学位論文要旨



No 212855
著者(漢字) 藤原,敏博
著者(英字)
著者(カナ) フジワラ,トシヒロ
標題(和) ハムスター卵成熟過程におけるイノシトール三リン酸誘起性Ca2+遊離機構の発達に関する研究
標題(洋)
報告番号 212855
報告番号 乙12855
学位授与日 1996.04.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第12855号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川名,尚
 東京大学 教授 飯野,正光
 東京大学 助教授 山下,直秀
 東京大学 助教授 佐藤,英明
 東京大学 助教授 多久和,陽
内容要旨

 産婦人科不妊症治療においては、体外受精胚移植法の臨床応用により、難治症例に対しても治療が可能となってきているが、その成績はいまだ十分なものではない。特に受精障害が認められる症例については、有効な対応策がないのが現状である。受精障害は、配偶子(卵および精子)の少なくとも一方に受精能の低下が存在することに起因すると考えられ、その病態生理の究明には、受精現象の生理の解明が必要不可欠と考えられる。

 ところで哺乳動物卵では、受精時に細胞内でイノシトール三リン酸(InsP3)が産生し、これに誘起されて細胞内カルシウム(Ca2+)濃度が一過性に増加することが報告されている。そして本反応が受精後の卵の賦活化に重要な意義をもつとされている。この受精時細胞内Ca2+増加反応の卵成熟過程における変化については十分な知見はなく、その解明は卵受精能を評価するための新しい指標の開発へとつながることが期待される。以上の点をふまえて、本研究では受精時細胞内Ca2+増加反応(以下"受精Ca2+反応")およびそのモデルであるイノシトール三リン酸誘起性細胞内Ca2+増加反応(InsP3 induced Ca2+ release:IICR)が、卵成熟過程においてどの様に変化するかを解明することを目的とした。

 研究材料としては成熟雌ゴールデンハムスター卵を用いた。また2種類の卵成熟様式において検討を行った。すなわちpregnant mare serum gonadotropin(PMSG)30iuを腹腔内投与48時間後にhuman chorionic gonadotropin(hCG)30iuを投与し、投与2〜16時間後に卵巣または卵管より卵を採取して実験に供した群(A群:in vivo maturation group)と、PMSG30iuを腹腔内投与してその48時間後に卵巣より卵を採取し、これを卵-卵丘細胞結合体の状態で培養液(BWW)中で2〜16時間培養した後に実験に供した群(B群:in vitro maturation group)の2群において研究を行った。

 各群において、hyaluronidaseで卵丘細胞を、trypsinで透明帯を除去した後に、Ca2+結合性蛍光色素であるFura2をAM体の形で卵細胞内に取り込ませた。卵を倒立顕微鏡のステージ上に設置し、媒精あるいはInsP3の細胞内微量注入を行った。なおInsP3の細胞内微量注入は、卵に刺入した微小ガラス電極にInsP3を入れ、電流パルスにより電気泳動的に行い、その注入量は電流量と時間の積の形(単位はnA×sec)で表示した。実験前後に360nmの、また実験中340nmの波長の紫外線を卵に照射し、励起される510nmの蛍光を高感度カメラで捕捉した。これら2種類の波長の紫外線を照射して得られた蛍光強度の比をとり、これと標準曲線との対比から細胞内Ca2+濃度([Ca2+]i)を算定した。また一部のデータについては、イメージプロセッサを用いて、[Ca2+]iの時間的・空間的分布を解析した。

 研究結果の概要は以下の通りである。

 (1)受精Ca2+反応:PMSG-hCGを投与16時間後に卵管より採取した成熟卵では、受精に際してピーク[Ca2+]iが500〜550nMに達する反復性の受精Ca2+反応が認められた。この反応は、開始直後は短い周期で出現したが、その後は2〜3分間隔でほぼ規則正しく認められた。一方PMSG投与48時間後に卵巣より採取した未成熟卵においても、受精Ca2+反応が認められ、しかもInsP3受容体のCa2+チャネル部位の近傍のエピトープを認識するモノクローナル抗体(mAb)である18A10により抑制されたことから、この反応がIICRによるものであると考えられた。しかし、成熟卵と比較すると個々の反応の持続時間は短く、またピーク[Ca2+]i値も250〜300nMと低かった。また未成熟卵では、媒精を行わない状態でも[Ca2+]iの微小変動が認められ、かつ18A10により抑制された。

 (2)serotonin(5-HT)に対するCa2+変化:5-HTは、その生物学的意義は不明であるものの、成熟ハムスター卵において50nMの濃度で周期的なCa2+濃度変化を起こすことが知られている。5-HT2受容体はPI情報伝達系を活性化し、G蛋白を介してIICRを惹起する。未成熟卵のPI情報伝達系を検索する目的で5-HTを投与した。その結果未成熟卵では、成熟卵で反応を起こす濃度の1/100以下である0.5nMがCa2+濃度変化を引き起こすのに十分であった。5-HTの投与から反応開始まで約50秒の時間的遅延があり、[Ca2+]iのピーク値は150〜200nMであった。1nMの5-HTを投与すると、より短い遅延の後に、受精時と同様の周期的Ca2+濃度変化が生じた。これらの5-HT誘起性Ca2+反応は、18A10により完全に抑制された。一方成熟卵では、50〜75nMの5-HTを投与しても反応は1回のみであり、また未成熟卵に0.5nMの5-HTを投与したときと同等の時間的遅延をもちながら、[Ca2+]iは500nM以上に達した。

