学位論文要旨



No 212850
著者(漢字) 盛,小明
著者(英字)
著者(カナ) シェン,シァオミン
標題(和) 小児悪性腫瘍におけるRAS遺伝子変異と臨床像
標題(洋)
報告番号 212850
報告番号 乙12850
学位授与日 1996.04.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第12850号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 土田,嘉昭
 東京大学 教授 澁谷,正史
 東京大学 助教授 中堀,豊
 東京大学 講師 吉川,裕之
 東京大学 講師 東原,正明
内容要旨 研究の目的および背景

 細胞の癌化の多くは増殖を制御する遺伝子の変化によって引き起こされることが明らかになってきた。このような変化には癌遺伝子の活性化と癌抑制遺伝子の不活性化がある。代表的な癌遺伝子であるRAS遺伝子とヒト癌との関わりは、1980年代初頭にヒト癌細胞から初めて分離された癌遺伝子がp21RASをコードすることが判明したことに端を発する。以来、今日に至るまで癌に関するRAS遺伝子をめぐっての研究の発展にはめざましいものがあり、これまでに知られた癌遺伝子のうちでヒト腫瘍との関連が最も深いものの1つであるとされている。RAS遺伝子群はH-、K-、およびN-RAS遺伝子がある。これらの産物はいずれも189個のアミノ酸よりなる、お互いにアミノ酸配列の85%が相同な、分子量約21,000のp21RAS蛋白質をコードしている。p21RASは正常細胞において増殖の調節や発生分化の制御などの一翼を担っている。そして、ある特定部位でのアミノ酸の置換により、異常な活性化がみられる。今までに同定されたp21RASを活性化する置換の存在位置は、N-末端からアミノ酸番号12番、13番または61番である。多くの腫瘍で、RASの点突然変異のみられる症例はみられない症例に比べて悪性度が高く、予後不良の場合が多いことが知られている。また変異が検出されるのは、腫瘍の発生の後期段階になってからであるという報告が多い。RAS遺伝子の種類と発症する腫瘍との関係については、K-RAS遺伝子の変異は腺癌、特に膵臓癌で、H-RAS遺伝子の変異は腎臓癌で、N-RAS遺伝子の変異は造血器腫瘍で高頻度であると報告されている。RAS遺伝子全体の変異頻度は成人については平均22%とされているが、小児についての多数例の報告はまだない。小児の悪性腫瘍は成人と異なり、肉腫や胎児性腫瘍が多く、また遺伝性の背景が示唆される症例が多い。本研究では成人のほとんどの癌に高頻度でみられるRAS遺伝子の異常を、まだ報告の少ない小児の悪性腫瘍の細胞株と新鮮腫瘍を用いて検索し、RAS遺伝子の小児悪性腫瘍における変異の種類と頻度およびその臨床的意義を検討した。

方法と結果の概要

 細胞株および新鮮腫瘍から抽出したDNAを、3種類のN-、H-、K-RAS遺伝子のN-末端から第1エクソンの12番目、13番目、または第2エクソンの61番目の該当する領域をはさむ6組12個のプライマーを用いてPCR法で増幅した。その産物をポリアクリルアミド非変性ゲルを用い、10%グリセロール不添加で4℃と26℃、10%グリセロール添加で26℃の3種類の条件で泳動を行ない(SSCP法)、泳動終了後ゲルを濾紙上に移しとって、ゲル乾燥機で乾燥させ、オートラジオグラフィーを行い異常バンドの有無をスクリーニングした。異常バンドがあればゲルを切り出し、再度PCR法で増幅して直接塩基配列決定法で塩基配列を決定した。骨髄異形成症候群(MDS)と若年型慢性骨髄性白血病(JCML)については、SSCP法と同時に全ての検体を直接塩基配列決定法で検討した。

