学位論文要旨



No 212868
著者(漢字) 杉浦,実
著者(英字)
著者(カナ) スギウラ,ミノル
標題(和) サフラン及びその構成成分クロシンの中枢神経系に対する薬理学的研究
標題(洋)
報告番号 212868
報告番号 乙12868
学位授与日 1996.05.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第12868号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 齋藤,洋
 東京大学 教授 桐野,豊
 東京大学 助教授 小野,秀樹
 東京大学 助教授 松木,則夫
 東京大学 客員助教授 岩坪,威
内容要旨

 サフラン(学名:Crocus Sativus L.)はヨーロッパ南部を原産地とするサフラン属あやめ科の多年草で、日本では主に婦人用薬として用いられたり、また染料用、鑑賞用に栽培されている。中薬辞典にサフランめしべの主治効能の一つとして、鬱、恍惚などに対する効能が記載されていることは、サフランが中枢神経系に作用することを示唆するものである。また本研究室のZhangらは、サフランめしべより得られたエタノールエキス(Ethanol extract of Crocus Sativus L.:CSE)がマウスの受動的回避学習試験において、エタノールによる記憶学習障害を用量依存的に改善することを明らかにした。このことはサフランめしべ中の成分が中枢神経系においてエタノールと拮抗することを示唆するものである。私は本研究において、サフラン及びその構成成分の中枢神経系に対する薬理作用を検討した結果、サフランめしべ中の主要な成分であるcrocinが、エタノールによるラット海馬長期増強抑制に対し拮抗し、エタノールによる記憶学習障害を改善することを発見した。

1)麻酔ラット海馬長期増強に対するCSEの作用

 まずはじめにCSEの長期増強に対する作用について検討を行った。8-9週令の雄性Wistar系ラットをUrethane--chloraloseで麻酔し、脳定位固定装置に固定した。双極性電極を嗅内皮質に刺入して貫通線維を刺激し、海馬歯状回顆粒細胞層より誘発電位を細胞外記録した。CSE250mg/kg経口投与は、テスト刺激による誘発電位、短期増強、長期増強のいずれにも有意な影響を与えなかった。一方、10-30%のエタノールを経口投与(10ml/kg)したところ、長期増強は用量依存的に抑制された。これに対しCSEを経口前投与したところ、エタノールによる長期増強抑制は用量依存的に減弱された。これらの実験結果はCSEが胃や腸管でのエタノールの吸収を抑制した可能性も考えられる。そこで次にエタノール静脈内投与による長期増強の抑制と、それに対するCSEの効果について検討した。通常のテスト刺激による誘発電位には影響を及ぼさない用量である30%エタノール溶液を2ml/kg静脈内投与すると長期増強は抑制された。この系でCSEを経口前投与したところ、エタノールの抑制作用は用量依存的に減弱された。次に、側脳室内投与したエタノールの長期増強抑制作用についても検討を行った。30%エタノール溶液を5l対側側脳室に投与すると長期増強は抑制されたが、CSEの経口前投与により用量依存的に減弱された。以上の結果よりCSEの作用は、CSE中の何らかの成分が中枢レベルでエタノールと拮抗しエタノールによる長期増強抑制を改善していることが示唆された。

2)麻酔ラット海馬長期増強に対するサフランめしべエタノールエキス中の主要な構成成分の作用と活性成分の探索

 次にCSE中の何の成分が効いているのかを同定するため、主要な成分について各々検討を行った。サフランめしべ中にはcrocin、crocetin gentiobiose glucose ester、crocetin di-glucose esterなどのカロテノイド系色素、苦味成分としてのpicrocrocin、精油成分としてのsafranalやcineol、その他脂肪油やビタミンB2などが含まれている。CSE中の含量としてはpicrocrocinが40%として最も多く、次いでcrocinが20%、crocetin gentiobiose glucose esterが10%、crocetin di-glucose esterが2-3%程度含まれている。先ず、crocinの単独作用について検討を行った。Crocin 51.2 nmolの側脳室内投与は、テスト刺激による誘発電位、長期増強、短期増強の何れにも影響を与えなかった。しかしながら、エタノール静脈内投与による長期増強抑制はcrocinの側脳室内前投与により有意に拮抗された。Crocinの類似化合物あるcrocetin gentiobiose glucose esterはcrocinのときの2倍用量の102.5nmolで有意な拮抗作用が認められた。しかしながらcrocetin di-glucose esterは102.5nmolでも有意な作用を示さなかった。これらの結果より、その構造中の糖鎖が活性に不可欠であることが示唆されたため、糖鎖部分のみについても検討を行ったがgentiobiose、glucoseともにcrocinの様な作用は認められなかった。Picrocrocinについても同様の試験を行ったところ有意な作用は認められなかった。また、更に高用量のcrocin(150nmol)により若干の長期増強増大作用が認められた。以上の結果より、サフランエキス中の活性本体はcrocinであり、その活性発現には構造上の糖鎖が重要であることが判明し、crocinが中枢レベルでエタノールと拮抗することによりエタノールによる海馬長期増強抑制を改善することが示唆された。

