学位論文要旨



No 212875
著者(漢字) 飯田,俊彰
著者(英字)
著者(カナ) イイダ,トシアキ
標題(和) 多雪流域における酸性降下物の降下・流出に関する実証的研究
標題(洋)
報告番号 212875
報告番号 乙12875
学位授与日 1996.05.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第12875号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中村,良太
 東京大学 教授 中野,政詩
 東京大学 教授 佐藤,洋平
 東京大学 教授 太田,猛彦
 東京大学 助教授 島田,正志
内容要旨

 人為起源大気汚染物質による降水の酸性化が社会的に大きな注目を集めており、森林衰退や湖沼の酸性化など生態系において顕在化している被害と酸性降下物との関係が徐々に解明されつつある。また、多雪地域では、降雪に伴って降下した酸性降下物が地上の積雪内に大量に蓄積される。この積雪内に蓄積された酸性降下物の動態の把握は、多雪地域における酸性降下物の環境への影響を把握する上で極めて重要な課題となっている。そこで、積雪融雪期も含めた通年で、多雪流域における酸性降下物の降下・流出過程を定量的に解析することを目的とし、近年降水中での人為起源成分の比率が高まっている、SO42-、NO3-、Cl-の3種の陰イオンを対象として研究を行った。

 本研究は、野外観測とシミュレーションモデルによる解析によって進められた。野外観測として、2ヶ所の定点観測点での降水水質の観測、試験流域での降水水質と渓流水質の観測、積雪の鉛直断面観測を行った。得られた実測データを基に、流域での酸性降下物の降下・流出を動的にシミュレートするシミュレーションモデルを作成し、モデルを用いて多雪流域における酸性降下物の降下・流出過程について定量的な考察を行った。

 1990年1月〜1992年12月の3年間に、降水試料を、山形県日本海沿岸部にある山形大学農学部構内と山形大学農学部附属上名川演習林内の2点で採取し分析した。降水試料のpH値には、4月〜10月に比べて11月〜3月に酸性度が高いという明確な季節的違いが認められた。非海塩由来のSO42-濃度(以下nss-SO42-濃度と記す)およびnss-Ca2+濃度にも、両地点ともに夏季よりも冬季に高いという明確な季節的変動がみられた。また、冬型の気圧配置や寒冷前線による降水では、他の気象条件による降水に比べてnss-SO42-濃度が高かった。本地域ではこのような気象条件時には例外なく強い北西季節風が吹くので、nss-SO42-は日本海方面から飛来するものと考えられる。さらに、本地域の降水での、降水酸性化に対するnss-SO42-およびNO3-の寄与率は、4月〜10月には関東地方での値に、11月〜3月には中国北部での値に近づいていた。日本海沿岸地域では一般に冬季の降水量が多いが、本地域での冬季の降水には、基本的に中国北部をはじめとするアジア大陸由来の非海塩物質が高濃度に含まれていると推察された。

 降水水質の観測を行うと同時に、山形大学農学部附属上名川演習林内に流域面積約34.7haの試験流域を設定し、1990年12月〜1992年11月に、原則として積雪期には毎日、他の期間には1週間に1回、渓流水試料を採取し分析した。試験流域内に民家や農地はなく、流域の約90%は主としてブナ、ミズナラの落葉広葉樹林である。流域の土壌は褐色森林土、地質は安山岩系である。渓流水試料の陰イオン濃度の経時変化から、融雪初期に起きる積雪からのイオン濃度の高い融雪水の流出が、渓流水質にまで影響を及ぼしている実態が確認された。多雪流域では、積雪として地上に蓄積されることによる流出遅延効果に加えて、積雪内での溶存イオンの挙動が流域での溶存イオン循環に大きな影響を及ぼしていることが把握された。また、流域でのCl-と水の年間の収支から、当流域での地点雨量から面積雨量への換算係数1.3、および湿性降下量に対する乾性降下量の比0.32を算出した。さらに、SO42-、NO3-、Cl-の3種の陰イオンの降下・流出特性を、排出負荷量の変動などから、それぞれ検討した。本試験流域では、NO3-については年間で総降下量の約25%が主に植物体による吸収や微生物による変換によって流域で消費されており、SO42-については年間で総降下量の約60%にあたるSO42-が土壌や基岩の風化により産出されていることなどが明らかとなった。

