学位論文要旨



No 212890
著者(漢字) 杉原,薫
著者(英字)
著者(カナ) スギハラ,カオル
標題(和) アジア間貿易の形成と構造
標題(洋)
報告番号 212890
報告番号 乙12890
学位授与日 1996.05.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 第12890号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石井,寛治
 東京大学 教授 武田,晴人
 東京大学 教授 西田,美昭
 東京大学 教授 加納,啓良
 東京大学 助教授 馬場,哲
内容要旨

 本論文の課題は、アジア間貿易(intra-Asian trade)の分析を通じて、19世紀後半のウェスタン・インパクトがもたらした市場機会に、アジア諸地域がどのように反応し、工業化を内に含む独自の国際分業体制を作りだすにいたったかを明らかにすることである。対象とする時期は主として1880年代から1930年代までであり、インド(ビルマを除く英領インド)、東南アジア(ビルマ、シャム、海峡植民地、マラヤ-海峡植民地以外の英領マラヤに当たる地域-、仏領インドシナ、蘭領東インド)、中国(香港を含む)、および日本(本土のみ)の四つの地域の間の国際経済関係を中心にとりあげているが、分析のスタイルは包括的というよりも問題提起的であり、とくに従来の研究史に広範にみられる-国史的な見方や西洋中心史観の相対化を強く意識している。

 本論文の主な主張は次のとおりである。イギリスの産業革命に端を発する19世紀の資本主義の世界的展開の中で、ラテンアメリカやアフリカが欧米諸国のサテライトとなったのとは対照的に、アジアでは欧米との貿易の成長率よりもはるかに高いスピードでアジア地域内部の貿易(アジア間貿易)が成長した。この点の実証そのものも重要な論点であるが、本論文はそれを、アジアが地域全体として欧米を中心とする世界システムから相対的自立性を獲得していったことの表現であるととらえている。ここで「自立性」というのは、基本的には、アジア間貿易が、生産過程の変革を伴わない「ディマンド・プル型」の貿易から、工業品と原料・食料などの第一次産品との間の貿易、すなわち「工業化型」の貿易を中心とするものに変化したことを指し、「相対的」というのは、にもかかわらずアジア間貿易が、世界経済の中心であった欧米との従属的関係(とくに欧米への第一次産品輸出と欧米からの高度な工業品の輸入)抜きには成り立たない構造をもっていたということである。

 「自立性」の面がこれまで見逃されてきた背景としては、西洋中心史観に色濃くみられるアジア停滞論の影響が大きいが、それだけではない。アジアがウェスタン・インパクトに反応して市場の拡大や工業化に成功したとしても、それは単なる西洋の模倣に過ぎず、アジアの技術水準が西洋のそれに遠く及ばなかった以上、とりたてて論ずるに値いしないと考えられがちであったことも重要である。しかしながら、欧米とは異なった歴史的文化的伝統をもつ非ヨーロッパ世界において工業化型貿易が世界史上はじめて出現したということは、イギリスから大陸ヨーロッパや北アメリカへの工業化の伝幡とは本質的に異なる歴史的意義をもっている。工業化という歴史的現象がここで始めて西洋とアジアにまたがるバイカルチュラル(bicultural)な質を獲得したからである。

 他方、ここでいうアジア間貿易が伝統的なアジア交易圏の中から自生的に成長したものであるという理解も一面的である。そもそも自由貿易圏としてのアジアの制度的枠組は、欧米列強による植民地支配や不平等条約の強制が基礎になったのであって、決して自生的なものではなかった。アジアの諸地域がその下で国際競争(アジア間競争)をはじめたのも、ウェスタン・インパクトの文脈なしには説明しえない現象である。確かにアジア間貿易を現実に担ったのは主としてアジア人商人であり、またその背後にあるアジアに共通する生産と消費の構造であった。しかし、アジアに地域的なまとまりをもったダイナミズムがみられたのは、それが完結した世界だったからではなく、近代世界システムの一部だったからこそである。

