水と溶質であるフィブリンの体積磁化率の差に起因することを述べた。5〜8Tの磁場空間において熱エネルギーに匹敵する磁気エネルギーを持つフィブリン重合体は57個から150個のフィブリン単量体が重合したものであることを算出した。これらの考察をもとに高分子物質の新しい磁気泳動法の可能性を提案した。

 第7章では、磁場配向によるフィブリンの基質特性変化が血栓線維素溶解現象にどのように反映されるかについて検討した。磁場中で形成されたフィブリン・ゲルを磁場外に取り出してフィブリン溶解反応を行わせた場合、フィブリン・ゲル表面にて長軸が磁力線に平行な楕円形の溶解パターンを観測した。また、磁場配向した血栓線維素の溶解量が磁場配向していないものに比べて顕著に増加することを観測した。この機構として、配向していないフィブリンの場合に比べて、配向したフィブリン線維中をプラスミンが拡散する場合、フィブリンを効率よく分解すると解釈した。

 第8章では、磁場配向現象の生化学的測定への応用例として、プラスミンによって部分的に切断されたフィブリノーゲンを磁場中で凝固させ、フィブリンの偏光状態を測定することでフィブリノーゲンの凝固能を調べる方法を提案した。

 血管内では血液凝固系が活性化されると直ちに血栓溶解系が活性化される。血栓溶解系の酵素であるプラスミンは重合した後のフィブリンだけでなく、重合する前のフィブリノーゲンも分解する。本実験では分子量34万Dのフィブリノーゲンの溶液中において、分子量が約25万DのフラグメントXと分子量が約15万DのフラグメントYが生成された時点で、フィブリンの磁場配向度が顕著に減少することを測定した。

 第9章では、本研究の結論および今後の研究の展望について述べた。

審査要旨

 本論文は、「血液凝固・血栓線維素溶解系に対する磁場効果に関する研究」と題し、フィブリン重合過程およびフィブリン溶解過程における均一磁場と勾配磁場の影響を検討し、均一強磁場によるフィブリン重合体の配向現象を検証するとともに、高勾配磁場によるフィブリン溶解促進作用を見い出し、反磁性高分子物質の磁気泳動法を提案しており、全9章よりなる。

 第1章は「序論」であり、血液凝固・血栓線維素溶解系と磁場との関わりについての現在までの研究の歴史と問題点について述べている。

 第2章は「血液凝固・血栓線維素溶解系の機構および関連する物質の磁性」であり、血液凝固系および血栓線維素溶解系に関する知見を述べるとともに、反磁性、常磁性、および強磁性生体物質の実例について述べている。

 第3章は「血栓線維素の磁場配向に対する磁性物質の影響」であり、ゲル状態のフィブリンに磁性超微粒子の鎖状クラスタが均等に分散して存在する場合、鎖状クラスタによるフィブリン重合体の磁場配向の妨害が見られたこと、また、低濃度の溶存酸素溶液中でもフィブリンの磁場配向が見られたことを述べている。以上より、フィブリンの磁場配向がフィブリン自身の反磁性の磁化率異方性によって引き起こされることを確認している。

 第4章は「プラスミンの酵素反応に対する均一磁場効果の検討」である。プラスミンの酵素反応に対する均一磁場の影響の有無について実験的考察を行った結果、プラスミンの酵素反応の初速度に顕著な磁場影響がないことを明らかにしている。一方、最長80時間の34℃での保温によるプラスミンの失活過程において、8Tの強磁場が失活を促進することを低分子量ペプチドの合成基質を用いた活性測定により見い出したが、保温開始時刻より60時間以内のプラスミン活性が安定な期間、またはフィブリンを基質とした活性測定では磁場による失活促進作用が見られないことを述べている。

 第5章は「勾配磁場中の血栓線維素溶解過程」であり、血栓溶解過程に対する勾配磁場の影響の有無について実験的考察を行っている。磁場を与えない状態で凝固させたフィブリン・ゲルにプラスミンを添加し、5〜8Tおよび50T/mの勾配磁場でフィブリン溶解実験を行った場合、フィブリン溶解量が増加することを見い出している。この機構として、反磁性物質のフィブリンや水に対して磁気力が作用した結果、フィブリンと水の磁化率の相違によって、フィブリン重合体の遊離とプラスミン溶液の拡散が磁場により促進されるモデルを提供している。

 第6章は「勾配磁場における血栓線維素の磁気泳動」であり、巨大高分子であるフィブリン重合体の磁気泳動現象、すなわち、勾配磁場空間におけるフィブリンの濃度分布変化を観測したことを述べている。磁場と磁場勾配の積が最大370T2/mの高勾配磁場中において分子量約34万D(ダルトン)のフィブリン単量体が重合する場合、約50%の濃度変化を見い出している。フィブリン重合体が磁気力による磁気泳動を行った結果、フィブリンの濃度変化が生じたものであり、この磁気泳動現象が溶媒である水と溶質であるフィブリンの体積磁化率の差に起因することを述べ、これをもとに高分子物質の新しい磁気泳動法の可能性を提案している。

 第7章は「血栓線維素の磁場配向が血栓線維素溶解に及ぼす影響」であり、磁場中で形成されたフィブリン・ゲルを磁場外に取り出してフィブリン溶解反応を行わせた場合、フィブリン・ゲル表面にて長軸が磁力線に平行な楕円形の溶解パターンを観測し、また、磁場配向した血栓線維素の溶解量が磁場配向していないものに比べて顕著に増加することを見い出している。

 第8章は「限定分解された血栓線維素の磁場配向」である。磁場配向現象の生化学的測定への応用例として、プラスミンによって部分的に切断されたフィブリノーゲンを磁場中で凝固させ、フィブリンの偏光状態を測定することでフィブリノーゲンの凝固能を調べる方法を提案して実験を行い、分子量34万Dのフィブリノーゲンの溶液中において、分子量が約25万DのフラグメントXと分子量が約15万DのフラグメントYが生成された時点で、フィブリンの磁場配向度が顕著に減少することを見い出している。

 第9章は「むすび」であり、本研究の結論および今後の研究の展望について述べている。

 以上要するに、本論文は血液凝固・血栓線維素溶解系に対する磁場効果に関して、強磁場中でのフィブリン重合過程におけるフィブリン線維の磁場配向現象を検証するとともに、高勾配磁場によるフィブリン溶解促進作用を見い出し、反磁性高分子物質の磁気泳動による新しい磁気化学分析法および磁気制御法の可能性を示しており、生体電子工学上貢献するところが少なくない。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク