学位論文要旨



No 212829
著者(漢字) 野村,和彦
著者(英字)
著者(カナ) ノムラ,カズヒコ
標題(和) 心理的ストレスによって惹起される胃粘膜損傷の発生機序に関する薬理学的研究
標題(洋)
報告番号 212829
報告番号 乙12829
学位授与日 1996.04.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第12829号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 唐木,英明
 東京大学 教授 菅野,茂
 東京大学 教授 高橋,迪雄
 東京大学 助教授 西原,真杉
 東京大学 助教授 尾崎,博
内容要旨 <序論>

 胃潰瘍の動物モデルとして、ラットに電撃、寒冷暴露、化学物質の暴露、水浸拘束等の身体的ストレスを負荷し、胃粘膜損傷を発生させるモデルが、数多く開発されてきた。これらのモデルでは胃酸分泌の亢進が見られるため、胃潰瘍の病因として胃酸が注目され、cimetidine、famotidine、omeprazole等の優れた胃酸分泌抑制剤が抗潰瘍薬として開発されてきた。しかし、ヒトの胃潰瘍の原因は、主に心理的ストレスであり、胃酸分泌も減少するとされている。さらに、ヒトの胃潰瘍では組織学的に粘膜筋板の断裂が見られるが、従来のモデルではせいぜい糜爛しか形成されない。このように、実験的潰瘍モデルはヒトの臨床の病態像と必ずしも一致していないという問題点がある。臨床において胃酸分泌抑制剤の投薬中止後に高率で胃潰瘍が再発する一因もこのあたりにあるのかも知れない。

 最近、心理的ストレスによって胃粘膜障害を惹起させる動物モデルが2つ提唱された。マウスを用いたcommunication box(CB)法、およびラットを用いたactivity-stress(AS)法である。これらのモデルでは、動物に物理的刺激を一切加えず、心理的ストレス状況下に動物を置くだけで胃粘膜障害が発生する。すなわち、CB法では、電撃を受けるマウスと受けないマウスとを交互に配置すると、電撃を受けないマウスは電撃を受けるマウスを見て心理的ストレスを受けて胃粘膜障害が発生する。AS法では、回転カゴ付きの個別ケージにラットを飼育し、摂食を制限すると、ラットは空腹のためにエサを求めて走り回るが餌は見出せず、それがストレスとなって重篤な胃潰瘍を生じる。AS潰瘍は、組織学的にもヒトの胃潰瘍と共通点が多く、病因発生学的にも、ヒトの胃潰瘍の病態を良く反映するモデルと考えられる。しかし、これらの心理的ストレス潰瘍の発生機序は現在まで明らかにされていない。興味深いことに、これらのモデルでは共に抗精神薬であるsulpirideが奏効すると報告されているが、そのメカニズムは不明である。

 そこで、これら2つの心理的ストレス潰瘍モデルにおけるsulpirideの作用機序を薬理学的に解析・探究することによって潰瘍の発生機序を明らかにすることを目的として本研究を行った。なお、以下では胃粘膜損傷を便宜的に胃潰瘍と略す。

<本論>1)心理的ストレス潰瘍と身体的ストレス潰瘍の薬理学的解析

 上記の心理的ストレスモデル2種と、代表的な身体的ストレスモデル2種(水浸拘束ストレス法:WI、およびインドメタシン投与法:IND)を取り上げ、薬理学的解析を行なった。実験では、H2受容体遮断作用により胃酸分泌を抑制する抗潰瘍薬としてfamotidineを用い、sulpirideの作用と比較した。

 Famotidineは、WI法およびIND法では著効を示したが(50%抑制用量:ID50値は共に0.9mg/kg)、CB法およびAS法では効果はほとんど見られなかった。これに対して、sulpirideは、WI法およびIND法では無効であったが、CB法およびAS法では明らかな抑制作用を示し(ID50値は各々75mg/kgおよび53mg/kg)、famotidineと好対照の結果を示した。

 また、両タイプの系における胃酸分泌を幽門結紮法により調べた。身体的ストレスモデルのWI法では、胃酸分泌は有意に亢進していたが、心理的ストレスモデルのAS法では胃酸分泌は著明に減少し、また、CB法でも、胃酸は減少傾向を示した。WIにおいて亢進した胃酸分泌はfamotidineで有意に抑制されたがsulpirideは無効であった。

 以上の結果から、心理的ストレス潰瘍と身体的ストレス潰瘍は、その発生機序が明確に異なっており、前者には胃酸の関与は少ないと考えられた。また、sulpirideは心理的ストレス潰瘍の形成を特異的に抑制することが明らかとなった。このsulpirideの作用点は中枢の可能性が高いと考えられた。さらに、二種の心理的ストレス潰瘍モデルは、ヒトの胃潰瘍の病態をよく反映する有用なモデルであることが示された。

2)マウスのcommunication box(CB)潰瘍の病態形成におけるセロトニン3(5-HT3)受容体の役割

 CB潰瘍の形成を抑制したsulpirideは、一般にドパミン(DA)D2拮抗薬とされているが、弱い抗5-HT作用もあることが知られている。このことから、本系に対する各種DAおよび5-HT関連薬のCB潰瘍に対する効果を検討した。