 さらにアジア間貿易の成長は、アジア内部での国際分業体制の重要性の増大を意味していたことに注意しなければならない。少なくとも20世紀に入ると、日本の工業化と東南アジアの第一次産品輸出経済化は、かなり重要な意味で「同じコインの表裏(two sides of the same coin)」であった。また1920年代の中国の工業化は、日本の産業構造の高度化と東南、南アジアの第一次産品輸出経済化を促した点で、アジア全体に一定の影響を及ぼした。こうした国際分業体制の展開は、競争や技術移転を通じて地域経済全体を刺激するとともに、域内の多くの国を第一次産品輸出経済に特化させ、工業化を困難にしたという、正負両面をもっている。そしてこの点の検討は日本の近代化の理解にとっても決定的に重要である。従来の日本経済史研究では日本とアジアとのかかわりを日本の侵略や植民地支配のみに結びつけて理解する傾向があったが、それでは日本の工業化がアジア国際分業体制全体(およびそれをささえた欧米列強主導の国際秩序)を基盤にしていたことが見失われてしまう。アジア内部の「南北問題」の形成もまた、近代世界システム全体の動きの中で位置づける努力をしなければならないのである。

 本論文は、序章と終意を除けば三つの編から構成されている。第1編に収めた四論文はいずれもアジア間貿易に関する一般的問題をテーマとする。第1章は本論文全体の総説の性格をもっており、アジア主要9地域の貿易統計を、1883、1898、1913年の3カ年について吟味し、アジアの対欧米貿易額が輸出で年平均3.2パーセント、輸入で年平均4.3パーセント増加した30年間に、アジア間貿易は実に年平均5.5パーセントの増加をみたことを実証するとともに、その成長メカニズムの説明を試みている。対象時期のアジア間貿易における工業品貿易の比重そのものは決して大きくはなかったが、棉花貿易や、いわゆる「綿米交換体制」の一環としての米貿易を含めた「線業基軸体制」が、工業化型貿易の成立を意味したと主張している。第2章は、アヘン貿易を介して19世紀後半に印中競争が生じ、これを通じた中国市場の国際経済への統合が工業化型貿易成立の前提となったことを明らかにする。1880年代以降のアヘン貿易の停滞は、決済構造の観点から見ると、日本がアジア市場に参入する重要な前提条件を作りだしたものと考えられる。第3章は、1880〜1913年における東南アジアの世界経済への統合過程を、通説のように欧米との関係だけでとらえるのではなく、対印・中・日貿易や印僑・華僑の活動を通じて他のアジア諸国との関係を深めることによって、いわば東南アジアが二重に周辺部化した、ととらえることを提唱する。そしてアジアにおける国際分業体制と労働力吸収の特徴との関連を図式化して提示する。労働力吸収のパターンを「接合ゲイン」として理解している点は、第3編に収録した研究の一つの理論的な整理でもある。

 第4章は第1章の続編であり、両大戦間期におけるアジア間貿易の展開をあとづける。1880〜1939年までのアジア主要12地域の貿易統計を吟味し、(1)アジア間貿易額は激しい変動をくりかえしながらも、世界貿易にたいする比重を着実に増大させ、1938年までにヨーロッパ域内貿易(世界貿易の16パーセント)に次ぐ、第二の地域貿易圏(同9パーセント)に成長したこと、(2)両大戦間期に国際連盟が収集し、現在なお広く利用されている貿易統計は、1930年代のアジア間貿易額を大幅に過小評価しており、これが「ブロック化=世界貿易の崩壊」論などとあいまって、東アジア地域経済のダイナミズムを見失わせる一つの原因となってきたことを示す。「綿業基軸体制」の展開は、東南・南アジアにおける自立的発展を犠牲にした格好での東アジアの工業化の進展とアジア間貿易の相対的地位の上昇を結果したが、1920年代と大恐慌後の東南・南アジアの従属的蓄積の継続は、それに依存せざるを得なかった日本(および円ブロック)の自立性の限界を示すものであった。なお同章の末尾で日本帝国主義の理解についても若干の問題提起を行っている。

