学位論文要旨



No 212891
著者(漢字) 寺田,純雄
著者(英字)
著者(カナ) テラダ,スミオ
標題(和) アデノウイルスベクター及びトランスジェニックマウスを利用した生体内の遅い軸索輸送の解析
標題(洋) Direct visualization of slow axonal transport in vivo using a combined adenovirus vector and transgenic mouse strategy
報告番号 212891
報告番号 乙12891
学位授与日 1996.05.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第12891号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 井原,康夫
 東京大学 教授 三品,昌美
 東京大学 教授 宮下,保司
 東京大学 教授 芳賀,達也
 東京大学 教授 野本,明男
内容要旨

 神経細胞は一般に脳の情報伝達回路網の単位として際立った形態上の特徴を有している。即ち刺激受容野として大きな表面積をもつ樹状突起、及び出力装置としての長い軸索の存在によって、他種の細胞群にはみられない空間的広がりが認められる。その広がり故に、神経細胞が情報伝達素子としての極性を維持する為には高度に発達した細胞内輸送系が必要となる。特に神経細胞軸索内では一般に蛋白質合成装置が存在せず、細胞体で合成された蛋白質分子は時に一メートルを越える長い距離を輸送されなければならない。細胞生物学的見地からすれば、この為の輸送系は神経細胞特異的というよりも寧ろ、細胞一般に普遍的に存在する輸送メカニズムのあるものが、高度に特殊化あるいは進化したものと考えられる。

 軸索内輸送には大別して二種、即ち速い軸索輸送と遅い軸索輸送とがある。前者はシナプス小胞関連蛋白質を初めとする膜蛋白質群を一日当たり10-40センチメートルの速さで運び、後者は細胞骨格蛋白質群や解糖系酵素群等の細胞質蛋白質を一日当たり0.1-3ミリメートルの速さで運ぶ輸送系である。

 速い軸索輸送の分子機構は、イカ巨大軸索内の膜小胞輸送のビデオコントラスト増強法による光学顕微鏡的観察とこれに続く同一標本の電子顕微鏡による観察、及び軸索細胞骨格の急速凍結電子顕微鏡解析による微小管と膜小器官間のモーター分子と考えられる短い架橋構造の同定から、軸索中の微小管系をレールとしたATPase活性を有する蛋白分子がこれに関与することが示唆され、結果としてモーター蛋白分子キネシンの生化学的分離と、更にin vitro再構成系及びin vivoでの局在解析によりキネシン分子が微小管を速い軸索輸送に見合った速さで動かせることの証明へと解明が進んだ。現在ではキネシン以外の多数の新しいモーター分子群、例えばキネシン関連蛋白質等の存在とその軸索輸送上での役割が明らかにされつつある。

 これに対し遅い軸索輸送の分子機構は、その輸送速度の小ささ故に、速い軸索輸送のモーター分子同定に決定的な役割を果たしたイカ巨大軸索の観察系やin vitro再構成系といった高解像度の形態学的手法が存在しなかったことから解明が大きく遅れ、遅い軸索輸送の為のモーター分子の存在ですら未だに確定的とはいえない状況である。

 遅い軸索輸送は当初、ラット神経節細胞の放射性同位元素によるいわゆるメタボリックラベリング法によって解析された。座骨神経に軸索を送る前角運動神経核あるいは後根神経節に放射能標識したアミノ酸をうち、結果として神経細胞内で合成時にパルスラベルされた細胞質蛋白質群が、座骨神経内をどの様に輸送されていくか、小分節に切り分けた座骨神経標本を破砕、電気泳動しオートラジオグラムにかけて観察する手法である。Lasekらはこの手法によりパルスラベルされた蛋白質群は電気泳動上細胞骨格蛋白質を初めとする細胞質蛋白質群であり、数週間にわたりパルスの波形を殆ど変えることなく遅い軸索輸送で運ばれる様子を観察し、この結果から遅い軸索輸送は受動的拡散現象からは区別される、おそらくは各軸索間で共通したメカニズムによって能動的に細胞質蛋白を運搬するシステムであることを見出した。更に彼らは主としてパルスラベルされた軸索内のニューロフィラメント蛋白が長く一塊の波形を崩さず運搬されること、及び軸索内ではニューロフィラメント蛋白が殆ど重合体として10ナノメートル径の中間径フィラメントを形成して存在することより、ニューロフィラメント蛋白やチュブリン等の細胞骨格蛋白質群は細胞体で合成後、直ちに重合体を形成し重合体同志が互いに滑りあう形で軸索内を輸送されるとする、いわゆるポリマースライディング仮説を提唱した。