 DA関連薬では、sulpiride(ID50値=75mg/kg)以外にも、metoclopramide(D2拮抗薬)が強力な抗潰瘍作用を示し、そのID50値は、0.4mg/kgであった。しかし、DA枯渇薬である6-OH-DAの処置では、投与経路が末梢でも中枢でも、全く胃潰瘍の形成に影響を及ぼさなかった。また、haloperidol(D2拮抗薬)やFR64822(DA刺激薬)も有意な作用を示さなかった。従って、CB潰瘍の形成には、DAの関与は少ないことが推察された。

 一方、5-HT枯渇薬であるp-chlorophenylalanine(PCPA)を前処置すると、胃潰瘍の形成は、対照群のレベルにまで抑制された。この結果から、本系における胃潰瘍の形成には、内因性の5-HTが関与していることが示唆された。

 最近、5-HT受容体のサブタイプが明らかにされ、5-HT3受容体拮抗剤については抗不安作用が報告されている。そこで、代表的な5-HT3拮抗剤であるondansetron、tropisetron、およびbemesetronの三薬剤と、末梢性の5-HT3拮抗剤のM-840、および、5-HT2拮抗剤のketanserinの効果を本系で検討した。その結果、三種の5-HT3拮抗剤は、いずれも用量依存的に有意な抗潰瘍作用を示し、そのID50値は、各々、0.1,0.2,0.4mg/kgであった。また、ketanserinも高用量では抑制作用を示し、ID50値は、3.3mg/kgであった。一方、末梢性の5-HT3拮抗剤のM-840は、胃潰瘍の形成に対して無効であった。

 これらの使用した薬剤のin vitroでの5-HT各受容体に対する親和性を、受容体結合実験により検討した。その結果、5-HT3受容体に対する親和性の強さは、M-840を除き、CB潰瘍の形成に対する抑制作用の順と、ほぼ一致した。

 以上の結果から、本法における心理的ストレス潰瘍の形成には、ドパミン受容体ではなく中枢の5-HT3受容体の活性化が引き金となっていることが明らかになった。5-HT3受容体の発見は比較的新しく、その生理的役割は十分に明らかにされていなかったが、本研究はこの受容体の新しい生理的役割を見出した。

3)ラットのactivity-stress(AS)潰瘍の病態形成におけるドパミンD1・D2受容体の役割

 SulpirideがAS潰瘍の発生を抑制したことから、前章同様、5-HTとDAの関連薬のAS潰瘍に対する効果を検討した。

 5-HT関連薬では、cyproheptadine(5-HT拮抗薬)、ketanserin(5-HT2拮抗薬)、およびtropisetronとbemesetron(5-HT3拮抗薬)はいずれも有意な作用を示さなかった。このことから、AS潰瘍の形成には5-HTの関与は少ないことが推察された。

 一方、DA関連薬では、SCH23390(D1拮抗薬)およびhaloperidol(D2拮抗薬)が、強力な抗潰瘍作用を示し、そのID50値は、各々0.9mg/kg,0.4mg/kgであった。また、clozapine(DA拮抗薬)やmetoclopramide(D2拮抗薬)も胃潰瘍の形成を抑制した(ID50値=8.9mg/kg&60mg/kg)。しかし、末梢性のDA拮抗薬のdomperidoneは胃潰瘍には無影響であった。また、DA刺激薬のFR64822は、有意ではないものの、胃潰瘍を悪化させる傾向が見られた。このことから、AS潰瘍の形成には、D1およびD2受容体の活性化が関与していることが明らかになった。

 AS法においては、胃潰瘍以外にも、活動量の急激な増加、および日内リズムの乱れが観察され、これらは胃潰瘍形成の引き金になっていると報告されている。そこで、強力に胃潰瘍を抑制したSCH23390とhaloperidolについて、これらに対する作用を検討した。その結果、活動量の増加に対しては、SCH23390は有意な作用を示さなかったが、haloperidolは用量依存的に活動量を抑制することが判明した。一方、日内リズムの乱れに関しては、SCH23390は用量依存的に強力に抑制したが、haloperidolは無影響であった。これにより、D1拮抗薬は日内リズムの乱れを抑えることによって、また、D2拮抗薬は活動量の増加を抑えることによって、AS潰瘍の形成を抑制することが示された。

 以上の結果から、本法における心理的ストレス潰瘍の発生には、中枢のドパミンD1およびD2受容体の活性化が引き金となっていることを明らかにした。さらに、D1受容体およびD2受容体は、各々、AS法による日内リズムの乱れおよび活動量の異常な亢進の発現に関与していることが判明した。

 以上、本研究により、

 1)心理的ストレス潰瘍は、身体的ストレス潰瘍と、その病態形成の機序が明確に異なっていること、

 2)中枢の5-HT3受容体の活性化がCB潰瘍形成の引き金となっていること、

 3)中枢のドパミンD1およびD2受容体の活性化がAS潰瘍形成の引き金となっていること、そしてD1受容体およびD2受容体は、各々、AS法による日内リズムの乱れおよび活動量の異常な亢進の発現に関与していることが明らかとなった。

