学位論文要旨



No 212815
著者(漢字) 市川,和洋
著者(英字)
著者(カナ) イチカワ,カズヒロ
標題(和) 環境汚染物質の長期細胞毒性評価に関する研究
標題(洋) Bioassay for Long-term Cytotoxicities of Environmental Pollutants
報告番号 212815
報告番号 乙12815
学位授与日 1996.03.18
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第12815号
研究科 工学系研究科
専攻 化学システム工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,基之
 東京大学 教授 古崎,新太郎
 東京大学 教授 中尾,真一
 東京大学 助教授 鶴田,俊
 東京大学 助教授 迫田,章義
内容要旨

 現在、環境中に放出される化学物質種は、膨大な数にのぼっている。それら多種の物質により構成される環境水は、複雑な物質間の相互作用のため、その毒性評価は単に物質個々の物理化学的な項目のみでは行うことが難しい。また、日々環境水中の物質量、構成比等が変動する点に特徴がある。同時に生物的・化学的過程を経ることにより分解・変換等を受ける。従って、環境水の毒性評価のためには、総合的な指標による評価・一定期間の曝露結果による知見も必要と考えられるが、このような複合的影響等の観点からの知見や長期曝露による影響に関する知見は未だ十分に得られておらず、総合的な指標による低コストの慢性毒性評価法の開発が求められている。

 このような特徴を有する環境水中の汚染物質の評価には、生物応答を指標とするバイオアッセイによる総合的評価が欠かせない。求められる評価としては、発癌性評価、急性毒性評価、亜急性あるいは慢性毒性評価が挙げられる。環境水の発癌性(変異原性)についてはAmes試験等が行われてきた。しかし、動物培養細胞を用いる遺伝毒性試験の結果との不一致が指摘されるようになってきた。急性毒性については、魚類等の行動異常により評価する方法等が行われている。しかし、亜急性・慢性毒性評価に関しては、適切な評価系がなかったこともあり、ほとんど研究されていない。バイオアッセイの中でも培養細胞を用いる手法は、定量性・作用機序の解明に適していること、低コストで長期影響評価が可能であること、近年の動物実験低減の社会的要請に沿っていること等の理由により、in vitroの複合影響・慢性毒性評価法として有望と考えられる。しかし、既存の評価法は、樹立株細胞やバクテリア等を用いる手法が多く、ヒトへの影響評価に対する信頼性の点で課題を有している。

 そこで本研究では、ヒトへの影響評価に適した亜急性・慢性毒性評価系の確立とアッセイ系としての特性評価を目的とした。まず、ヒトへの影響評価に適した系として哺乳動物由来初代培養肝細胞系を選択した。しかし、ヒトの肝細胞を入手することは難しいため、ラットより潅流採取した肝実質細胞の初代培養系を用いた。初代培養系は樹立株細胞系と異なり、生体内での多くの特異機能を維持していると考えられ、より生体内での条件に近く且つヒトへの相似性が期待できる。また、肝臓は薬物代謝を行う主要な臓器であり、薬物代謝酵素により代謝されることにより毒性を発現するものも多く報告されているため重要である。

 現在までに、2〜5週間程度の細胞特異機能の維持が報告されている。しかし、亜急性、慢性毒性評価に用いるには系の改良を必要とした。既往の研究で、細胞周囲環境の改善が長期機能維持に有効な要素であること明らかとなってきた。そこで、評価対象を細胞のパッキングと培地成分の細胞層への供給に絞り検討を行った。コラーゲンゲルにより細胞層を上下から包み、かつ上下方向から栄養成分を供給する浮遊サンドイッチ培養法により、長期間の高機能維持を試みたところ、アルブミン分泌能を指標として8週間の機能維持を達成した。この結果、初代培養ラット肝細胞系を亜急性〜慢性毒性にかけての評価に用いることが可能となった。同時に、長期維持には細胞の包括が、高機能発現には上下からの栄養供給が有効であることを明らかにした。諸条件の最適化により、更に系の維持が達成できると考えられる。通常、長期機能維持は極めて高濃度のホルモン添加により達成されるが、本培養系では生理的濃度以下の条件においても、3週間以上の機能維持を示し、生理的条件下での毒性発現および評価への適用性も併せて示された。