 引き続き上述とは別の、培養神経細胞に標識ラベルした細胞骨格蛋白質を微量注入し軸索内における標織蛋白質の動態を追う形の研究が進められた。蛍光ラベルにより標識されたニューロフィラメント若しくはチュプリンを培養後根神経節細胞に微量注入し、注入された蛋白質が軸索内に分布するのを待ち、その後軸索の一部分の蛍光を紫外線照射により消退させ、蛍光を失った部分の重合体のバンドの挙動を観察した所、前述のポリマースライディング仮説に反しバンドは移動せず、時間経過と共に徐々にその蛍光強度を回復していくことが示された。また紫外線照射により蛍光を発する様に作られたケージドフローレッセインによってラベルされたチュプリンを培養後根神経節細胞に微量注入し、その後今度は軸索の一部分を紫外線により励起し、蛍光を発した重合体のバンドの挙動を観察した場合でも、重合体は移動せず徐々にその蛍光強度を下げていくことが示された。これらの結果は遅い軸索輸送は必ずしも重合体の形では行われず、おそらくは単量体かオリゴマーの形で輸送されることを示唆するが、遅い軸索輸送で運ばれる蛋白質そのものをラベルできなかった為に、メタボリックラベリング法によって観察されたパルスラベルの波形移動の時間経過について説明づけることはできなかった。また単量体やオリゴマーで輪送される運搬中の蛋白質群の挙動を培養神経細胞により解析することには、受動的拡散の影響を除外しにくいこと、及び培養神経細胞自体がいわば傷害より再生中の状態を反映すると考えられることからどの程度生理的な状況を観察できているかについて疑問が残った。

 上述の如き混乱した状況下にあって、遅い軸索輸送の分子機構解明の為には実際に運搬中の蛋白質群の存在様式の高解像度レベルでの観察が必須であると考え、次の様な実験を行った。

 まずニューロフィラメントM蛋白質のcDNAを抗c-mycモノクローナル抗体のエビトープタッギングにより遺伝子上で標識し、このタグ付きニューロフィラメントM蛋白質をコードするcDNAから発現ユニットを構築し、これを非増殖型組み換えアデノウイルスベクターに組み込んだ。次に高度に濃縮したベクターウイルスを、軸索中に中間径フィラメントを欠くトランスジェニックマウス(B6C3F2/44A)のL4レベル後根神経節に注入、感染させ、発現した標識蛋白の座骨神経軸索内での動態を形態学的に観察した。ニューロフィラメントM蛋白質はニューロフィラメントL蛋白質等と共重合することで初めて中間径フィラメントを形成するが、単独では重合しない。もしこのマウスの中間径フィラメントを欠く軸索内を発現産物が輸送されていけば、この輸送はポリマースライディング仮説にはよらないことが証明できると考えた。

 共焦点走査型レーザー顕微鏡及び透過型電子顕微鏡による免疫組織化学法から、タグ付きニューロフィラメントM蛋白質は、確かに中間径フィラメントを形成することなく遅い軸索輸送の速さで座骨神経軸索内を輸送されること、及びラベルの先端部の位置は各軸索間でよく同期しており、かつラベルの軸索方向の強度分布はその先端部で極めて急峻な立ち上がりを呈することが観察できた。更に対照実験として中間径フィラメントを軸索内に有する正常の後根神経節細胞に遺伝子導入した場合、とくに細胞体から離れたラベルの先端部に近い部分でラベルが有意に微小管と共存することが判明した。

 以上の結果から少なくともニューロフィラメントM蛋白質の輸送に関しては、in vivoの単一軸索レベルでの高解像度下の観察によって(1)細胞骨格蛋白質の軸索輸送の為には細胞体内での重合が必要条件とはならず、単量体あるいはオリゴマーの形で運ばれ得る点でポリマースライディング仮説は成り立たないこと、(2)遅い軸索輸送にも微小管依存性モーター分子が関与する可能性の高いこと、及び(3)前述のメタボリックラベリング法による結果を裏付ける形で、受動的拡散現象からは区別される、おそらくは各軸索間で共通したメカニズムによって能動的な輸送が行われていることが明らかとなった。