 (3)イノシトール三リン酸誘起性細胞内Ca2+増加反応(IICR):成熟卵では、少量のInsP3の注入に対してはピーク値が150nM程度の小さい[Ca2+]i増加しか認められなかった。しかし一定値(0.9〜1.0nA×sec)を越える注入量に対しては、より少ない注入量における反応に比べて不連続的に、ピーク値が500nMに達する反応が出現した。またこの値を越える注入量では、反応の大きさにはあまり差はみられなかった。つまり成熟卵ではIICRに対する反応には閾値が存在し、反応パターンは自己再生的(regenerative)であった。

 一方未成熟卵では、同量のInsP3を注入した成熟卵と比べてより小さい反応しか認められず、InsP3に対する感受性は、未成熟卵の方が低いことが示された。さらに特徴的なことに、未成熟卵ではInsP3の注入量の増加に伴い、反応の大きさも段階的に増加していった。すなわち未成熟卵の反応性は自己再生的ではなく、gradedであることが示された。また20nA×2secのInsP3の注入量に対するピーク[Ca2+]iは成熟卵の約80%であり、未成熟卵においても成熟卵とほぼ同程度のInsP3感受性Ca2+ストアを備えていると考えられる。

 (4)IICRの時間的・空間的解析:成熟卵では、閾値以下の刺激に対しては、InsP3の注入部位近傍のみで[Ca2+]i増加がみられるが、閾値を超えると注入部位で[Ca2+]iが増加した後、反対側に向かってCa2+増加が伝播していくさま(Ca2+波)が認められた。またピーク時のCa2+濃度は、卵内のいずれの部位においても同等の値をとった。

 一方未成熟卵では、小さい刺激ではInsP3の注入部位近傍のみで[Ca2+]i増加がみられる。InsP3の注入量の増加に伴い、注入部位の対側においてもCa2+増加が認められるが、Ca2+濃度は注入部位において高く、反対側にいくにしたがい低くなる濃度勾配が存在した。観察した最大刺激である20nA×2secではCa2+波様の現象が認められたが、注入したInsP3が反対側に直接拡散して行く過程で形成された可能性も否定はできない。

 (5)IICRの卵成熟過程における発達:IICRが卵成熟過程においてどのように発達していくかを検討した。実験で用いたInsP3の投与量は、1.2nA×1sec[成熟卵における閾値をわずかに上回る量:パルス1],5.0nA×1sec[閾値より十分に多い量:パルス2],20nA×2sec[閾値をはるかに上回る最大刺激量:パルス3]の3種類である。A群では、パルス1に対する反応はhCG投与10時間までは変化は認められず、それ以降発達を示した。パルス2に対する反応は、hCG投与5時間で成熟卵の反応の80%まで急速に発達し、それ以降は発達は緩徐であった。パルス3に対する反応は未成熟卵から成熟卵にいたるまで、ほぼ一定の緩徐な発達を示した。B群では全体のパターンとしてはA群に類似していたが、以下の点において差異がみられた。まずパルス1に対する反応は、培養開始8時間後までは変化がなく、それ以降発達を示した。パルス2に対する反応は、培養開始5時間後までに急速に発達してほぼ成熟卵のレベルに達し、それ以降は発達はみられなかった。

 以上の実験結果より、以下のことが考察された。

 (1)未成熟卵では受精Ca2+反応は未発達であり、これは本反応の構成要素であるIICRが、未成熟卵において未発達であることに起因していると考えられた。ただし、未成熟卵においても成熟卵と同様にPI情報伝達系が作動しており、精子ならびに5-HTに対するCa2+反応のサイズが小さい理由はPI情報伝達系が未発達なためではなく、IICRが何らかの修飾を受けていることに起因している可能性が示唆された。

 (2)未成熟卵は成熟卵とほぼ同等のInsP3感受性Ca2+プールを備えていると考えられた。

 (3)未成熟卵におけるIICRは、成熟卵と比較して以下の特徴を有した。第1にInsP3に対する感受性は未成熟卵の方が低かった。第2に成熟卵はInsP3の注入量と反応との関係には閾値が存在し、自己再生的であったのに対して、未成熟卵では両者の関係はgradedであった。このことは、卵内の一部で生じたCa2+増加を周囲に伝播する機能が、未成熟卵において未発達であるためと解釈される。