 以上の成績は、胃潰瘍形成における5-HT3受容体ならびにD1受容体の新しい生理的役割を明らかにしたものであり、5-HT3拮抗薬やドパミンD1拮抗薬が、ストレス性胃潰瘍の新しいタイプの治療薬になり得ることを示している。

審査要旨

 胃潰瘍の動物モデルとして、ラットに電撃、寒冷暴露、化学物質の暴露、水浸拘束等の身体的ストレスを負荷し、胃粘膜損傷を発生させるモデルが、数多く開発されてきた。これらのモデルでは胃酸分泌の亢進が見られるため、胃潰瘍の原因として胃酸が注目され、胃酸分泌抑制剤が抗潰瘍薬として開発されてきた。しかし、ヒトの胃潰瘍の原因は主に心理的ストレスであり、胃酸分泌も減少し、またヒトの胃潰瘍では組織学的にせいぜい糜爛しか形成されないなど、ヒトの臨床の病態像と必ずしも一致していないという問題点がある。最近、心理的ストレスによって胃粘膜障害を惹起させる動物モデルとしてcommunication box(CB)法、およびactivity-stress(AS)法が開発された。本研究ではこれら2つの心理的ストレス潰瘍モデルにおける各種の薬理学的試薬の作用を解析・探究することによって潰瘍の発生機序を明らかにすることを目的としている。

1)心理的ストレス潰瘍と身体的ストレス潰瘍の薬理学的解析

 心理的ストレスモデル2種と、代表的な身体的ストレスモデル2種(水浸拘束ストレス法:WI、およびインドメタシン投与法:IND)を取り上げ、薬理学的解析を行なった。Famotidine(H2受容体遮断薬)は、WI法およびIND法でのみ著効を示した。これに対して、sulpiride(向精神薬)はCB法およびAS法でのみ抑制作用を示した。身体的ストレスモデルでは胃酸分泌は亢進したが、心理的ストレスモデルでは減少した。WIにおいて亢進した胃酸分泌はfamotidineで有意に抑制されたがsulpirideは無効であった。

 以上の結果から、心理的ストレス潰瘍と身体的ストレス潰瘍は、その発生機序が明確に異なり、また、sulpirideは中枢を作用点として心理的ストレス潰瘍の形成を特異的に抑制することが明かとなった。

2)マウスのcommunication box(CB)潰瘍の病態形成におけるセロトニン3(5-HT3)受容体の役割

 CB潰瘍の形成を抑制したsulpirideは、ドパミン(DA)D2拮抗薬であり、弱い抗5-HT作用ももつ。DA関連薬ではmetoclopramide(D2拮抗薬)も抗潰瘍作用を示した。しかし、DA枯渇薬は胃潰瘍の形成に影響を及ばさなかった。また、haloperidol(D2拮抗薬)やFR64822(DA刺激薬)も有意な作用を示さなかった。従って、CB潰瘍の形成には、DAの関与は少ないことが推察された。一方、5-HT枯渇薬であるp-chlorophenylalanine(PCPA)、中枢性の5-HT3拮抗剤であるondansetron、tropisetron、およびbemesetronは抗潰瘍作用を示した。また、ketanserin(5-HT2拮抗剤)も高用量では抑制作用を示した。

 以上の結果から、本法における心理的ストレス潰瘍の形成には、ドパミン受容体ではなく中枢の5-HT3受容体の活性化が引き金となっていることが明らかになった。

3)ラットのactivity-stress(AS)潰瘍の病態形成におけるドパミンD1・D2受容体の役割

 SulpirideがAS潰瘍の発生を抑制したことから、前章同様の検討を行ったが、5-HT拮抗薬は作用を示さなかったので、AS潰瘍の形成には5-HTの関与は少ないことが推察された。一方、DA関連薬では、SCH23390(D1拮抗薬)およびhaloperidol(D2拮抗薬)、clozapine(DA拮抗薬)、metoclopramide(D2拮抗薬)が胃潰瘍の形成を抑制した。しかし、末梢性のDA拮抗薬のdomperidoneは無影響であった。このことから、AS潰瘍の形成には中枢のD1およびD2受容体の活性化が関与していることが明らかになった。AS法においては、活動量の増加に対してはhaloperidolが抑制し、日内リズムの乱れに関しては、SCH23390が抑制した。これにより、D1拮抗薬は日内リズムの乱れを抑え、D2拮抗薬は活動量の増加を抑えることが示された。

 以上の結果から、心理的ストレス潰瘍の発生には中枢のドパミンD1およびD2受容体の活性化が引き金となっていること、D1受容体およびD2受容体は、各々、AS法による日内リズムの乱れおよび活動量の異常な亢進の発現に関与していることが判明した。

 以上の成績は、胃潰瘍形成における5-HT3受容体ならびにD1受容体の新しい生理的役割を明らかにしたものであり、5-HT3拮抗薬やドパミンD1拮抗薬が、ストレス性胃潰瘍の新しいタイプの治療薬になり得ることを示したもので、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものとみとめた。

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