土木分野でも景観の重要性が認識されはじめ、それに用いる各種の景観シミュレーション手法が必要とされている。しかしその検討に用いる景観モデルは、今のところ晴天の日を対象としたものがほとんどで、天候の大きな割合を占める雨や雪の景観を対象としたものは見当たらない。これは専門書籍等で気象変化の景観解析の必要性が述べられていても、解析に用いる適当なモデルの作成ができなかったからである。雨や雪の景観の良さは晴れの日の良さとは異なるので、雨等の日の検討の必要性が指摘されてきた。また、雨や雪以外の移ろいの風景として、時刻や季節等の変化についての研究の必要性も指摘されてきたが上記と同様の理由で、あまり研究がなされていなかった。芸術の世界では気象や時刻、季節による移ろいの景観が重視されており、景観モデルの作成を科学的に創り出す必要性がある。本研究は移ろいの景観の中でも一番典型的な変化をする遠景山岳を主対象にして、全天候性の景観シミュレーション手法を開発することを目的としている。 シミュレーションの中心は景観要素としての空の色、遙青(遠山が雲霞たなびき朦朧と見える状態)および物体の色(例えば雨による濡れは晴れとは反射率が変わる)の導出であるが、これらはできるかぎり散乱などのものの見え方を支配する物理理論に忠実に再現することが必要である。従来の景観モデルの作成法でよく用いられるものにコンピューターグラフィックス(CG)があるが、市販システムでは、写真から空の色を再現するものが多く、任意の異なる天候状態のもとでの景観を再現できない欠点があった。もやや霧は物理学的理論に立脚しないモデルにより計算されることも多く、利用者が実際の天候すなわち霧やモヤの程度(視程)あるいは雨量などに応じて、景観を忠実に再現することが困難であった。物理理論を用いて再現したとする既存の研究でも、計算プロセスと気象条件などの実測値との照合が欠如していた。シミュレーション結果を利用者が見ながらそれらしく見えるように入力パラメータを決定せざるを得ないなど厳密に景観を再現するモデルの開発が要請されてきた。本論文はこれまで景観シミュレーションに用いられていなかった既往の気象理論に関する式や実測にもとづく経験式を修正・体系化することで、特に空の色や遙青について実現象に忠実に定量化された遠景景観シミュレーションを、仮定された気象条件に応じて簡単に実行できるようにしている点に特徴がある。 本研究は、6章で構成される。第1章「序論」、第2章「物理現象に忠実な景観シミュレーション手法の開発」、第3章「非写実手法による視覚効果の付加方法」、第4章「景観シミュレーション」、第5章「遠景景観変化の予測」、第6章「結論」である。 第1章では、研究の背景、研究の目的、本論文の構成を述べる。 第2章では、物理理論に忠実な景観シミュレーションを行う場合の景観の構成要素である太陽、大気、散乱、日射、遙青、地物、陰影、解像力の物理特性を、景観シミュレーションに利用する面から体系化した。すなわち景観は太陽と大気、土地形状、土地被覆により発現されるが、前述の8つの要素が組み合わされ可視化される。太陽を出た光は大気により散乱され天空光となり、散乱されなかった光は直達光として地物にふりそそいで陰影を形づくる。天空光と直達光の和は地物により反射され視点に到達するが、途中で大気により散乱され遙青効果が付加され目に見えるようになる。第2章ではこれらの過程を景観との係わりにおいて物理的に説明した。同時に計算された物理値を感覚値に置き換えるモデルの開発を行った。第4節では景観再現を行う上で最も効果の高い景観指標の提案を行った。本研究では単位体積当たり消散係数、雲厚、不明瞭係数(単位体積当たり消散係数×視距離)の3指標が景観を支配することが明らかにされた。従来の手法では仰角と視距離が中心であったことに比べて、本研究で提案する3指標は景観再現性に大きく寄与することが分かった。 第3章では、物理理論のみでは説明不能な非写実現象の発生方法を述べた。