学位論文要旨



No 212838
著者(漢字) 斉藤,康己
著者(英字)
著者(カナ) サイトウ,ヤスキ
標題(和) 囲碁の認知科学的研究
標題(洋)
報告番号 212838
報告番号 乙12838
学位授与日 1996.04.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第12838号
研究科 工学系研究科
専攻 計数工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 甘利,俊一
 東京大学 教授 中野,馨
 東京大学 教授 武市,正人
 東京大学 教授 渕,一博
 東京大学 教授 井上,博允
 東京大学 助教授 市川,伸一
内容要旨

 本論文は、著者がここ数年間行なってきた囲碁に関する認知科学的研究の成果をまとめたものである。

 最近、囲碁をプレイするコンピュータ・プログラムの開発がチェスや将棋に次ぐ人工知能の恰好の研究対象として注目を集めつつある。しかし、60年代から、継続的な開発努力が続けられているにも拘らず、囲碁プログラムの実力は10級前後に留まっている。その最大の理由は、人間の囲碁プレイヤの思考過程に関する我々の理解がまだ不十分であることにある。そこで、我々は人間の囲碁プレイヤの思考過程を詳細に調べる研究を行なった。本研究の最大の目的は、パターン認識と論理的な推論の両方を駆使すると言われる囲碁の認知的な側面にメスを入れ、その特徴を浮き彫りにすることである。

 研究の方法としては、認知科学では最もオーソドックスなプロトコル分析と、古くて新しい道具であるアイカメラを利用した視線の分析の両者を駆使した。それによって、ゲームの分野では今までチェスにおいてしか知られていなかったプレイヤの認知スキルに関して、囲碁において初めての定量的な結果を得ると共に、認知科学の重要なテーマの一つである問題解決、特に複雑な問題の解決過程に関して多くの知見を得ることができた。

 比較的強いアマチュア・プレイヤのプロトコルの分析からは:

 ・盤面状況の認識結果は早期に言語化され、候補手の評価も言語レベルで行なわれること。

 ・自分の意図と相手の意図の理解に基づいて候補手が少数選ばれること。

 ・石の形(static pattern)だけでなく、時間軸方向の情報である交互に打たれた手の系列(sequence pattern,手順、定石など)も基本的なデータとして利用していること。

 ・囲碁プレイヤは「ゲーム木の探索(サーチ)」(「先読み」のことではない)をほとんどしないこと。

 ・候補手の検討は一つ一つ逐次的に行なわれること。また候補手は平均すると着手ごとに高々1.5個しか生成されないこと。

 ・候補手の検討に際しては、ほとんど分岐しないごく浅い(平均4手程度の)先読みが行なわれ、その結果として想定される予想盤面の評価に基づいて善し悪しが決定されること。

 ・先読みなしに評価が定まってしまう場合が多いこと(全体の2/3から4/5)。

 ・何手か先の予想盤面の評価は、言語レベルで行なわれる場合と、パターン・レベルで行なわれる場合の二つの場合があること。

 ・上級者同士の対局において全体の約8割の手に関して、両者の「相手の意図に関する理解」が一致していること。逆に、初心者ではこのような「理解」が成立しないこと。

 などの知見が得られ、アイカメラ・データからは:

 ・石と石の境目や空点に目が行くこと。

 ・相手の手番の時は見ている範囲が広く、逆に自分の手番の時は範囲が狭いこと。

 ・「先読み」時の視線はプロトコルとほぼ一致すること。もちろん、視線の方がプロトコルよりも多くの点を見ている。

 ・渡り筋、切り筋、眼形筋等の要点にプロトコルには出てこなくても視線がいっていることから、これらのパターンが目によって意識下で認識されていること。

 ・候補手選出のためのパターン知識がそれほど厳密な静的パターンではないこと。

 ・特定の具体的なパターンから瞬時に候補手が出てくる場合と、一般的知識(それ自身パターン的知識であってもかまわない)から候補手が出てくる場合の二通りの場合が存在すること。

 ・上級者は特定の具体的なパターン知識を沢山持っていること。

 などの知見が得られた。

 さらにプロトコルに頻繁に現われる囲碁用語に関して、どのような囲碁用語が実際に使われるかを明らかにした。また、プレイヤ達がどの程度の囲碁用語知識をもっているかを調べる実験を行い、囲碁用語知識と棋力との間に相関があること、また用語に関する知識が具体的なシーケンス・パターンを中心にして記憶されていることなどが明らかになった。

 パターン的な知識に関しても3秒という時間圧のもとで詰碁の問題を解く課題をアイカメラをつけた被験者に課し、上級者と初級者の詰碁に関するパターン知識の違いを明らかにした。

 これらの結果をもとに、複雑な問題の解決過程に「言語化」と「相手意図の理解」の果たす役割を明確にする一般的なモデルを提案した。次にそのモデルのもとで、囲碁プレイヤの思考過程の具体的なモデルを作成した。さらに、強い囲碁プログラムを作るにはどうしたらよいかを考察し、囲碁用語知識の利用、シーケンス・パターン知識の利用などいくつかの提言を行い、具体的なプログラム作りの方針をまとめた。