 第2編は、全体が一つのケース・スタディである。本論文の枠組と従来の研究との相違の一つは、欧米の第一次産品需要が引き金となってアジアで第一次産品輸出経済が発展すると、その連関効果、とくに労働者や農民の購買力のわずかな増加がアジア産の生活物資の需要増に結びつき、そこから大衆衣料などを大量生産する工業化が生じた、という連関を強調する点である。本編に収めた四論文は、1870〜1913年の時期に焦点をあて、アジア最大の貿易国であったインドの第一次産品輸出経済化→その最終需要連関効果としての工業品、第一次産品需要の増大→日本の対インド工業品輸出の急増とそれに果した政府の積極的役割、という脈絡を、事例をしぼって明らかにしようとしている。

 ところで工業化型貿易の成立は、小農経済下の農民を基礎とするアジア経済の中に、資本主義的なシステムの中で活動する大企業に雇用される労働者が本格的に登場してくることと表裏一体の関係にあった。かれらは生産、消費構造の両面で変革をリードし、アジア型近代商品市場の形成に貢献した。東南・南アジアではそれは、しばしばプランテーションや鉱山における労働者の創出としてあらわれ、日本、中国では工業労働者の比重が比較的高かった。第3編は、インドと日本の綿業労働者、および東南・南アジアの印僑・華僑の労働=生活過程を素材に、このようなアジアの労働力の商品化の過程を比較・検討する。労働力の調達と管理のパターンは欧米のそれと大きく異なっていたが、労働者が近代的価値規範を身につけはじめていたこと、その変化の程度がアジア諸地域の競争力に影響していたことを示唆している。

審査要旨 I

 本論文は、アジア間貿易の分析を通じて、19世紀後半のウェスタン・インパクトにアジア諸地域がどのように対応し、「工業化を内に含む独自の国際分業体制」を作りだすにいたったかを明らかにすることを課題としている。日本経済史の研究においては、戦前の服部之総の問題提起以来、何故日本のみが工業化に成功したのかという問題をウェスタン・インパクトに対する日本独自の対応の在り方から解く試みが繰り返されて来たが、本論文の著者は、そうした研究方法の限界を鋭く指摘する。すなわち、まず必要なのは、アジア諸地域の対応が、ラテンアメリカやアフリカのように欧米の単純なサテライトになるのではなく、欧米との貿易よりも高いスピードでアジア地域内部での貿易を成長させる形での対応であった事実を明らかにすることであり、その上で、日本の工業化もそうしたアジアにおける国際分業体制の形成を基盤とするものとして理解されなければならないと指摘する。こうした著者の分析視角は、16世紀以来の伝統的なアジア交易圏の発展の延長上に19世紀のアジア間貿易を理解しようとする浜下武志氏や川勝平太氏の見解と一脈相通ずるものであるが、19世紀のアジア間貿易の展開はウェスタン・インパクトの文脈なしには説明しえないと見る点で、浜下・川勝両氏とは異なっているといえよう。

 本論文は、序章「本書の課題と構成」と終章「総括と展望」を除くと、三つの編から構成されている。第I編「アジア間貿易の基本問題」は、アジア間貿易に関する一般的問題を扱い、第II編「インド貿易の発展と日本の工業品輸出」は、インドと日本に関する個別問題を検討する。そして、第III編「アジアにおける近代的労働力の形成」は、アジア間貿易の展開と表裏一体の関係をなす各地域の労働力の商品化の過程を比較・検討している。

