学位論文要旨



No 212847
著者(漢字) 堀江,信之
著者(英字)
著者(カナ) ホリエ,ノブユキ
標題(和) ヒトチミジル酸合成酵素遺伝子の発現調節機構の研究
標題(洋)
報告番号 212847
報告番号 乙12847
学位授与日 1996.04.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第12847号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 堀越,正美
 東京大学 教授 横山,茂之
 東京大学 助教授 多羽田,哲也
 東京大学 講師 名川,文清
 東京大学 客員教授 伊庭,英夫
内容要旨

 ヒトチミジル酸合成酵素(以下TS)はDNA合成の前駆体であるdTMPをde novoに合成する唯一の酵素であり、また、チミジン5’-三リン酸によるフィードバックコントロールにより、細胞内の4種のDNA合成前駆体の供給バランスを調節している鍵酵素である。この酵素の発現は細胞の増殖に必須であり、また、現在も広く用いられている抗癌剤5-フルオロウラシルの標的酵素としても知られている。ヒトのTS遺伝子は既にクローニングが完了しており、全一次構造が決定されている。しかし、ヒトTS遺伝子(以下hTS遺伝子)の発現に関るプロモーターの構造およびその制御に関る領域や、この遺伝子の発現制御において最も重要と考えられる細胞の増殖性に関連した調節についても、ほとんど研究が行われていなかった。そこで我々は、hTS遺伝子の細胞増殖に関連した発現制御機構の解明を目指して、hTS遺伝子の5’-上領域を中心に発現制御にかかわるシスおよびトランスに働く因子の解析を行った。

 まず、未同定であったhTS遺伝子のプロモーターの同定およびその周辺領域の詳細な解析を行った。hTS遺伝子のプロモーター領域には真核生物由来のプロモーターによく見られるCAAT BoxやTATA Box、典型的なGC Boxが存在しない。マウスのTS遺伝子ではプロモーター領域の解析がなされており、同定された転写に重要な領域のうち、Splの結合領域の1つがヒトの遺伝子と高い相同性を示しているが、その他のTS遺伝子に特徴的な調節を行っていると考えられる因子についてはその結合領域がヒトとマウスの間で保存されておらず、ヒトのTS遺伝子に特異的な発現制御領域の存在が示唆された。そこで、hTS遺伝子プロモーター領域とその調節領域を同定するために、欠失変異体を作製し、HeLa細胞を用いたCATアッセイによりそれらの領域を同定した。その結果、hTS遺伝子のプロモーター活性に必要な領域として転写開始点を+1として-65から+30の領域が同定された。この領域は、SV40初期遺伝子のエンハンサー領域やヒトのb-globin遺伝子のプロモーターに見られるCACCC Box(CCACACCC)およびマウスのTS遺伝子のSpl結合部位と相同性の高い領域を含んでいた。hTS遺伝子のプロモーター活性にかかわるDNA上のモチーフを決定するため、さらに詳細な欠失変異体およびカセット変異体を用いたCATアッセイを行った。その結果、hTS遺伝子のプロモーター活性にはhTS遺伝子の5’-上流域に存在するCACCC BoxおよびSpl結合部位が重要であることが明らかとなった。また、これらの領域の近くには、遺伝子の発現を抑制すると考えられる2つの領域が存在し、そのなかにはTTCCCという配列が共通して含まれていた。転写開始点の下流の領域についても欠失変異体を用いて解析を行った。その結果、hTS遺伝子の5’-上流域を用いたCATアッセイにおいてはhTS遺伝子の3回の繰り返し配列とそれに相補的な配列を含む領域が遺伝子の発現を促進する効果を持ち、有意な発現には少なくとも1組の逆向き反復配列が必要であることが示された。この結果はこの領域がmRNAに転写された後に高次構造を介して機能している可能性を示している。また、hTS遺伝子の翻訳開始コドンを含む領域は、遺伝子の発現に対し抑制的に働いていることが示唆された。このATGを含む領域はDNAの転写の段階およびRNAの翻訳の段階で機能する2つの可能性が考えられた。

 次に、同定されたDNA上の転写調節に関ると考えられる領域に対するDNA結合因子についても検討を行った。その結果、マウスのTS遺伝子と相同性の高いhTS遺伝子のSpl結合部位には実際にSplと考えられる因子が結合し、この因子の結合とCATアッセイにおけるhTS遺伝子のプロモーター活性との間に相関関係が見られることがわかった。また、ヒトのTS遺伝子に特異的なCACCC BoxにはSplに関連した複数の因子が結合することを見出した。さらに、CACCC BoxとSplの結合領域に挟まれた、遺伝子の発現を抑制すると考えられる領域にも、核内因子が結合することを見出した。これらの因子がhTS遺伝子の転写段階での正および負の発現制御に関与していることが考えられた。