審査要旨

 囲碁は中国で生まれ日本で育った代表的な知的ゲームである.それはまた,人間が行なうゲームの中ではきわめて複雑なものであり,認知科学の関心事である「複雑な問題の解決過程」の恰好の例題でもある.本論文は「囲碁の認知科学的研究」と題し,囲碁プレイヤの実際の問題解決過程を認知科学的手法を駆使して解明し,その結果をもとに囲碁プレイヤの思考モデルを提案し,さらには一般のゲームを含む複雑な問題の解決過程に示唆を与えることを試みたものである.

 第1章は序論であり,研究の目的と,その背景となる人工知能及び認知科学の分野の諸問題を概観している.第2章は,今までに行なわれた問題解決の認知科学的研究を概観し,囲碁の次手決定という問題解決がその枠組みの中でどう捉えられるかを吟味している.第3章では,囲碁に関する数少ない認知科学的先行研究のサーベイと,本研究で用いたプロトコル分析手法とアイカメラを使った分析の説明を与えている.

 第4章は,囲碁プレイヤのプロトコルの分析結果をまとめたものである.「候補手の列挙」と「最善手選択」から構成されるTwo Box Modelを作業仮説として出発し,前者がパターンレベルの知識,後者が言語レベルの知識に支えられているという前提の元に分析を進めている.しかし分析の結果,問題解決過程はそう単純ではないことが明らかになった.ここでの結論として,(1)候補手の検討は逐次的で,候補手は着手ごとに平均1.5個しか生成されないこと,(2)「先読み」はほとんど分岐せず,ごく浅い(平均4手程度の)一本道で「ゲーム木の探索(サーチ)」はほとんどしないこと,(3)「先読み」なしに評価が定まってしまう場合が多いこと(全体の2/3から4/5),(4)何手か先の予想盤面の評価は,言語レベルで行なわれる場合と,パターンレベルで行なわれる場合の二つの場合があること,(5)上級者同士の対局において全体のほぼ8割の手に関して,両者の「相手の意図に関する理解」が一致していること,などが明らかになった.

 第5章では,囲碁プレイヤの囲碁用語知識を探るために囲碁用語で説明を求める実験を行なっている.さらに盤面の状況を提示して,それを何と呼ぶかを問う盤面状況認識の実験も実施している.これらの実験から囲碁用語知識と棋力の間に相関があること,用語そのものからスタートして,それを自然言語や例を駆使して説明する能力には個人差があることなどがわかった.

 第6章では,候補手列挙プロセスの中心となる盤面パターンの認識の仕組みをアイカメラを利用して調べている.具体的には,実際の対局における目の動きの分析と,4秒という時間圧下で詰碁の問題を解くときの目の動きの分析を行い,以下の知見を得た.(1)石と石の境目や空点に多く目が行くこと,(2)相手手番の時は見ている範囲が広く,自手手番の時は狭いこと,(3)「先読み」時の視線はプロトコルとほぼ一致するが,視線の方がプロトコルよりも多くの点を見ていること,(4)渡り筋,切り筋,眼形筋等の要点に,プロトコルには出てこなくても視線が行くこと,つまり,これらのパターンは意識下で認識されていること,(5)候補手選出のためのパターン知識は,厳密な静的パターンではないこと,(6)特定の具体的なパターンから候補手が出てくる場合と,一般的知識から候補手が出てくる場合の二通りの場合があること,(7)上級者は特定の具体的なパターン知識を沢山持っていること.

 第7章では,4,5,6章で得られた知見を元に,Two Box Modelを修正精密化し,囲碁プレイヤの思考モデルを提示した.このモデルは自手考慮モードと,相手の着手待ちモードを峻別し,あらゆる処理に言語レベルの知識とパターンレベルの知識を利用することを特徴とする.第8章では,囲碁をその典型的な例として含む「複雑な問題」の問題解決過程のモデルを提案している.このモデルは言語ラベルの使用と相手の意図の理解を核とし,7章の囲碁プレイヤの思考モデルを自然な形で拡張したものであり,囲碁,将棋,チェスなどのゲームだけでなく,さらに日常的な複雑な問題の一部を分析するときにも役立つモデルといえる.第9章では,現行の囲碁プログラムが弱い原因の考察を行ない,囲碁プレイヤの思考モデルを元に,強い囲碁プログラム作りへの提言を行なっている.第10章は結論であり,本論文の成果を要約し,今後の課題を述べている.

 これを要するに,本論文は囲碁のプレイヤの実際の問題解決過程を解明することを目的にプロトコル分析とアイカメラによる分析を行ない,そのモデルを提唱し,さらにゲーム一般を含む複雑な問題解決過程のモデルを展望したもので,数理情報工学上貢献するところが大きい.よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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