 1991年の積雪期に15回、1992年に9回の積雪断面観測を行った。積雪を地面まで掘り起こして鉛直な試料採取断面を作成し、そこから鉛直方向に20cm間隔で積雪試料を採取し分析した。積雪の陰イオン濃度の鉛直プロファイルは極めてダイナミックな経時変化を示した。特に積雪がしまり雪からざらめ雪に変態して密度が上昇する時に、積雪のイオン濃度が数日程度の短期間に急激に低下することが明らかとなった。積雪内の溶存イオンが、本格的融雪が始まる以前の小規模な融雪時に、融雪水とともに積雪内を速やかに流下するものと考えられ、このような時に積雪外へ流出する融雪水の濃度は降水の5〜10倍以上となっていると計算された。

 野外観測と平行して、コンピュータシミュレーションモデルを作成して検討を行った。モデルとしては、まず積雪融雪水質モデルによって積雪から流出した水量とイオン量の計算を行い、ひき続き水質タンクモデルによって渓流へ流出した水量とイオン量の計算を行うという2段階構造のものを作成した。モデルへの入力は、各種気象データの1時間単位の実測値と、降水のイオン濃度の実測値である。積雪融雪水質モデルからは、積雪最下層から積雪外へ流出する融雪水量とイオン量の時系列が出力されるとともに、任意の時刻における積雪の温度、密度、含水率、イオン濃度等の鉛直プロファイルが中間産物として得られ、モデルの稼働状況をチェックすることができる。流域に積雪がない場合は、降水量と降水水質の実測値を水質タンクモデルの入力として直接用いた。

 積雪融雪水質モデルでは、積雪は水平な層が積み重なったものと考えて鉛直1次元モデルを用い、各層において水と熱とイオンのフラックスを計算した。水については、マトリックポテンシャルによる拡散、重力による移動と、固体が融けるために保持できなくなって下層へ移動する液体の量を、熱については温度勾配による熱伝導と水に運ばれる熱量を、イオンについては液体中の拡散と水に運ばれるイオン量を考えた。さらに、相変化に伴う液体中へのイオンの濃縮と、加重による積雪の粘性圧縮を考慮した。モデルの中間産物として得られる、ポイントでの積雪の各種物理量の鉛直プロファイルのシミュレーションでは、実測値の経時変化がモデルにより再現されており、積雪内の水とイオンの移動がシミュレートされていることが確認された。

 水質タンクモデルは、2段タンクモデルを原形とし、流域に降下した溶存イオンが受ける、土壌中における吸着や溶脱、植物体による吸収、微生物による変換などの様々な相互作用を、総合的に、流域に存在する可動態および非可動態のイオン量の変動と両者の変換によって表現したものである。可動態のイオンは、タンクの中にある水に溶けており、水とともに流出孔から流出する。タンクの中の水の濃度は均一ではなく、これにより、早い流出と遅い流出とでの流出メカニズムの違いによりイオンの溶存メカニズムも異なってくる状況をモデル内で表現した。

 モデル内の未定係数は、実測値と計算値がなるべく一致するよう試行錯誤で推定した。一例として、SO42-の降下量、流出量では、晩秋から冬季のSO42-降下量が夏季の降下量にくらべて多いが、それに対して、渓流流出量がピークを取るのは、本格的融雪以前の小規模な融雪流出時や、本格的融雪期や、夏季の出水時、晩秋などである。シミュレーション結果をみると、これらのSO42-の長期流出特性が本モデルにより再現されていた。ピーク値や低減部の値も、本モデルによりほぼ良好に再現された。NO3-、Cl-についても流域への降下と渓流への流出の傾向が本モデルにより再現された。

 積雪内での溶存イオンの動態をシミュレートすることにより、透水係数などの積雪の各種物性値が、積雪の変態や含水率の変化に応じてどのように変化するのかについて、定量的な知見が得られた。これらの積雪の各種物性値は実験による把握が難しく、シミュレーションによる検討は非常に有用である。また、水質タンクモデル内の可動態および非可動態イオン量の変動を解析することにより、実際の流域での陰イオンの動態について考察を行った。SO42-については土壌や基岩の風化による産出、NO3-では植物による吸収や微生物による変換、Cl-では積雪期の土壌中への蓄積と融雪期の流出、などの現象について定量的に言及した。本モデルにより、多雪流域での酸性降下物の降下流出過程についての量的な把握が可能となった。

