学位論文要旨



No 212861
著者(漢字) 張,世明
著者(英字)
著者(カナ) チャン,シィミン
標題(和) 局所脳虚血後の脳損傷における細胞接着分子の意義 : SelectinのLectin領域Oligopeptideによる治療の検討
標題(洋)
報告番号 212861
報告番号 乙12861
学位授与日 1996.04.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第12861号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 金澤,一郎
 東京大学 教授 熊田,衛
 東京大学 教授 中原,一彦
 東京大学 助教授 山田,信博
 東京大学 助教授 多久和,陽
内容要旨 1.はじめに

 脳虚血は脳血管障害のなかでも最も多く臨床的に認められる病態である。脳虚血は脳への血流が低下した状態であり、その治療の第一の目標は早期に血流を再開し、虚血後の再灌流を促進する所にある。しかし、虚血後の再灌流には困難な問題が少なくない。その一つの因子として、虚血後の脳血管内皮に白血球が接着し、再灌流を障害する現象が注目されるようになってきた。局所脳虚血再灌流後の脳血管内皮細胞表面に白血球に対する細胞接着分子が出現してくることが明らかとなった。血管内皮細胞に接着した白血球は再灌流後の脳血流を低下させ、虚血による脳損傷を悪化させる可能性が高い。そこで、脳虚血モデル動物において白血球に対する接着分子の阻害物質SelectinのLectin領域合成Oligopeptide(SLDO)を投与することにより、脳梗塞を軽減できるのではないかと考えた。この仮説の検証のために、自然発症高血圧ラット(Spontaneously Hypertensive Rat,SHR)の脳虚血再灌流モデルを用いた。虚血後の脳梗塞の体積と虚血再灌流後の脳血流を測定し、SLDO投与の効果を検討した。

2.方法

 8-10周齢雄性Wister系SHR(280-320g)91匹を使用した。ラットは次のグループに分け、Brintの方法により脳虚血モデルを作成した。実験中に各生理学的パラメーター(直腸温、平均動脈圧、動脈血PH、動脈血酸素分圧、動脈炭酸ガス分圧)を計測した。

I.永久閉塞グループ

 左側遠位中大脳動脈および同側総頸動脈永久閉塞(n=29)をおこなった。このグループをさらに3群に分けた。すなわちSLDO 10mg/kg治療群(SLDO 10mg治療群)、SLDO 2mg/kg治療群(SLDO 2mg治療群)、および等量生理食塩水群(生食群)である。

II.虚血再灌流グループ

 左側遠位中大脳動脈永久閉塞および同側総頸動脈2時間閉塞(n=43)をおこなった。このグループを4群に分けた。即ちSLDO 10mg治療群とSLDO 2mg治療群、Scrambled SLDO 10mg/kg群(コントロール群)、および等量生食水群(生食群)である。

III脳血流測定グループ

 虚血再灌流モデルを作成し、2時間閉塞後、同側の局所脳血流(rCBF)を測定(n=19)した。

 永久閉塞グループと虚血再灌流グループでは、虚血の24時間後に脳を採取し、前極より大脳皮質の後方端まで2mm厚さの脳スライスを各動物で7枚づつ作成した(前方よりslice1-slice7と呼ぶ)。作った切片をTTC(2% 2,3,5-triphenyltetrazolium chloride)溶液に入れ、染色を室温にて30分間行った。梗塞体積を計測するために、Image Scanner(JX-320M,Sharp)にて脳切片を直接に取り込み、画像解析プログラム(NIH image)を用い、各切片について左右大脳半球の面積、TTCに染色されない梗塞部位の面積を計測し、連続する切片のデータより梗塞体積を計算した。

 脳血流測定グループではlaser Doppler組織血流計により局所脳血流(regionalcerebral blood flow,rCBF)を測定した。まずrCBFの基礎値(虚血前値)を計測し、10分後にSLDO 10mg/kg(SLDO 10mg群)とScrambled SLDO 10g/kg(コントロール群)、あるいは等量生食水(生食群)を静脈内に注射した。Toneの方法により左側総頸動脈を閉塞するとともに左側遠位中大脳動脈を閉塞し、血流を測定した。2時間後に総頸動脈を再開通させて、その後30分間再びrCBFを測定した。血流測定終了後、頸部の手術創を縫合する前に、左側総頸動脈が実際に再開通され、血流が確実に再開していることを確認した。このグループのうち、生食群(n=5)とSLDO 10mg群(n=6)において神経学的異常を観察した。