 次に、以上の知見をもとに細胞の増殖性に依存してTS遺伝子の発現が変化するような系を用いて、その発現制御にかかわる因子の解析を行った。その系としてまず、ヒト前骨髄球性白血病患者より樹立されたHL-60細胞を1,25-dihydroxyvitamin D3によりマクロファージ様細胞に分化させた場合の変化について解析を行った。この細胞分化の誘導によりhTSのmRNAレベルが低下することが知られている。ゲルシフトアッセイを用いてhTS遺伝子に結合する核内因子の変化について調べたところ、hTS遺伝子の転写に重要と考えられるSplのプロモーター領域への結合については大きな変化は見られなかったが、新たにhTS遺伝子断片への結合が変化を示す複数のDNA結合因子を見出した。これらのうちの1つ(NF-TS1)はhTS遺伝子5’-上流域のOctamer配列(ATGCAAAT)に結合していた。一方、他の2つ(NF-TS2およびNF-TS3)は転写開始点の下流である遺伝子上の翻訳開始コドン近傍に結合していた。NF-TS2およびNF-TS3について結合部位を詳しく解析したところ、これらの因子はともに、hTS遺伝子の翻訳開始コドンのAを+1としたときに、-4から+11の塩基と相互作用しており、また複合体の形成には翻訳開始コドン中のATの配列が重要であることがわかった。また、NF-TS2の複合体については複数の蛋白質よりなる可能性が示唆された。これら3つの因子のうち、特にNF-TS2とNF-TS3は分化に伴い大きな変化を示し、分化前にはほとんど見られなかったNF-TS3が細胞分化とともに増加し、一方NF-TS2は分化に伴い減少した。NF-TS3が増加するという変化はHL-60細胞をretinoic acidやDMSOで顆粒球へ分化させた場合にも観察され、分化誘導剤の種類や分化の方向によらないことが明らかとなった。HL-60細胞の分化時における共通の変化として細胞の増殖性の低下があげられるが、以上の結果からNF-TS2およびNF-TS3はHL-60細胞の分化における共通の変化、たとえば細胞の増殖性の変化に伴うhTS遺伝子の発現調節に関与していることが示唆された。

 さらに、NF-TS2およびNF-TS3の細胞周期に対する依存性をヒトの正常繊維が細胞であるTIG-1細胞を用いて解析した。その結果、血清飢餓によりG0期とした細胞ではNF-TS2はほとんど見られないのに対し、血清を添加すると3時間後にはNF-TS2が観察されるようになることがわかった。この結果はhTS遺伝子の発現が上昇する時期とは対応していないが、NF-TS2およびNF-TS3が細胞の増殖性と関連のあることを示唆している。また、HeLa細胞やRaji細胞、分化前のHL-60細胞などの培養細胞系においてはNF-TS2が多く存在するのに対し、ヒトの正常繊維芽細胞であるTIG-1細胞ではNF-TS3が常に多く存在していた。

 以上のように、hTS遺伝子の転写開始点下流領域に細胞の増殖性に関連すると考えられる因子の結合が見られたことから、この領域のhTS遺伝子発現に与える影響について解析をおこなった。そのために、転写開始点の下流に存在する3回のくり返し配列およびNF-TS2およびNF-TS3の結合部位を含む領域(BssHII-BglIの領域)を、SV40の初期遺伝子のプロモーター/エンハンサー領域の下流、あるいはhTS遺伝子のプロモーターの下流に挿入した場合の効果について、NF-TS2およびNF-TS3の存在状態が異なるHeLa細胞およびTIG-1細胞を用いて検討を行った。その結果、HeLa細胞を用いたCATアッセイでは、ともにCAT遺伝子の発現を促進するのに対し、TIG-1細胞を用いた場合にはSV40のプロモーターではBssHII-BglI断片の有無でCAT遺伝子の発現は変化せず、hTS遺伝子のプロモーターでは、この領域を挿入することにより、CAT遺伝子の発現が抑制されることがわかった。

 一方、前に述べた欠失変異体を用いたCATアッセイの結果から、hTS遺伝子の3回のくり返し配列を含む構造は遺伝子発現を増強する働きのあることが示唆されていた。この実験で観察された、HeLa細胞に導入したときに見られるプロモーターの種類に依存しない発現促進効果は、くり返し配列部分のRNAの高次構造を介した遺伝子発現に対する効果としても説明が可能であると考えられる。一方、TIG-1細胞中で観察された遺伝子発現への抑制的な働きは、hTS遺伝子のプロモーターに特異的であることから、転写段階の調節である可能性が高いと考えられる。

 現在のところ直接的な証拠は得られていないが、TIG-1細胞ではhTS遺伝子の翻訳開始コドンにNF-TS3が結合していることから考えて、このNF-TS3がhTS遺伝子のプロモーターに特異的なDNA結合因子と相互作用することによりhTS遺伝子の転写抑制に関与していることが考えられる。