審査要旨

 近年、窒素酸化物、硫黄酸化物による降水の酸性化とその環境への影響が大きな社会的問題となっている。大気の汚染物質の長距離輸送に伴う酸性降下物による国境を越えた汚染は、国際的な問題ともなっている。このような人為起源物質による酸性降下物の問題は、土壌の酸性化や閉鎖性水域の酸性化をもたらすものとして無視できない。また、その生態系への影響は大きいことも予想される。

 本論文は、このような状況下において、著者が所属する山形大学が位置する山形県日本海沿岸地域の地理的条件をふまえ、多雪流域における酸性降下物の降下・流出過程を定量的に解析するものである。

 第1章では、研究の概観がまとめられ、その目的が、1)日本海沿岸地域における酸性降下物の降下の実態とその特徴を定量的に把握する、2)降雪とともに降下した酸性降下物の積雪内での動態を把握する、3)多雪山地小流域における酸性降下物の河川流出の実態と特徴を定量的に把握する、以上の3点にまとめられる。さらに、既存の研究史がまとめられ、その中から問題点が抽出される。

 第2章では、日本海沿岸地域の例としての山形県における降水水質の特性が検討される。すなわち著者は、1990年1月から1992年12月の3年間に、山形大学構内と山形大学付属演習林内の2点において降水を採取し分析した。その結果、降水の酸性化に関する硫酸イオン濃度および硝酸イオン濃度のそれぞれ非海塩由来イオンの寄与率は、4月から10月の間には関東地方で見られる値に、また11月から3月の間には中国北部での値に近づいていた。これから本地域での冬季の降水には、基本的に中国北部をはじめとするアジア大陸由来の非海塩物質が高濃度に含まれていると推察された。

 第3章では多雪流域の山地小流域における陰イオンの渓流への流出が検討される。上記の山形大学演習林内に流域面積34.7haの試験流域を設定し、1990年12月から1992年11月まで、原則として積雪期には毎日、他の期間には1週間に1回渓流水を採取し分析した。そして、硫酸、硝酸、塩素の3種類の陰イオンの降下・流出特性を負荷量の変動などから、それぞれ検討した。本試験流城では、硝酸イオンについては年間で総降下量の約25%が主に植物体による吸収や微生物による変換によって流域内で消費されており、硫酸イオンについては年間で総降下量の約60%にあたる量が土壌や基岩の風化により産出されていることが明らかになった。

 第4章では積雪内における陰イオンの分布の調査結果が示される。すなわち、1991年に15回、1992年に9回の積雪断面観測を、積雪を地面まで掘り起こして鉛直な資料採取断面を作成し、そこから鉛直方向に20cm間隔で資料を採取し分析を行った。積雪内のイオンは本格的融雪の始まる以前の小規模な融雪時に、融雪水とともに積雪内を速やかに流下するものと考えられ、このような時に積雪外へ流出する融雪水の濃度は降水の5から10倍以上にもなって濃縮されていることが明らかにされた。

 第5章以降では総合的な流出シミュレーションが行われる。最初の第5章では積雪内部の現象を取り上げ、積雪融雪水質モデルとして、積雪は水平な層が積み重なったものと考えて鉛直1次元モデルを採用し、各層において水と熱とイオンのフラックスを計算した。このモデルでは積雪内の実測値の経時変化がモデルにより再現されており、水とイオンの移動がシミュレートされていることが確認された。

 第6章では、水が積雪を通り抜けた以降の土壌中の部分の陰イオンの渓流流出のシミュレーションが行われる。ここで用いる水質モデルは2段のタンクモデルを原形とし、溶存イオンの土壌中の移動を可動態および非可動態のイオン量の変換によって表わした。これにより、ピーク値や低減部の値も、本モデルによりほぼ良好に再現された。

 以上、本論文は日本海沿岸地域における多雪流域における酸性イオンの動態を降下から流出までを包括的に定量的に明らかにしたもので、酸性降雨の被害の予測から防止技術へ基礎的な道を開くものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/51003