 対象は急性リンパ性白血病(ALL)の細胞株40株、新鮮腫瘍128検体、急性骨髄性白血病(AML)の細胞株12株、新鮮腫瘍67検体、MDSの新鮮腫瘍29検体、JCMLの新鮮腫瘍12検体である。この中で染色体所見の判明しているものは、11q23転座型白血病の細胞株3株、新鮮腫瘍51検体、t(8;21)の新鮮白血病15検体、t(1;19)の細胞株5株、新鮮腫瘍21検体であった。固形腫瘍においては、横紋筋肉腫の細胞株6株、新鮮腫瘍51検体、神経芽腫の細胞株11株、新鮮腫瘍8検体、Ewing肉腫/PNETの細胞株10株、新鮮腫瘍20検体、ウイルムス腫瘍の細胞株3株、骨肉腫の細胞株2株、胎児性癌の細胞株1株を検討した。総数400検体(細胞株85株、新鮮腫瘍315検体)を検討した結果、小児悪性新生物のRAS遺伝子の平均変異率は6%(24/400)であった。白血病での変異率は6.6%(19/288)で、その中細胞株では52株中9株(17.3%)に、新鮮腫瘍とMDS236検体では10検体(4.2%)に変異がみられた。固形腫瘍の変異率は4.5%(5/112)であり、その中細胞株では33株中3株(9.1%)の変異で、新鮮腫瘍では79検体中2検体(2.5%)の変異であった。固形腫瘍の中、横紋筋肉腫での変異率は7%(4/57)で、神経芽腫では5.3%(1/19)であった。他の固形腫瘍では変異がみとめられなかった。

 塩基配列とアミノ酸の変化についてみると、白血病ではT-ALLにおけるRAS遺伝子の変異はいずれもN-RAS遺伝子の変異で、4株の変異はいずれもコドン12の変異であり、新鮮腫瘍のうち1例がコドン12の、他の1例がコドン61の変異であり、変異の種類とコドンはこれまでのALLのRAS遺伝子の変異の報告と同様であった。塩基置換では、細胞株では2株がtransitionで2株がtransversionであった。新鮮腫瘍では、1例がtransversionで、残り1例でみられた変異はコドン12の1番目と2番目のGG→TTの2塩基置換であった。common-ALLでは変異がみられた2例はいずれもN-RAS遺伝子の変異で、transitionが1例、transversionが1例であった。11q23転座型白血病では、変異がみられた4例はいずれもK-RAS遺伝子の変異で、このうち2例がtransitionで2例がtransversion、残り1例ではコドン12と13の間に3塩基(GGT)の挿入が認められた。造血器腫瘍では希なK-RASの変異と11q23転座型白血病との関係が興味深く思われるが、これまでヒトでの両者の関係を検索した報告はなく今後更なる検討を要する。AMLでは細胞株のみにN-RAS遺伝子の変異がみられた。変異のみられた4株のうち3株がtransitionで、1株がtransversionであった。MDSでは1例でN-RAS遺伝子のコドン13のtransversionが、JCMLでは1例でN-RAS遺伝子のコドンの12のtransversionが認められた。結局、急性白血病ではtransitionが7検体(うち細胞株5株)、transversionが14検体(うち細胞株5株)にみられ、transitionが細胞株に、transversionが新鮮白血病に多い傾向がみられたが、特別な化学発がん物質との関連は明らかではなかった。固形腫瘍では、横紋筋肉腫で見られた変異はすべてN-RASの変異で、1株と1例ではコドン61のtransversionで、1例ではコドン12の1番目と2番目のGG→TTの2塩基置換の変異であった。他の1例ではまれなコドン20の変異であったが、ACA→ACGのsilent mutationであった。変異例が少ないため、RASの変異部位と横紋筋肉腫との関係は明らかではなく、今後の症例の蓄積がまたれる。神経芽腫では1細胞株でH-RAS遺伝子のコドン10のtransversionがみられた。これまでこの変異の報告はみられてない。

 変異と臨床像では、T-ALLでは73例中2例に変異がみられ、1例は再発するも再寛解導入され、他の1例は5カ月寛解中であった。common-ALLでは変異のみられた2例中1例は18カ月で死亡、他の1例は73カ月生存中であった。11q23転座型では変異のみられた4例は全例死亡していることより、予後不良である可能性が考えられたが、変異のみられなかった47例中18例(38%)も死亡しており、11q23転座型白血病自体が予後不良であるため、変異の有無による臨床像の差は明らかではなかった。白血病全体では有意な差はみられなかったが、変異を有した8例中観察期間が短い1例を除く7例について治療経過をみると、無病生存中は1例のみで(73ヶ月)、5例が死亡し、1例は再発治療中であり、予後不良の傾向が示唆された。固形腫瘍では、横紋筋肉腫の51例中に2例にN-RAS遺伝子の変異がみられ、この2例はいずれも死亡しており、変異が予後に関連すると思われた。今後多数例についのprospectiveな検討が必要と思われた。