II

 序章「本書の課題と構成」において、著者は、本論文が具体的には1880年代から1930年代にかけてのインド・東南アジア・中国・日本の4地域間の国際貿易関係を対象とし、そこに展開する貿易が、世界経済の中心であった欧米との従属的関係を前提としつつ、次第に「工業化型」の貿易(工業品と原料・食料との間の貿易)へと変化していったこと、その意味でアジア地域全体が欧米中心の世界システムから相対的自立性を獲得していったことを明らかにすることを課題としていると述べる。著者によれば、そうしたアジア間貿易がアジアと欧米との貿易よりも急速に成長した理由として、厚地綿布や米穀に代表されるアジアの伝統的な物産が近代的商品に生まれ変わり大量に出回るようになった事実が重要な意味をもっていたという。

 第I編「アジア間貿易の基本問題」は4つの章からなる。第1章「アジア間貿易の形成と構造-1880〜1913年-」は、1883年、1898年、1913年の3ヵ年について、アジア間貿易の金額を算出しており、本論文の総論的位置を占めている。この算出に当たって海峡植民地と香港を経由する貿易の実態把握が重要な意味を持つことは言うまでもない。かかる統計操作の結果、著者は、この時期におけるアジア間貿易の成長率がアジアの対欧米貿易のそれよりもかなり高かった事実を突き止めるとともに、次第に複雑化するアジア間貿易の半分近くが直接綿業にかかわる貿易であったことに注目し、これを「綿業基軸体制」と名付けている。

 次に、第2章「19世紀後半のアヘン貿易」は、欧米への茶・生糸の輸出の伸びに比較して欧米からの輸入の伸びが低かった中国が、インドからのアヘンの輸入を通じて世界市場に統合されて行ったこと、19世紀後半になると中国でのアヘンの国産化が進んだため、アヘン貿易の担い手であるサスーン一族ら貿易商人はインド綿糸の中国輸出に業務を転換して行ったこと、そのことが日本綿糸の中国市場参入の前提条件となったことを指摘する。

 第3章「東南アジア第一次産品輸出経済の構造-1880〜1913年-」は、東南アジアの貿易は当時世界経済の中でもっとも急速な発展を示したが、それは欧米諸国への一次産品供給の伸びによるだけでなく、アジア内で先進的位置に立つインドや日本との貿易の拡大にも基づくこと、その意味で東南アジアは欧米と他のアジア諸国によっていわば二重に周辺部化されていったことを明らかにしている。

 第4章「両大戦間期のアジア貿易」は、第1章に続いて、両大戦間期におけるアジア間貿易の展開を跡付け、アジア間貿易が世界貿易における相対的比重を着実に増大させていること、その中では工業化の進んだ日本・中国など東アジア圏の比重が綿業関係貿易を中心に著しい伸びを示していることを指摘する。と同時に、東南・南アジア圏では、工業化が比較的進まず、欧米諸国への一次産品輸出に依存する従属的蓄積のパターンが維持されるとともに、重化学工業製品の輸入先も欧米中心であり続けたため、日本の重化学工業の発展の基盤たりえなかったと述べている。

 第II編「インド貿易の発展と日本の工業品輸出」は、4つの章からなり、第一次大戦前の時期においてアジア最大の貿易国であったインドが、その第一次産品輸出による最終需要連関効果としての工業品・食料品需要を増大させ、それに向かって日本が政府の積極的役割に導かれつつ工業品を輸出するという脈絡を究明している。まず、第5章「1870〜1913年におけるインドの輸出貿易」は、インドの貿易構造が資本主義諸国への第一次産品輸出、工業品輸入というパターンを一貫して維持しつつ拡大していったこと、輸出先については全体としてイギリスから後進資本主義国(工業ヨーロッパと日本)への転換が進んだことを指摘する。

 次いで、第6章「第一次大戦前のアジアにおけるインド貿易の役割」は、対欧米・日本の貿易とは逆に、日本以外のアジアに対しては、インドが綿糸・綿製品・ジュート製品などの工業品の輸出、米・砂糖・石油などの第一次産品の輸入という先進国型貿易構造を持つようになるが、そうしたインドの地位は日本紡績業の発展によって間もなく脅かされるに至ることを指摘している。