 本研究で明らかにしたhTS遺伝子5’-上流域の発現調節に関るシス及びトランスに働く因子を図1に示す。

図1hTS遺伝子の発現制御にかかわるシスおよびトランスに働く因子
審査要旨

 ヒトチミジル酸合成酵素(以下TS)はDNA合成の前駆体であるdTMPをde novoに合成する唯一の酵素である。この酵素の発現は細胞の増殖に必須であり、また、現在も広く用いられている抗癌剤5-フルオロウラシルの標的酵素としても知られている。ヒトのTS遺伝子(以下hTS遺伝子)は既に全一次構造が決定されているが、hTS遺伝素の発現に関るプロモーターの機能構造や、この遺伝子の発現制御において最も重要と考えられる細胞の増殖性に関連した調節については、ほとんど研究が行われていなかった。本論文ではこのように解析の進んでいないhTS遺伝子の細胞増殖に関連した発現制御機構の解明を目指して、hTS遺伝子の5’-上流域を中心に発現制御にかかわるシス及びとトランスに働くコンポーネントの解析を行い、この遺伝子の発現調節における新しい局面を切り開いた。

 まず、hTS遺伝子のプロモーターおよびその調節に関るDNA領域の同定を行った。その結果、hTS遺伝子のプロモーター活性にはhTS遺伝子の5’-上流域に存在するCACCC BoxおよびSpl結合部位が重要であることが明らかとなった。また、これらの領域の近くには、遺伝子の発現を抑制すると考えられる2つの領域が存在し、そのなかにはTTCCCという配列が共通して含まれていた。また、転写開始点の下流領域の、ヒトのTS遺伝子に特徴的な3回の繰り返し配列とそれに相補的な配列を含む領域が遺伝子発現を促進する効果を持つことが示された。

 次に転写調節に関ると考えられる同定されたDNA領域に対するDNA結合因子についても検討を行った。その結果、hTS遺伝子のSpl結合部位には実際にSplと考えられる因子が結合し、この因子の結合とCATアッセイにおけるhTS遺伝子のプロモーター活性との間に、よい相関関係が見られることがわかった。また、CACCC BoxにはSplに関連した複数の因子が結合することを見出した。さらに、CACCC BoxとSplの結合領域に挟まれた、遺伝子の発現を抑制すると考えられる領域にも、核内因子が結合することを見出した。これらの因子がhTS遺伝子の転写段階での正および負の発現調節に関与していることが考えられた。

 次に、細胞の増殖性に依存してTS遺伝子の発現が変化する系を用いて、その発現制御にかかわる因子の解析を行った。そのために、ヒト前骨髄球性白血病患者より樹立されたHL-60細胞を1,25-dihydroxyvitamin D3によりマクロファージ様細胞に分化させた場合の、hTS遺伝子に結合する核内因子の変化について解析をおこなった。その結果、新たにhTS遺伝子断片への結合性が変化する複数のDNA結合因子を見出した。これらの因子のうち、転写開始点下流域の翻訳開始コドンの近傍に結合する2つの因子(NF-TS2およびNF-TS3)の変化は、分化誘導剤の種類や分化の方向によらないことが明らかとなった。HL-60細胞の分化時には共通して増殖能が低下することから、NF-TS2およびNF-TS3はhTS遺伝子の細胞の増殖性に伴う発現調節に関与していることが示唆された。また、正常繊維芽細胞であるTIG-1細胞を用いた解析でもこれらの核内因子と細胞の増殖性との関連性を示唆する結果を得た。

 そこで、これらの因子の結合部位を含む、hTS遺伝子の転写開始点下流領域の、遺伝子発現に及ぼす影響について解析を行った。その結果、この領域はHeLa細胞中ではプロモーターの種類に依存せずに、遺伝子発現を促進する効果を持つのに対し、TIG-1細胞中ではhTS遺伝子のプロモーターに特異的に遺伝子発現を抑制する効果を持つことが示された。

 これらのhTS遺伝子下流領域の遺伝子発現に及ぼす効果のうち、TIG-1細胞中で観察された遺伝子発現の抑制効果は、HeLa細胞と異なり、TIG-1細胞中でNF-TS3が主にhTS遺伝子に結合していると考えられることから、この因子を介した転写抑制による効果であることが推測された。

 以上のように、本論文はヒトチミジル酸合成酵素というDNA合成関連酵素として重要な酵素の遺伝子発現制御のしくみを明らかにする目的で、遺伝子DNA情報の担い手であるシスDNAエレメントからの解析および遺伝子DNA情報を引き出すためにそのシスDNAエレメントに結合して働く蛋白性転写因子側からの解析、というような両面からの解析を総合的に行い、様々な知見を得ており、この遺伝子の発現制御についての様々な新しい展開を示している。

 以上の理由により、審査委員会は全員一致によって論文提出者に対し博士(理学)の学位を授与できると判断した。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/50998