まとめ

 本研究の多数例の検討より小児悪性腫瘍のRAS遺伝子の変異率は成人より著しく低いことが明らかになった。細胞株と新鮮腫瘍の比較では、細胞株の変異率は新鮮腫瘍の変異率より有意に高く、これまでの成人での報告と同様であった。また小児においても成人と同様RAS遺伝子の変異は腫瘍の病型によってその種類と頻度にかたよりがあることが明らかになった。さらに造血器腫瘍では稀なK-RAS遺伝子の変異はMLL遺伝子再構成陽性の11q23転座型白血病と関係があることを初めて明らかにした。小児と成人との違いは、その原因として小児の腫瘍では遺伝的背景の存在や成人と発癌機序が異なることが考えられた。小児は成人より外的な発癌物質にさらされる機会が少ないことと関連があるのかもしれない。

審査要旨

 癌遺伝子の代表であるRAS遺伝子はヒト腫瘍との関連が最も深いものの1つであるとされている。RAS遺伝子群はH-、K-、およびN-RAS遺伝子がある。p21RASは正常細胞において増殖の調節や発生分化の制御などの一翼を担っている。ある特定部位でのアミノ酸の置換により、異常な活性化がみられる。今まで同定されたp21RASを活性化する置換の存在位置は、N-末端からアミノ酸番号12番、13番または61番である。多くの腫瘍で、RASの点突然変異のみられる症例はみられない症例に比べて悪性度が高く、予後不良の場合が多いことが知られている。また変異が検出されるのは、腫瘍の発生の後期段階になってからであるという報告が多い。RAS遺伝子全体の変異頻度は成人については平均22%とされているが、小児についての多数例の報告はまだない。小児の悪性腫瘍は成人と異なり、肉腫や胎児性腫瘍が多く、また遺伝性の背景が示唆される症例が多い。本研究はRAS遺伝子の小児悪性腫瘍における変異の種類と頻度およびその臨床的意義を解明するため、成人のほとんどの癌に高頻度でみられるRAS遺伝子の異常を、まだ報告の少ない小児の悪性腫瘍の細胞株と新鮮腫瘍をPCR-SSCP法と塩基配列決定法を用いて解析した。3種類のN-、H-、K-RAS遺伝子のN-末端から第1エクソンの12番目、13番目、または第2エクソンの61番目の該当する領域をはさむ6組12個のプライマーを用いてPCR法で増幅した。その産物を3種類の条件で泳動を行ない(SSCP法)、異常バンドがあるゲルを切り出し、再度PCR法で増幅して直接塩基配列決定法で塩基配列を決定した。骨髄異形成症候群(MDS)と若年型慢性骨髄性白血病(JCML)については、SSCP法と同時に全ての検体を直接塩基配列決定法で検討した。総数400検体の多数例を解析したものであり、下記の結果を得ている。

 1・ 対象は、造血器腫瘍においては、急性リンパ性白血病(ALL)、急性骨髄性白血病(AML)、MDSとJCMLの細胞株52株で、新鮮腫瘍236検体である。この中で染色体所見の判明しているものは、11q23転座型白血病の細胞株3株、新鮮腫瘍51検体、t(8;21)の新鮮白血病15検体、t(1;19)の細胞株5株、新鮮腫瘍21検体であった。固形腫瘍においては、横紋筋肉腫、神経芽腫、Ewing肉腫/PNET、ウイルムス腫瘍、骨肉腫と胎児性癌の細胞株33株、新鮮腫瘍79検体である。総数400検体(細胞株85株、新鮮腫瘍315検体)を検討した結果、小児悪性新生物のRAS遺伝子の平均変異率は6%(24/400)であった。白血病での変異率は6.6%(19/288)で、その中細胞株では52株中9株(17.3%)に、新鮮腫瘍とMDS236検体では10検体(4.2%)に変異がみられた。固形腫瘍の変異率は4.5%(5/112)であり、その中細胞株では33株中3株(9.1%)の変異で、新鮮腫瘍では79検体中2検体(2.5%)の変異であった。その中、横紋筋肉腫での変異率は7%(4/57)で、神経芽腫では5.3%(1/19)であった。他の固形腫瘍では変異がみとめられなかった。

