近年、中枢神経系に作用する薬物を天然に求めた研究が広く行われている。サフランは古くより中国において、駆お血作用を有する生薬として用いられているほか、鬱・恍惚に対する作用も認められている。また、これまでにサフランめしべより得られたエタノールエキスがマウスの受動的回避学習試験において、エタノールによる記憶学習障害を用量依存的に改善することが明らかにされている。これらの知見はサフランが中枢神経系に対し薬理作用を有することを示唆するものである。本論文は、生薬として古くより用いられてきたサフランとその構成成分クロシンの中枢神経系、特に記憶学習に対する作用について研究した結果をまとめたものである。 本研究では、まず、麻酔下ラットにおける海馬歯状回での長期増強がエタノールを経口投与することにより抑制されることを示し、エタノールによる記憶障害は、海馬における長期増強がエタノールにより抑制されるために引き起こされる可能性を示した。このエタノールによる長期増強抑制作用は、サフランめしべエタノールエキス(CSE)を経口で前投与することにより有意に拮抗されることを明らかにした。またエタノールを静脈内、脳室内投与することによっても海馬長期増強は抑制され、CSEの経口前投与はこれらエタノールの作用と有意に拮抗することを示した。これらの研究は、CSE中の何らかの成分が中枢レベルにおいてエタノールと拮抗し、エタノールによる記憶障害を改善させる可能性を示唆するもので有用であると思われる。また、今回の経口投与法は本人が開発した方法である。 次に、CSE中の活性成分の探索を行なった結果、CSE中の主要な成分である、カロテノイド系色素のクロシンが活性本体であることを突き止めた。更にCSE中に含まれる類似化合物との構造活性相関から、その活性発現には炭素数20の不飽和炭化水素鎖の両末端にゲンチオビオースが結合した全体の構造が必要であることを明らかにした。また高用量のクロシンは単独で長期増強増大作用を有することを明らかにした。 次に、海馬スライス標本を用いたin vitroの実験系においてクロシンの作用を検討した結果、クロシンはエタノールによる長期増強抑制に対し有意に拮抗することを示し、直接海馬の神経系においてエタノールと拮抗する作用を有することを明らかにした。また、長期増強が誘発される際に活性化されるNMDA受容体のみを介したシナプス応答を分離し、クロシンの作用を検討した結果、クロシンはNMDA受容体レベルでエタノールと拮抗する作用を有することを明らかにした。 更に、ラット胎児海馬培養神経細胞を用い、パッチクランプ法によりNMDA、GABA刺激による膜電流応答に対するクロシンとエタノールの作用について調べた結果、クロシンはいずれもエタノールの作用と拮抗する傾向が観られたが統計的有意差は得られなかった。その結果、クロシンの作用として、成熟した神経系においてエタノールと拮抗すること、また他の作用点の存在の可能性が示された。 最後に、マウスを用いた受動的回避学習試験において、クロシンは単独では記憶の獲得には何ら有意な影響を及ぼさないが、30%エタノールによる記憶獲得障害、40%エタノールによる記憶再現障害を用量依存的に改善することを明らかにした。 以上、本論文において著者は、サフランにこれまで全く報告されていなかった中枢神経系、即ち記憶学習に対する作用のあることを初めて明らかにした。即ち、サフランはエタノールによる中枢神経機能低下を改善する作用を有すること、その活性本体がクロシンであることを明らかにした。また海馬における神経伝達効率を高めることを明らかにした。その結果、クロシンが脳神経系の疾患に対する治療薬となる可能性、また脳神経研究における有益な薬理学的研究材料となる可能性が示唆された。本論文はサフラン及びその構成成分クロシンの中枢神経系に対する作用を薬理学的に詳細に検討したものであり、アルコール性脳機能障害の基礎的研究のみならず、臨床面に貢献するところも大であると思われ、博士(薬学)の学位を授与するに値するものと判定した。 |