審査要旨

 本研究の目的は、高度に発達した細胞内輸送系の一例としての神経細胞の遅い軸索輸送のメカニズムを解明することである。このため同輸送系により運ばれる蛋白質群のうち、ニューロフィラメントM蛋白質に注目し、生体軸索内での同蛋白質の輸送様式の電子顕微鏡レベルでの解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

 軸索内輸送には大別して二種、即ち速い軸索輸送と遅い軸索輸送とがある。前者はシナプス小胞関連蛋白質を初めとする膜蛋白質群を一日当たり10-40センチメートルの速さで運び、後者は細胞骨格蛋白質群や解糖系酵素群等の細胞質蛋白質を一日当たり0.1-3ミリメートルの速さで運ぶ輸送系である。遅い軸索輸送の分子機構は、その輸送速度の小ささ故に、速い軸索輸送のモーター分子同定に決定的な役割を果たしたイカ巨大軸索の観察系やin vitro再構成系といった高解像度の形態学的手法が存在しなかったことから解明が大きく遅れ、遅い軸索輸送の為のモーター分子の存在ですら未だに確定的とはいえない状況である。また主としてメタボリックラベリング法による解析を基盤とするLasekらのポリマースライディング仮説と、培養神経細胞に標識ラベルした細胞骨格蛋白質を微量注入し軸索内における標識蛋白質の動態を追う形の研究の結果とは全く相反する。上述の如き混乱した状況下にあって、遅い軸索輸送の分子機構解明の為には実際に運搬中の蛋白質群の存在様式の高解像度レベルでの観察が必須であると考え、次の様な実験を行っている。まずニューロフィラメントM蛋白質のcDNAを抗c-mycモノクローナル抗体のエピトープタッギングにより遺伝子上で標識し、このタグ付きニューロフィラメントM蛋白質をコードするcDNAから発現ユニットを構築し、これを非増殖型組み換えアデノウイルスベクターに組み込む。次に高度に濃縮したベクターウイルスを、軸索中に中間径フィラメントを欠くトランスジェニックマウス(B6C3F2/44A)のL4レベル後根神経節に注入、感染させ、発現した標識蛋白の座骨神経軸索内での動態を形態学的に観察する。ニューロフィラメントM蛋白質はニューロフィラメントL蛋白質等と共重合することで初めて中間径フィラメントを形成するが、単独では重合しない。もしこのマウスの中間径フィラメントを欠く軸索内を発現産物が輸送されていけば、この輸送はポリマースライディング仮説にはよらないことが証明できると考えられた。共焦点走査型レーザー顕微鏡及び透過型電子顕微鏡による免疫組織化学法から、タグ付きニューロフィラメントM蛋白質は、確かに中間径フィラメントを形成することなく遅い軸索輸送の速さで座骨神経軸索内を輸送されること、及びラベルの先端部の位置は各軸索間でよく同期しており、かつラベルの軸索方向の強度分布はその先端部で極めて急峻な立ち上がりを呈することが観察された。更に対照実験として中間径フィラメントを軸索内に有する正常の後根神経節細胞に遺伝子導入した場合、とくに細胞体から離れたラベルの先端部に近い部分でラベルが有意に微小管と共存することが判明した。以上の結果から少なくともニューロフィラメントM蛋白質の輸送に関しては、in vivoの単一軸索レベルでの高解像度下の観察によって(1)細胞骨格蛋白質の軸索輸送の為には細胞体内での重合が必要条件とはならず、単量体あるいはオリゴマーの形で運ばれ得る点でポリマースライディング仮説は成り立たないこと、(2)遅い軸索輸送にも微小管依存性モーター分子が関与する可能性の高いこと、及び(3)前述のメタボリックラベリング法による結果を裏付ける形で、受動的拡散現象からは区別される、おそらくは各軸索間で共通したメカニズムによって能動的な輸送が行われていることが明らかとなった。

 以上、本論文は生体内の神経細胞の軸索内を遅い軸索輸送により実際に輸送されつつあるラベルされたニューロフィラメントM蛋白質の存在様式を解析することにより、遅い軸索輸送の機序の一端を明らかにし、ポリマースライディング仮説が成り立たないことを証明すると同時に遅い軸索輸送の為のモーター分子発見に向けて新しい研究の方向性を示した。従って本研究は遅い軸索輸送の機能解析を通して細胞内輸送系の機構解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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