 次に、モデル毒物として肝炎誘発性毒物として著名な四塩化炭素を負荷することで、本評価系の長期毒性評価系としての特性を検討した。細胞毒性の標的として細胞特異機能、細胞膜、小胞体、あるいは増殖能に対する障害性・阻害性が挙げられるが、その中で細胞膜傷害、細胞維持阻害、アルブミン合成能阻害の代表的指標を比較検討し、肝特異機能の一つであるアルブミン分泌能が最も敏感な指標であることを明らかにした。また、その変化は濃度及び時間に依存する傾向が認められた。そこで、濃度の時間積分(以下、有効添加量と呼ぶ)により再評価を行ったところ、四塩化炭素へのアルブミン分泌能の応答は、有効添加量に強く依存することを明らかにした。有効添加量により記述した機能低下には、有効添加量に依存して速やかに機能低下が認められる群と、徐々に低下する群の2種のパターンが認められた。単回負荷量の比較から、前者は急性毒性に、後者が亜急性あるいは慢性毒性に対応する可能性が示唆された。

 そこで長期毒性に対応すると考えられる後者の変化を記述するモデルとして、細胞内へ受動的に移行した毒物がアルブミン分泌に関与する受容体に拮抗質様に作用、あるいは受容体を傷害することによりアルブミン分泌を阻害する簡便なモデルを仮定した。四塩化炭素の結果を解析したところ、このモデルにより有効添加量とアルブミン分泌低下が数量的に記述できることが明らかとなった。

 実際に環境中に存在しうる物質の毒性評価への適用性を検討するため、監視項目指定農薬等の長期毒性評価を行い、本評価系及びモデルの有用性を検討した。その結果、用いた農薬においても有効添加量とその長期細胞毒性に高い相関が見られることを明らかにし、本手法の有効性を実証した。また、前述のモデルによるシミュレーションの結果から、農薬・受容体間の反応速度に相当するパラメータと農薬の毒性値とに高い相関が見られることを示した。タンパク合成の場と薬物代謝の場は近隣であり、アルブミン分泌能は代謝により毒性を発現する物質の評価に適した指標である可能性が考えられる。今回のモデルでは細胞内への毒物の移行は受動的に分配係数により決定されると仮定している。従って、一義的に細胞膜を傷害する物質やチャネルをブロックする物質の本モデルによる毒性評価は十分でない可能性がある。このような物質への適用しうるモデルに改良するためには、分子レベルでの毒物の作用機序の知見が必須であろう。

 以上のことから、本論文は次のように総括できる。

 ヒトへの影響評価への相似性の期待できる初代培養肝細胞を用いた亜急性、慢性毒性系を確立し、その諸条件を定性的に明らかにした。本系のモデル毒物への応答特性を検討し、長期毒性が有効添加量により記述できることを明らかにすると共に、受容体と毒物が反応あるいは傷害することにより毒性が発現する簡便なモデルによる評価を行った。また、実際の適用性を検討する目的で、本系を監視項目指定農薬等の評価に用い、その有効性を実証した。

 高等動物由来の細胞を用いた長期曝露の影響評価の研究例は少なく、樹立株を用いた急性毒性値と慢性毒性値の2時点データの比較に関する報告が数点あるのみである。これに対して、本論文では初代培養細胞を用いた慢性毒性評価を一定期間の逐次データにより初めて行った。今後、実際の環境水試料等を用いることで、環境汚染物質の長期影響評価の重要な知見となることが期待される。

審査要旨

 多種の化学物質が混入する環境水は、混入物質量、構成比等が日々変動し、同時に生物的・化学的分解、変換等を受けるため、その人体影響や毒性の評価を、物理化学的な測定のみに頼るのは困難である。従って総合的指標による評価や一定期間の曝露結果による知見が必須となり、新たな毒性評価法の開発が求められている。本論文はこの問題に関し、化学工学的な基礎研究を行ったものであり、5章から構成される。