 (4)未成熟卵では自発性Ca2+振動がみられたが、その生物学的意義は不明である。

 (5)卵成熟過程におけるIICRの発達には以下の特徴がみられた。第1に比較的強い刺激に対する反応はin vivo maturationではhCG投与5時間後、in vitro maturationでは培養開始5時間後で成熟卵に匹敵するレベルに達した。すなわちInsP3に対する反応の感受性はこの時点でほぼ成熟卵のレベルに達したと考えられる。第2に成熟卵の閾値を超える比較的弱い刺激に対しては、in vivo maturationではhCG投与10時間後、in vitro maturationでは培養開始8時間後まではほとんど反応が認められず、各々この時間以降から発達を始めた。すなわちIICRの卵内における伝播性はこの時期に発達するものと考えられる。

 (6)in vivo maturationとin vitro maturationとで認められたIICR発達パターンの差異は、これら2つの卵成熟様式の質的差異を反映している可能性がある。

 以上から、受精能獲得のために必須であると考えられる受精Ca2+反応およびその構成要素であるIICR機構が、卵成熟過程において発達することが示された。

審査要旨

 本研究は、哺乳動物卵の受精過程において重要な役割を演じていると考えられる受精時卵細胞内Ca2+増加反応(受精Ca2+反応)の卵成熟過程における発達を明らかにするために、ハムスター卵のin vivoおよびin vitroでの成熟系にて、受精Ca2+反応およびそのモデルであるイノシトール三リン酸誘起性細胞内Ca2+増加反応(InsP3 induced Ca2+ release:IICR)の反応性の経時的変化をみたものであり、下記の結果を得ている。

 1.PMSG-hCGを投与16時間後の成熟卵では、受精に際してピーク[Ca2+]iが500〜550nMに達する反復性の受精Ca2+反応が認められた。一方PMSG投与48時間後に卵巣より採取した未成熟卵では、受精Ca2+反応は認められるものの、個々の反応の持続時間は短く、またピーク[Ca2+]i値も250〜300nMと低かった。すなわち未成熟卵では、受精Ca2+反応が成熟卵に比べて未発達であることが示された。

 2.serotonin(5-HT)は、成熟ハムスター卵においG蛋白を介してPI情報伝達系を活性化し、IICRを惹起する。成熟卵では50nMの濃度で周期的なCa2+濃度変化が起こるが、未成熟卵では、その濃度の1/100以下である0.5nMがCa2+濃度変化を引き起こすのに十分であった。従って未成熟卵においては、受容体-G蛋白-効果器に至るまでの経路は、成熟卵と比較して十分に発達していると考えられた。

 3.受精Ca2+反応のモデルとして、成熟卵と未成熟卵とでIICRの反応性を検討した。成熟卵では、少量のInsP3注入に対する[Ca2+]i増加は僅かであるが、注入量が一定値を越えると不連続的に、ピーク値が500nMに達する大きな反応が出現した。逆にこの値を越える注入量では、反応の大きさにはあまり差はみられなかった。つまり成熟卵ではIICRに対する反応には閾値が存在し、反応パターンは自己再生的であった。一方未成熟卵では、同量のInsP3を注入した成熟卵と比べて反応は小さく、またInsP3の注入量の増加に伴い反応の大きさも段階的に増加していった。すなわち未成熟卵はInsP3に対する感受性が低く、反応性は自己再生的ではなくgradedであることが示された。また十分量のInsP3注入に対するピーク[Ca2+]iは成熟卵の約80%であり、未成熟卵においても成熟卵とほぼ同程度のInsP3感受性Ca2+ストアを備えていると考えられた。

 4.InsP3注入時のCa2+の時間的・空間的増加パターンは、成熟卵では閾値を越える注入量では卵全体で一様な[Ca2+]i増加がみられたのに対し、未成熟卵ではInsP3注入部位で[Ca2+]iが高く、対側にいくに従い減少する空間的濃度勾配が認められた。すなわち卵内の局所での増加が卵全体に伝播する機構に差異が認められた。

 5.成熟卵における閾値をわずかに上回る量:パルス1,閾値より十分に多い量:パルス2,閾値をはるかに上回る最大刺激量:パルス3の3種類のInsP3注入に対するIICRが、卵成熟過程においてどのように発達していくかを検討した。パルス1に対する反応は、培養開始8時間後またはhCG投与10時間後までは変化は認められず、それ以降発達を示した。パルス2に対する反応は、培養開始5時間後またはhCG投与5時間後で成熟卵の反応の80〜100%まで急速に発達し、それ以降の発達は緩徐であった。パルス3に対する反応は未成熟卵から成熟卵にいたるまで、ほぼ一定の緩徐な発達を示した。in vivoおよびin vitroでの成熟系では発達パターンは類似していたが、発達開始時期などに若干の差異がみられ、両成熟様式の質的差異を反映していると考えられた。

 以上本論文は、ハムスター卵において、受精Ca2+反応およびそのモデルであるIICRが未成熟卵においては未発達であり、卵成熟と共に発達を示すことを解明した。特に成熟度の低い卵では、InsP3に対する反応性が低いだけでなく、卵内におけるCa2+増加の伝播様式にも差異が存在することを明らかにした。本研究はこれまで未知に等しかった、卵の成熟度を反映する受精能評価のための機能的指標を提供する上で重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/53968