 2・ 塩基配列とアミノ酸の変化についてみると、白血病ではT-ALLにおけるRAS遺伝子の変異はいずれもN-RAS遺伝子の変異で、4株の変異はいずれもコドン12の変異であり、新鮮腫瘍のうち1例がコドン12の、他の1例がコドン61の変異であり、変異の種類とコドンはこれまでのALLのRAS遺伝子の変異の報告と同様であった。塩基置換では、細胞株では2株がtransitionで2株がtransversionであった。新鮮腫瘍では、1例がtransversionで、残り1例でみられた変異はコドン12の1番目と2番目のGG→TTの2塩基置換であった。common-ALLでは変異がみられた2例はいずれもN-RAS遺伝子の変異で、transitionが1例、transversionが1例であった。11q23転座型白血病では、変異がみられた4例はいずれもK-RAS遺伝子の変異で、このうち2例がtransitionで2例がtransversion、残り1例ではコドン12と13の間に3塩基(GGT)の挿入が認められた。造血器腫瘍では希なK-RASの変異と11q23転座型白血病との関係が興味深く思われるが、これまでヒトでの両者の関係を検索した報告はなかった。AMLでは細胞株のみにN-RAS遺伝子の変異がみられた。変異のみられた4株のうち3株がtransitionで、1株がtransversionであった。MDSでは1例でN-RAS遺伝子のコドン13のtransversionが、JCMLでは1例でN-RAS遺伝子のコドンの12のtransversionが認められた。結局、急性白血病ではtransitionが7検体(うち細胞株5株)、transversionが14検体(うち細胞株5株)にみられ、transitionが細胞株に、transversionが新鮮白血病に多い傾向がみられたが、特別な化学発がん物質との関連は明らかではなかった。固形腫瘍では、横紋筋肉腫で見られた変異はすべてN-RASの変異で、1株と1例ではコドン61のtransversionで、1例ではコドン12の1番目と2番目のGG→TTの2塩基置換の変異であった。他の1例ではまれなコドン20の変異であったが、ACA→ACGのsilent mutationであった。神経芽腫では1細胞株でH-RAS遺伝子のコドン10のtransversionがみられた。これまでこの変異の報告はみられてない。

 3・変異と臨床像では、T-ALLでは73例中2例に変異がみられ、1例は再発するも再寛解導入され、他の1例は5カ月寛解中であった。common-ALLでは変異のみられた2例中1例は18カ月で死亡、他の1例は73カ月生存中であった。11q23転座型では変異のみられた4例は全例死亡していることより、予後不良である可能性が考えられたが、変異のみられなかった47例中18例(38%)も死亡しており、11q23転座型白血病自体が予後不良であるため、変異の有無による臨床像の差は明らかではなかった。白血病全体では有意な差はみられなかったが、変異を有した8例中観察期間が短い1例を除く7例について治療経過をみると、無病生存中は1例のみで(73ヶ月)、5例が死亡し、1例は再発治療中であり、予後不良の傾向が示唆された。固形腫瘍では、横紋筋肉腫の51例中に2例にN-RAS遺伝子の変異がみられ、この2例はいずれも死亡しており、変異が予後に関連すると思われた。

 以上、本研究の多数例の検討より小児悪性腫瘍のRAS遺伝子の変異率は成人より著しく低いことが明らかになった。細胞株と新鮮腫瘍の比較では、細胞株の変異率は新鮮腫瘍の変異率より有意に高く、また小児においても成人と同様RAS遺伝子の変異は腫瘍の病型によってその種類と頻度に偏りがあることが明らかになった。さらに造血器腫瘍では稀なK-RAS遺伝子の変異はMLL遺伝子再構成陽性の11q23転座型白血病と関係があることを初めて明らかにした。本研究は、小児悪性新生物と成人の腫瘍との違いは、その原因として小児の腫瘍では遺伝的背景の存在や成人と発癌機序が異なることの解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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