3)海馬スライス標本を用いたin vitroでの長期増強に対するクロシンの作用

 次にラット海馬スライス標本を用いたin vitroの系で検討を行った。7-8週令のラットより、厚さ400-500mの海馬スライス標本を作成した。Shaffer側枝を刺激しCA1野錐体細胞層より誘発電位を細胞外記録し、集合スパイクの大きさを経時的に測定した。またDG野で記録する場合は貫通線維を刺激し歯状回顆粒細胞層より誘発電位を記録した。Crocinを人工脳脊髄液(Artificial cerebrospinal fluid;ACSF)中に20M添加し海馬スライス標本に適用したところ、テスト刺激による誘発電位、短期増強に影響を与えなかった。一方、高頻度刺激によるCA1野の長期増強は75mMのエタノールでほぼ完全に抑制された。この系でcrocinの作用を検討したところ、crocin20Mの前灌流適用によりエタノールの長期増強抑制作用は部分的に減弱された。またこの作用は濃度依存的であった。次に長期増強が誘発される際に活性化されるNMDA(N-methyl-D-aspartate)受容体を介したシナプス応答に対するcrocinとエタノールの作用についてDG野で検討を行った。通常のACSFを灌流してテスト刺激を与えたときに観察される誘発電位は、非NMDA受容体拮抗薬であるCNQX(6-cyano-7-nitroquinoxaline-2,3-dione)により完全に遮断されたことから、非NMDA受容体のみを介したシナプス応答であることが確認された。つぎにCNQXを含むlow-Mg2+ ACSF中で観察されるてんかん様の誘発電位はNMDA受容体拮抗薬のAPV(DL-2-amino-5-phosphonovalerate)により完全に遮断されたことから、観察された誘発電位は、NMDA受容体のみを介したシナプス応答であることが確認された。このようにしてNMDA受容体のみを介したシナプス応答成分を分離し、エタノールとcrocinの作用について検討を行ったところ、エタノールは濃度依存的にNMDA受容体を介したシナプス応答を抑制し、crocinは有意にエタノールと拮抗した。以上の結果より、crocinはNMDA受容体レベルでエタノールと拮抗することによりエタノールの長期増強抑制作用を改善することが示唆された。

4)NMDA及びGABA受容体応答に対するクロシンの作用のパッチクランプ法を用いた解析

 つぎに、ラット胎児海馬由来の培養神経細胞を用い、パッチクランプの手法によりNMDA、GABA刺激による膜電流応答に対するcrocinとエタノールの作用について検討した。NMDA刺激による内向き電流は、25-100mMのエタノールにより濃度依存的に抑制された。これに対し、crocinはエタノールの作用と拮抗する傾向がみられたが、統計的に有意な効果ではなかった。またGABA刺激による外向き電流はエタノールにより濃度依存的に増強された。これに対し、crocinはエタノールの作用と拮抗する傾向がみられたが、統計的に有意な効果ではなかった。以上の結果より、crocinは胎児由来の培養細胞のような未発達段階の神経細胞よりも、成熟した神経回路網でエタノールと拮抗する作用を有することが示唆された。

5)クロシン及びピクロクロシンのマウス受動的回避学習試験に対する作用

 次にcrocinがエタノールによる記憶学習障害に対して有効か検討を行った。まず、crocin単独の記憶獲得に対する作用について検討した。Crocin経口投与はステップスルーテスト、ステップダウンテストのいずれの試験においてもコントロール群とほぼ同様の課題遂行能力を示した。また試行後のマウスの自発運動量も対照群に比べ有意な差は認められなかった。一方、30%エタノールを10ml/kg経口投与することにより記憶獲得障害が誘発された。しかしながらcrocinを前投与した群においては、30%エタノールによる記憶獲得障害が用量依存的かつ有意に改善された。また、40%エタノールを10ml/kg経口投与することにより記憶再現障害が誘発された。これに対しクロシンを前投与した群では、40%エタノールによる記憶再現障害が用量依存的かつ有意に改善された。一方、picrocrocinには全く作用は認められなかった。また各試行後に同一マウスの自発運動量を測定したところ、エタノール単独投与群においては一様に自発運動量が増加していが、crocin投与群では一部の例外を除きエタノール単独投与群と差が認められなかったことから、crocinの学習改善作用は鎮静などの間接的な作用によるものではなく、エタノール、crocinともに血液中に吸収され、中枢に移行した後の作用であることが示唆された。