 第7章「第一次大戦前のインド市場における日本製綿メリヤス製品の浸透」は、インドからの第一次産品輪出の拡大が僅かなりとも上昇させたインド大衆の購買力を、日本製綿メリヤス製品が着実にとらえていった過程を明らかにし、イギリス製品のインド大衆市場への浸透力には大きな限界があったと示唆している。

 第8章「明治日本の産業政策と情報のインフラストラクチャー」は、明治期の日本政府が、領事報告の内容を刊行物として広く配布するなどの諸方策を通じて外国・中央・地方にまたがる経済情報の提供システムを民間に先んじて構築したことが、日本企業がアジア市場向けの商品群を作り出す上で大きな役割を果たしたこと、日本にとっての最大のライバルであったインドは、イギリスの植民地支配の下にあったために、そうした情報網を構築出来なかったことを指摘する。

 第III編「アジアにおける近代的労働力の形成」は、4章からなり、インド・中国からの移民労働力とインド・日本の近代的工場労働力の形成の特徴を比較・検討している。まず、第9章「インド人移民とプランテーション経済-19世紀末〜第一次大戦期の東南・南アジアを中心に-」は、インドからビルマ、セイロン、マラヤのプランテーションその他に大量の出稼ぎ型の短期移民が送り出されていたことを明らかにしつつ、そこではカンガーニないしメイストリと呼ばれるリクルーター兼職長が労働者を集団的に募集したためにカースト制的な支配原理が渡航先まで持ち越されることがあったが、彼らによる労働者の管理は主に金銭貸借という商品経済的なものに翻訳されており、奴隷労働の代替にすぎない強制労働の移動とは異なっていたと指摘する。

 次いで、第10章「華僑の移民ネットワークと東南アジア経済-19世紀末〜1930年代を中心に-」は、1870年代から急増する中国から東南アジアへの移民の趨勢を香港経由の移民数を考慮に入れつつ検討し、華南から海峡植民地を主要ルートとする移民のネットワークが両大戦間にかけて盛んに機能していたことを明らかにした上で、客棧と呼ばれる主要港の移民用旅館を核とする移民仲介のネットワークと、信局を通ずる送金網、および華僑の通商網が三者一体となって移民の活動を支えていたことを指摘している。

 第11章「インド近代綿業労働者の労働=生活過程-20世紀初頭における日本との対比-」は、ボンベイの紡績工場では経営者側は労働者の調達と管理を全てジョバーに任せており、労働時間は厳密に時計で決めることができず、休憩は労働者が随時とるなど総じて生活過程が労働過程よりも優先されていたことを指摘し、仕事場での行動は資本家の設定する時間と規律に従うものとしていた日本の紡績女工の場合が非白人の世界ではむしろ例外的ではなかったかと述べている。

 そして、第12章「日本における近代的労働=生活過程像の成立-宇野利右衛門と工業教育会の思想-」は、大正期に日本的労務管理のあり方を模索しつづけた宇野利右衛門の思想を検討することを通じて、日本では忠誠心などの伝統的原理がそのまま工場や寄宿舎に持ち込まれたのではなく、工場側の設定した時間と規律の体系の中で模範職工になることを競わせるシステムが導入されたこと、そうした価値観は逆に労働者の出身農村へも浸透していったことを特徴として指摘する。

 以上の分析を踏まえて、終章「総括と展望」において著者は、アジア間貿易が一つの歴史概念として成り立つ基礎として、川勝氏が提起したアジアに共通な物産複合=消費構造と、浜下氏が指摘する伝統的な通商網の存在が重要な意味をもっていること、欧米主導の世界システムの中でアジアの工業化が可能であったのは、第一に欧米列強とりわけイギリスのシティーの利害とアジアの工業化が補完関係にあったためであり、第二にアジアとりわけ東アジアの伝統的社会原理が適度な規律と勤労意欲を備えた労働者を生み出し得たためであること、を指摘した上で、第二次大戦後になるとアジア間貿易は、民族独立と冷戦対立のために縮小されたが、1970年代以降の日本、NIES、ASEANの世界水準を上回る経済成長に、やがて中国、インドが加わることにより、重化学工業化の進展とバイカルチュラルな最終消費需要の拡大を基礎とする戦前型と異なる新たなアジア間貿易が展開しつつあるという展望を述べている。

