細胞接着分子セレクチン(selectin)は虚血再灌流後の白血球のローリング、活性化、及び接着の過程に重要な役割を担うものである。Selectin lectin domainの合成oligopeptide(SLDO)、特にE-selectin lectin domainの23-30アミノ酸残基の合成oligopeptideはin vitroでselectinと白血球との接着を有効にブロックすることが明らかにされている。SLDOのこのような機能がin vivoの脳虚血再灌流においても認められるか否かは明確ではなかった。そこで、本研究では、局所脳虚血において細胞接着分子を介する白血球と血管内皮との接着が虚血再灌流障害を引き起こすという仮説に基づいて、動物実験をおこなった。本実験では、ラット局所脳虚血再灌流モデルにおいて、SLDOの投与が脳梗塞の体積を減少させるのか、また再灌流後の脳血流を増加させるのかの二点を検討することを目的として、以下の実験をおこなった。 1.8-10週齢雄性Wister系SHR(280-320g)91匹を三つグループに分けた。(A)左側遠位中大脳動脈および同側総頸動脈永久閉塞による永久閉塞グループ。このグループを3群に分けた。すなわちSLDO 10mg/kg群、SLDO 2mg/kg群、および生食群である。(B)左側遠位中大脳動脈永久閉塞および同側総頸動脈2時間閉塞による虚血再灌流グループ。このグループさらに4群に分けた。即ちSLDO 10mg/kg群、SLDO 2mg/kg群、scrambled SLDO 10mg/kg群(コントロール群)、および生食群である。(C)左側総頸動脈永久閉塞及び同側総頸動脈2時間閉塞より再灌流後30分までの同側局所脳血流(rCBF)を測定した脳血流測定グループ。このグループをさらに4群に分けた。即ちSLDO10 mg/kg群、scrambled SLDO 10mg/kg群(コントロール群)、および生食群である。 2.脳虚血モデルに虚血を負荷する前に各生理学的パラメーター(直腸温、平均動脈圧、動脈血pH、動脈血酸素分圧、動脈血炭酸ガス分圧)を計測した。 3、永久閉塞グループと虚血再灌流グループでは、虚血の24時間後に脳を採取し、前極より大脳皮質の後方端まで2mm厚さの脳スライスを各動物で7枚づつ作成して、各切片をTTC(2% 2,3,5-triphenyltetrazolium chloride)染色を行った。 4.左右大脳半球の面積、TTCに染色されない梗塞部位の面積をcomputerで計測し、連続する切片のデータより梗塞体積を計算した。 5.脳血流測定グループではレーザードップラー組織血流計により局所脳血流(rCBF)を測定した。 6.脳血流測定グループのうち、生食群とSLDO 10mg/kg群において神経学的異常を観察した。 以上の実験により次の結果を得た。 1.各実験グループにおける生理学的パラメーター、即ち直腸温、平均動脈圧、動脈血pH、動脈血酸素分圧、動脈血炭酸ガス分圧は各群間に有意な差を認めなかった。 2.動物は右不全運動麻痺を示し、時々右回りの環状歩行を認めた。運動機能の検査では、SLDO 10mg/kg群の右前肢の麻痺の程度に有意の改善が認められた。 3.永久閉塞グループの平均梗塞体積は生食群で102.9士10.8mm3、SLDO 2mg/kg治療群では105.6±7.7mm3、SLDO 10mg/kg治療群では93.3±7.7mm3であった。群間に有意な差がなかった。 4.再灌流グループの平均梗塞体積は、生食群で95.3±13.3mm3、SLDO 2mg/kg治療群では73.0±11.3mm3、SLDO 10mg/kg治療群では47.6±7.6mm3、コントロール群では110.7±14mm3であり、生食群またはコントロール群とSLDO 10mg/kg治療群の間に有意な差が認められた(P<0.01)。生食群またはコントロール群とSLDO 2mg/kg治療群との間には有意差がなかった。 5.各スライス面における梗塞面積は、永久閉塞グループでは各群間では有意な差がなかった。また虚血再灌流グループでは生食群、SLDO 10mg/kg治療群との間において脳スライス7枚中でSlice4、Slice5に有意な差を認めた。さらにコントロール群とSLDO 10mg/kg治療群との間では、Slice2、Slice4、Slie5において有な差があった。 6.レーザードップラー組識血流計による脳血流測定の結果、左側総頸動脈閉塞解除による再灌流の30分にはSLDO 10mg/kg群のrCBF値は生食群、scrambled SLDO群と比較して統計学的に有意な改善を認めた。 以上の結果より、SHRにおける脳虚血再灌流後の脳梗塞に対してselectinのlectin領域の合成oligopeptideを使用すると、神経症状が有意に改善し、梗塞体積が有意に縮小し、また再灌流後の局所脳血流値を有意に上昇させることが明らかとなった。Selectinを介した白血球の血管内皮への接着を抑制することによって得られたと考えられるこれらの結果は、今後臨床における脳虚血の治療法の一つとして発展する可能性がある。本研究は、SLDOを脳梗塞治療の目的で動物脳虚血モデルに投与する実験としては初めてのものであり、これまで詳細な研究報告はない。以上、学位を授与するに値する研究と判定された。 |