6)総括

 本研究において、私はサフランにこれまで全く報告されていなかった中枢神経系に対する作用のあることを明らかにした。エタノールの中枢神経系に対する作用は多岐にわたるため、crocinの作用点解明には更なる研究が必要と考えられるが、今後更に研究が発展することにより、crocinが脳神経系の疾患に対する治療薬となる可能性、また脳神経研究における有益な薬理学的研究材料となる可能性が期待される。

審査要旨

 近年、中枢神経系に作用する薬物を天然に求めた研究が広く行われている。サフランは古くより中国において、駆お血作用を有する生薬として用いられているほか、鬱・恍惚に対する作用も認められている。また、これまでにサフランめしべより得られたエタノールエキスがマウスの受動的回避学習試験において、エタノールによる記憶学習障害を用量依存的に改善することが明らかにされている。これらの知見はサフランが中枢神経系に対し薬理作用を有することを示唆するものである。本論文は、生薬として古くより用いられてきたサフランとその構成成分クロシンの中枢神経系、特に記憶学習に対する作用について研究した結果をまとめたものである。

 本研究では、まず、麻酔下ラットにおける海馬歯状回での長期増強がエタノールを経口投与することにより抑制されることを示し、エタノールによる記憶障害は、海馬における長期増強がエタノールにより抑制されるために引き起こされる可能性を示した。このエタノールによる長期増強抑制作用は、サフランめしべエタノールエキス(CSE)を経口で前投与することにより有意に拮抗されることを明らかにした。またエタノールを静脈内、脳室内投与することによっても海馬長期増強は抑制され、CSEの経口前投与はこれらエタノールの作用と有意に拮抗することを示した。これらの研究は、CSE中の何らかの成分が中枢レベルにおいてエタノールと拮抗し、エタノールによる記憶障害を改善させる可能性を示唆するもので有用であると思われる。また、今回の経口投与法は本人が開発した方法である。

 次に、CSE中の活性成分の探索を行なった結果、CSE中の主要な成分である、カロテノイド系色素のクロシンが活性本体であることを突き止めた。更にCSE中に含まれる類似化合物との構造活性相関から、その活性発現には炭素数20の不飽和炭化水素鎖の両末端にゲンチオビオースが結合した全体の構造が必要であることを明らかにした。また高用量のクロシンは単独で長期増強増大作用を有することを明らかにした。

 次に、海馬スライス標本を用いたin vitroの実験系においてクロシンの作用を検討した結果、クロシンはエタノールによる長期増強抑制に対し有意に拮抗することを示し、直接海馬の神経系においてエタノールと拮抗する作用を有することを明らかにした。また、長期増強が誘発される際に活性化されるNMDA受容体のみを介したシナプス応答を分離し、クロシンの作用を検討した結果、クロシンはNMDA受容体レベルでエタノールと拮抗する作用を有することを明らかにした。

 更に、ラット胎児海馬培養神経細胞を用い、パッチクランプ法によりNMDA、GABA刺激による膜電流応答に対するクロシンとエタノールの作用について調べた結果、クロシンはいずれもエタノールの作用と拮抗する傾向が観られたが統計的有意差は得られなかった。その結果、クロシンの作用として、成熟した神経系においてエタノールと拮抗すること、また他の作用点の存在の可能性が示された。

 最後に、マウスを用いた受動的回避学習試験において、クロシンは単独では記憶の獲得には何ら有意な影響を及ぼさないが、30%エタノールによる記憶獲得障害、40%エタノールによる記憶再現障害を用量依存的に改善することを明らかにした。

 以上、本論文において著者は、サフランにこれまで全く報告されていなかった中枢神経系、即ち記憶学習に対する作用のあることを初めて明らかにした。即ち、サフランはエタノールによる中枢神経機能低下を改善する作用を有すること、その活性本体がクロシンであることを明らかにした。また海馬における神経伝達効率を高めることを明らかにした。その結果、クロシンが脳神経系の疾患に対する治療薬となる可能性、また脳神経研究における有益な薬理学的研究材料となる可能性が示唆された。本論文はサフラン及びその構成成分クロシンの中枢神経系に対する作用を薬理学的に詳細に検討したものであり、アルコール性脳機能障害の基礎的研究のみならず、臨床面に貢献するところも大であると思われ、博士(薬学)の学位を授与するに値するものと判定した。

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