III

 本論文の特徴の第一は、従来のウエスタン・インパクトをめぐる諸研究が、外圧の強弱やそれぞれの国や地域の個別的対応とその歴史的背景に視野を限定しがちであったことを批判して、アジア全体としての対応の独自性をラテンアメリカやアフリカと比較しながら強調した視点の斬新さにある。そうした視点は著者が、かねてより川勝平太氏や浜下武志氏らとの討論を通じて抱いていたものであるが、著者の場合は、近代におけるアジア間貿易の展開の契機としてウエスタン・インパクトが果たした役割を正当に評価しようとする点において、川勝・浜下両氏の見解の曖昧さを克服する努力が見られると言えよう。1986年にベルンにおいて開催された国際経済史会議では、著者のこうした視点に立った主張が大きな反響を呼び、以来著者はロンドン大学SOASにおいて、アジア間貿易の歴史に関する研究を外国人学者と共に鋭意推進して来たのである。

 第二に、本論文の実証の核心をなす部分は、アジア間貿易の規模と成長テンポを各種貿易統計を加工することにより、出来るだけ正確に追求し、その成長率の高さを明らかにしたことである。この問題については、とくに香港とシンガポールを経由する貿易の実態が掴めなかったために、従来正確な数値が判明しなかったのであるが、著者は様々な推定も交えながら、信頼度の高い推計値を算出することに成功した。この成果は、日本の学界はもとより国際学界においても極めて高く評価されるものと言えよう。

 本論文の第三の特徴は、そうしたアジア間貿易の高成長の根拠と意義についても分析を試み、幾つかの注目すべき問題提起を試みていることである。インドと日本の工業化をアジアに共通する消費構造との係わりから説明すると同時に、両者の違いを労働力供給と政府の産業政策の面から対比して論じた部分や、印僑や華僑などの移民の流れと活動の分析を通じてアジア間貿易を支える労働力の実態に迫った部分は、著者の視野の広さと間題意識の鋭さを窺わせるものと言えよう。

 このように、本論文は、斬新な分析視点に立ちつつ綿密な実証を行った力作であり、この問題について日本学界だけでなく国際学界の水準を大きく引き上げ、新しい研究方向を切り拓いたものとして高く評価することが出来る。しかし、そうであるだけに、さらに分析の深化を求めたい点や、疑問に思われる点がいくつか存在することも事実である。たとえば、アジア間貿易の分析において東南アジアを論じるさいに、フィリピンを対象から除いたり、印僑・華僑にのみ注目していること、あるいはヨーロッパとアメリカとの関係の違いを無視して欧米諸国という風に一括して論じていることには疑問がある。また、アジア間貿易が商業的農業の拡大を齎すという指摘は一応あるとはいえ、アジア各地の農村の在り方全体に如何なる影響を及ぼすかが不明確なままであることも問題といえよう。さらに、インド綿製品市場へのイギリス製品の浸透度や中国での在華紡の役割がやや過小評価されていないかという疑問も残るところである。そして、アジアの工業化の質をヨーロッパの工業化の質と違うと見るのか同じと見るのかという基本的な論点についても明快な説明が欠けていると言わねばならない。

 しかし、これらの問題点は、誰よりも著者自身が自覚して今後の研究によって克服せんとしているところであり、本論文の画期的な意義をいささかも減ずるものではない。審査委員会は全員一致で、本論文の著者が博士(経済学)の学位を授与されるに十分値するとの結論に達した。

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