 第1章は、バイオアッセイが生物応答を指標とする評価法で、この目的に即していること、中でも培養細胞を用いる手法はが定量性・作用機序の解明に適しており、動物の個体を用いる実験を低減するという社会的要請等から有望と考えられることを示している。同時に、既存の手法は樹立株細胞やバクテリア等を用いるものが多く、ヒトへの影響評価に対する信頼性の点で課題があり、必要な評価として発癌性、急性毒性、亜急性・慢性毒性評価があるが、亜急性・慢性毒性については、これまでほとんど検討されていないことを示している。この様な観点から、環境汚染物質のヒトへの影響評価に適した亜急性・慢性毒性の培養細胞評価系の確立と適用性の確認が必要であることを提示している。

 研究に用いた細胞系はラット肝実質細胞の初代培養系である。初代培養細胞系は樹立株細胞系と違い、多くの特異機能を保持し、より生体内での条件に近く且つヒトへの相似性が期待できる。しかし、その培養期間に限界があり、亜急性、慢性毒性評価に用いるには改良を必要とした。この為には、既往の研究から生体内細胞周囲環境に近い環境の再現が有効であることが示唆され、本研究の第2章においては対象を細胞のパッキングと培地成分の細胞層への供給に絞り検討した。その結果、コラーゲンゲルで細胞層を包括し、かつ上下方向から栄養成分を供給する浮遊サンドイッチ培養法により8週間の機能維持を達成した。これにより初代培養ラット肝細胞を亜急性や慢性毒性の評価に用いることが可能となった。通常、機能の長期維持には極めて高濃度のホルモン添加を必要とするが、本系では生理的濃度以下の条件においても3週間以上の機能維持を示し、生理的条件下での毒性評価への適用可能性も示している。

 第3章においては、この培養法を用い、モデル毒物として肝炎誘発性毒物である四塩化炭素を負荷し、肝細胞の毒物応答特性について検討している。細胞膜傷害、細胞維持阻害、アルブミン合成能阻害の代表的指標を比較し、肝特異機能の一つであるアルブミン分泌能が最も敏感な指標であること、その機能低下は濃度の時間積分(有効添加量)に依存することを示している。有効添加量により記述した機能低下には、速やかに機能低下が認められる群と、徐々に低下する群の2群が認められ、単回負荷量の比較から前者は急性毒性に、後者が亜急性あるいは慢性毒性に対応する可能性が示唆されている。後者の変化を記述するモデルとして、細胞内へ受動的に移行した毒物がアルブミン分泌に関与する受容体に拮抗質様に作用、あるいは受容体を傷害する簡便なモデルを仮定している。四塩化炭素の結果の解析から、このモデルにより有効添加量とアルブミン分泌低下が記述できることが明らかとなった。

 第4章においては、環境中に存在しうる物質の毒性評価への適用性を検討するため、監視項目指定農薬等の長期毒性評価を行った。その結果、有効添加量とその長期細胞毒性に高い相関を認め、且つ前述のモデルによる解析結果から、農薬・受容体間の反応速度に相当するパラメータと農薬の毒性値に高い相関が見られ、本手法の有効性を実証した。

 第5章は本論文の総括であり、本手法で用いた細胞活性や細胞機能への影響を反映する指標は、一義的に細胞膜を傷害する物質等(細胞死等)の毒性ではなく、機能障害を引き起こす物質等の毒性評価に適していることを示している。さらに、今後この方向での研究として、膜傷害などの物理的な細胞傷害をも引き起こす物質も含めた評価モデルを確立するためには、毒物作用機序を分子レベルで明らかにし、細胞膜流動性の変化やチャネル異常等による毒物の細胞内移送の知見が必須であることを示している。

 以上要するに、本研究は、環境要因のヒトへの影響との相似性が期待できる初代培養肝細胞を用いた亜急性、慢性毒性評価系を確立し、一定期間の逐次データを基に農薬類等の長期毒性が有効添加量により記述できることを明らかにしており、また、簡便なモデルによる評価を行うことの有効性をしている。今後、本研究の手法は、実際の環境水試料等への展開を図ることにより、培養細胞を用いた環境汚染物質の長期影響評価法の確立の糸口を与えるものとなることが期待され、工学的な価値の高いものである。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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