第2章では物理理論に忠実な景観の再現手法について述べるが、景観現象は心理現象でもあるので物理理論だけでは説明できない現象が生じる。例えば雨線の場合、雨滴を写真にとれば空中に浮かぶ球でしかないが、人間はこれを線として認識している。同様に雪片もカメラで撮影した場合と目で見た場合とは異なる。第2節ではこれらの粒子の視覚効果の発生方法について述べた。第3節と第4節では絵画における筆触効果とデフォルメ効果の再現方法および効果の付与結果について述べた。筆触効果については、印象派のゴッホ、スーラー、セザンヌ、モネおよびマックスフィルター、浮世絵を対象に再現した。デフォルメ効果は、画像に変形を加えることで生じる画像の印象の変化について述べた。 第4章では、第2章および第3章で述べた理論を使い種々の景観現象に対応する景観作成シミュレーションを行った。とりあげた景観現象は、天空光、遙青、土地被覆、夜景、雨景、雨線および雪片である。 第5章では、第2章で述べた理論を用いて景観予測と景観分析をする方法について述べた。第1節の景観予測では森林造林や大気汚染により遠景景観がいかに変化するかの予測方法を取り上げた。第2節の景観分析では著名絵画の心象気象の分析を行った。 最後に、第6章は結論であり、以下の点が明かになった。 本研究は景観現象に忠実な遠景の再現手法を確立することを目的にして行ない以下の成果を得た。 (1)遠景景観を支配する物理現象に関する理論式・実験式の整理・体系化を図った。前提条件として次の式を利用することが測定値との斉合性の上から推奨された。 ア.直達光の算定はブーゲの式を用いる。 イ.天空光の算定は修正ベルラーゲの式を用いる。 ウ.遙青については遙青効果の式を用いる。 エ.大気粒子の散乱の消散係数はレーリー散乱の式を用いる。 オ.水滴の散乱の消散係数はミー散乱の式を用いる。 カ.森林等自然の地物の陰影は完全拡散面として計算をすれば良い。 キ.物理現象の可視化に当たっては色彩理論及びスチーブンスの式を用いる。 (2)各種の気象・季節に対応できる全天候性景観モデルの作成方法を開発した。 ア.雲厚を0〜4000mに変化させたシミュレーションを行い、やや暗い純粋な青空から最も明るい曇り空を経て積乱雲的曇り空迄再現できた。これらのシミュレーションは実測された結果とも一致したことが確かめられた。 イ.消散係数を0〜12.5×10-5に変化させたシミュレーションを行い、大気中水分量の違いによる景観の見え方の違いを再現できた。同様に実測値とも一致した。 ウ.レーリー散乱理論を用いた碧山のシミュレーションができた。 エ.紅葉の発生メカニズムを利用することで紅葉の富士山のシミュレーションができた。 オ.完全拡散反射の理論と可視化の理論を用いて、全面的に冠雪した富士山のシミュレーションができた。 カ.衛星画像より都市部を抽出し、そこを明るく他の部分を空の明るさに応じて暗くすることで夜景を再現した。 キ.鎌倉のデータを用いて、平均的な晴れ、降雨量1.6mm/時の通常雨、降雨量53mm/時の豪雨、降雨量1.7mm/時の良い雨の各種雨景シミュレーションができた。 ク.景観を構成する気象状態を表現する景観指標として、単位体積当たり消散係数、雲厚、不明瞭度を提案した。 (3)理論の応用等 ア.景観シミュレーション理論と気象観測値を用い、造林に伴う視程の低減(42km→31km)および都市化による視程の低減(30km→5km)を再現した。 イ.著名絵画における心象気象の分析を行い、雲厚は400m程度、および遙青は不明瞭度=1.0〜2.0程度が景観として良いことが分かった。 ウ.非写実手法による視覚効果の付加方法を検討し、8種類の雨線と雪片のシミュレーションを行った。また絵画における筆触と変形の、計算機による再現例を示した。 以上を要するに本研究は景観現象に物理的および心理的に忠実に遠景を再現する手法を提案し、シミュレーションによりその有効性を検証したものであり、コンピューターによる景観シミュレーション方法を開発および体系化したと言える。 |