3.結果I.生理学的パラメーター

 各実験グループにおける直腸温、平均動脈圧、動脈血PH、動脈血酸素分圧、動脈炭酸ガス分圧の記録では、各群間に有意な差を認めなかった。

II.神経学的異常の観察

 動物は右側不全運動麻痺を示し、時々右回りの環状歩行を認めた。運動機能の検査では、SLDO 10mg群に有意の改善が認められた。

III.梗塞体積の計測

 永久閉塞グループの平均梗塞体積は生食群で102.9±10.8mm3、SLDO 2mg治療群では105.6±7.7mm3、SLDO 10mg治療群では93.3±7.7mm3であった。群間に有意な差がなかった。再灌流グループの平均梗塞体積は、生食群で95.3±13.3mm3、SLDO 2mg治療群では73.0±11.3mm3、SLDO 10mg治療群は47.6±7.6mm3、コントロール群では110.7±14mm3であり、生食群またはコントロール群とSLDO 10mg治療群の間に有意な差が認められた(P<0.01)(Figure)。生食群またはコントロール群とSLDO 2mg治療群の間には有意差がなかった。各スライス面における梗塞面積は生食群SLDO 10mg治療群と間においてSlice7枚中でSlice4、Slice5に有意な差を認めた。またコントロール群とSLDO 10mg治療群と間では、Slice2、Slice4、Slice5において有な差があった。

IV.局所脳血流の変化

 ドップラー脳血流計により、虚血前値、総頸動脈閉塞後、中大脳動脈閉塞後、その後30分間後の各時点での局所脳血流を記録し、虚血前値に対する百分率で表わした。左側総頸動脈の閉塞を解除され、再灌流を行った30分にはSLDO 10mg治療群のrCBF値は生食群、Scrambled SLOD群と比較して統計学的に有意な改善を認めれた。コントロール群(Scrambled SLDO使用)と生食群の間には有意差がなかった。

4.考察

 本実験では、局所脳虚血において血流再開後の再灌流を改善することが、梗塞体積の軽減効果を有する否かを検討することを目的とした。虚血後の再灌流を障害する因子の一つとして、血管内皮への白血球の接着が重要であると考え、SLDOによる白血球の接着の抑制を試みた。その結果、虚血後再灌流をともなう局所脳虚血モデルにおいては、白血球接着をブロックすることが虚血再灌流後の脳梗塞を軽減させることが強く示唆された。このモデルにおいて、SLDOは有意に虚血再灌流後の局所脳血流を改善した。従って、この効果はSLDOが虚血再灌流後の局所脳血流を改善する作用に基づいている可能性が高いと判断された。しかし、単に局所脳血流の上昇を介するのみではなく、直接的にSLDOが局所の障害因子・炎症因子の放出を抑制し、それが脳組織障害を軽減する効果を示唆した可能性も考慮しなげればならない。可溶性P-selectinを用いた実験では、実際血管内皮への白血球の粘着をするのみならず、白血球からのsuperoxide anionの放出をも抑制し、循環血液中の白血球を不用意に活性化しない点でも組織保護の方向で働くことが示されている。最近sialyl LewisXを含むOligo-saccharideが心筋虚血における再灌流障害の治療に有効であることが示された。この物質はselectinのリガンドであることが知られている。このように白血球の接着抑制をターゲットとした治療には、selectinにたいする単クローン抗体、可溶性selectin、selectinのlectin領域oligopeptide(本実験で用いた方法)、selectinのリガンドに近似した可溶性のcarbohydrateなどを用いる方法が考えられる。この中で、どの方法が実際の臨床の場で有効であるかは、今後の考えられる。この中で、どの方法が実際の臨床の場で有効であるかは、今後の研究が必要であろう。

5.結論

 本実験ではSHRにおける脳虚血再灌流後の脳梗塞に対してselectinのlectin領域の合成oligopeptideを投与し、虚血後の神経症状、梗塞体積、脳血流に対する効果を検討した。その結果、SLDOを使用したラットでは、神経症状が有意に改善し、梗塞体積が有意に縮小し、またpenumbraにおける再灌流を有意に上昇させることが明らかとなった。この効果はコントロール群に使用したscrambled SLDOでは認められなかった。selectinを介した白血球の血管内皮への接着を抑制することによって得られたこれらの結果は、今後臨床における脳虚血の治療法の一つとして発展する可能性が考えられる。

虚血/再灌流グループにおける梗塞体積の比較SLDO10mg治療群の梗塞体積は、生食群とscrambled SLDO群に比べて有意に減少した。SLDO2mg群と生食群及びscrambled SLDO群の間に有意な差はなかった。
審査要旨

 細胞接着分子セレクチン(selectin)は虚血再灌流後の白血球のローリング、活性化、及び接着の過程に重要な役割を担うものである。Selectin lectin domainの合成oligopeptide(SLDO)、特にE-selectin lectin domainの23-30アミノ酸残基の合成oligopeptideはin vitroでselectinと白血球との接着を有効にブロックすることが明らかにされている。SLDOのこのような機能がin vivoの脳虚血再灌流においても認められるか否かは明確ではなかった。そこで、本研究では、局所脳虚血において細胞接着分子を介する白血球と血管内皮との接着が虚血再灌流障害を引き起こすという仮説に基づいて、動物実験をおこなった。本実験では、ラット局所脳虚血再灌流モデルにおいて、SLDOの投与が脳梗塞の体積を減少させるのか、また再灌流後の脳血流を増加させるのかの二点を検討することを目的として、以下の実験をおこなった。

 1.8-10週齢雄性Wister系SHR(280-320g)91匹を三つグループに分けた。(A)左側遠位中大脳動脈および同側総頸動脈永久閉塞による永久閉塞グループ。このグループを3群に分けた。すなわちSLDO 10mg/kg群、SLDO 2mg/kg群、および生食群である。(B)左側遠位中大脳動脈永久閉塞および同側総頸動脈2時間閉塞による虚血再灌流グループ。このグループさらに4群に分けた。即ちSLDO 10mg/kg群、SLDO 2mg/kg群、scrambled SLDO 10mg/kg群(コントロール群)、および生食群である。(C)左側総頸動脈永久閉塞及び同側総頸動脈2時間閉塞より再灌流後30分までの同側局所脳血流(rCBF)を測定した脳血流測定グループ。このグループをさらに4群に分けた。即ちSLDO10 mg/kg群、scrambled SLDO 10mg/kg群(コントロール群)、および生食群である。

 2.脳虚血モデルに虚血を負荷する前に各生理学的パラメーター(直腸温、平均動脈圧、動脈血pH、動脈血酸素分圧、動脈血炭酸ガス分圧)を計測した。

 3、永久閉塞グループと虚血再灌流グループでは、虚血の24時間後に脳を採取し、前極より大脳皮質の後方端まで2mm厚さの脳スライスを各動物で7枚づつ作成して、各切片をTTC(2% 2,3,5-triphenyltetrazolium chloride)染色を行った。

 4.左右大脳半球の面積、TTCに染色されない梗塞部位の面積をcomputerで計測し、連続する切片のデータより梗塞体積を計算した。

 5.脳血流測定グループではレーザードップラー組織血流計により局所脳血流(rCBF)を測定した。

 6.脳血流測定グループのうち、生食群とSLDO 10mg/kg群において神経学的異常を観察した。

 以上の実験により次の結果を得た。

 1.各実験グループにおける生理学的パラメーター、即ち直腸温、平均動脈圧、動脈血pH、動脈血酸素分圧、動脈血炭酸ガス分圧は各群間に有意な差を認めなかった。

 2.動物は右不全運動麻痺を示し、時々右回りの環状歩行を認めた。運動機能の検査では、SLDO 10mg/kg群の右前肢の麻痺の程度に有意の改善が認められた。

 3.永久閉塞グループの平均梗塞体積は生食群で102.9士10.8mm3、SLDO 2mg/kg治療群では105.6±7.7mm3、SLDO 10mg/kg治療群では93.3±7.7mm3であった。群間に有意な差がなかった。

 4.再灌流グループの平均梗塞体積は、生食群で95.3±13.3mm3、SLDO 2mg/kg治療群では73.0±11.3mm3、SLDO 10mg/kg治療群では47.6±7.6mm3、コントロール群では110.7±14mm3であり、生食群またはコントロール群とSLDO 10mg/kg治療群の間に有意な差が認められた(P<0.01)。生食群またはコントロール群とSLDO 2mg/kg治療群との間には有意差がなかった。

 5.各スライス面における梗塞面積は、永久閉塞グループでは各群間では有意な差がなかった。また虚血再灌流グループでは生食群、SLDO 10mg/kg治療群との間において脳スライス7枚中でSlice4、Slice5に有意な差を認めた。さらにコントロール群とSLDO 10mg/kg治療群との間では、Slice2、Slice4、Slie5において有な差があった。

 6.レーザードップラー組識血流計による脳血流測定の結果、左側総頸動脈閉塞解除による再灌流の30分にはSLDO 10mg/kg群のrCBF値は生食群、scrambled SLDO群と比較して統計学的に有意な改善を認めた。

 以上の結果より、SHRにおける脳虚血再灌流後の脳梗塞に対してselectinのlectin領域の合成oligopeptideを使用すると、神経症状が有意に改善し、梗塞体積が有意に縮小し、また再灌流後の局所脳血流値を有意に上昇させることが明らかとなった。Selectinを介した白血球の血管内皮への接着を抑制することによって得られたと考えられるこれらの結果は、今後臨床における脳虚血の治療法の一つとして発展する可能性がある。本研究は、SLDOを脳梗塞治療の目的で動物脳虚血モデルに投与する実験としては初めてのものであり、これまで詳細な研究報告はない。以上、学位を授与するに値する研究と判定された。

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