学位論文要旨



No 212897
著者(漢字) 服部,英雄
著者(英字)
著者(カナ) ハットリ,ヒデオ
標題(和) 景観にさぐる中世 : 変貌する村の姿と荘園史研究
標題(洋)
報告番号 212897
報告番号 乙12897
学位授与日 1996.06.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第12897号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 五味,文彦
 東京大学 教授 桜井,由躬雄
 東京大学 教授 村井,章介
 東京大学 教授 岸本,美緒
 東京大学 助教授 佐藤,信
内容要旨

 近年、圃場整備事業等によりわが国の農村の耕地景観は著しく変貌した。しかしそれより以前の耕地景観、とりわけ水田は巨視的にいえば、近世以前の耕地をほぼ忠実に継承した長い歴史をもつものであった。なぜなら大型機械の導入以前には、水田は微地形に応じて高低や広狭があり、用水路も地形に規制されていたから、たやすくは変更できなかったからである。そして多くの場合、その耕地は中世の耕地をも継承するものだった。

 したがって中世の村の姿を復原する場合には、この中世・近世・近代と継承されてきた圃場整備以前の耕地が大きな手がかりとなる。本研究においては遡及的復原法と仮称した方法を採用した。即ち近代の耕地景観から近代に付加された要素を除却し、次に近世の耕地景観から近世に付加された要素を除却して、中世の耕地景観の骨組みを復原する方法である。この方法によって、近年の農村景観から中世の耕地と村の姿を復原的に見通すこと、次に中世の文献史料が残っている場合には、それらを活用することにより、より具体的な肉付けを行なって、中世の村のありかたを復原すること。それが本研究の第一の課題である。

 従来こうした研究が必ずしも活発に行われてこなかった理由には、こうした方法の有効性、科学性が、十分に証明されていなかったことがあげられるだろう。本研究のもう一つの課題は、この方法の有効性を学問的に実証することにある。この課題に対し、本研究では次のような作業を行なった。

 第一部では、地名として残る「みそさく」「ようじゃく」、即ち中世の領主直営田である御正作、用作の遺称地名を手がかりに、その現地調査をふまえた考察を行なった。中世の領主直営田の立地条件の分析によって、領主の村落支配のあり方を追求したものである。具体的な成果として得られた像は、積極的な耕地開発は行なうものの、一方で災害等異常気象に対して弱体でもあった中世農業に規定されつつ、そのなかでなされた領主の支配の実際のありかたなどである。また平野、谷、低湿地、陸化干潟など、さまざまな地域の村の姿も明確になり、従来の谷水田のみによって中世の耕地を代表させる見解を是正することができた。また必ずしも文献史料(中世古文書)が残ってはいなくとも、各地域で中世の村の復原が可能となることも明かにした。

 第二部は、本研究において歴史史料として、もっとも重視した地名の歴史的性格、史料としての特質を明らかにしたものである。地名を編年し、来歴を明らかにするために、中世の古文書(坪付帳)、絵図との比較・検討を行なった。この結果、近代の耕地に付された小地名の過半数が、中世前期以前に起源をもつものであることが明らかになった。しかし集落部分では地名の変化が著しい。ほかにも名(みよう)地名と実際の中世の名田分布とを対比する中で、地名の来歴を検討するなどの作業を行なった。

 次に第三部は、遡及的復原法による中世荘園村落の復原の実際を示したものである。中世の土木技術は未熟で、災害には弱かったが、積極的な開発の姿勢自体は各地でみられた。しかし中世の開発が、真に成功し定着するまでには、長い時間を要した。そうしたことを具体的に、播磨国福井庄、肥後国八代庄における塩浜干拓や、播磨国大部庄における溜池灌漑の拡大過程、あるいは備後国地毘庄における高山門田の復原と大の池の崩壊、また肥前国長島庄での条里の復原結果をもとに、地頭による開発の様相を明らかにするなど、全国各地の荘園で遡及的復原を行なったものである。豊前国金田庄、伯耆国国延保では名田の分布形態を復原したが、そのなかで、近世の村とのつながりも明かになる。安芸国三入庄や地毘庄、長島庄ではこうした復原された荘園景観をもとに、武士団のありかたを論じてみた。

 第四部では第三部までの復原法が中世城館の研究に対しても、有効であることを示した。

 以上、本研究は現地調査の方法による中世荘園村落と耕地景観の復原が、歴史学として有効であり、学問的であることを、各地の実例に即しつつ、証明したものである。

審査要旨

 荘園史研究は、戦後の社会経済史研究の華やかなりし時にあっては、日本中世史の研究をリードしてきた研究分野であったが、現在は多くの困難な条件もあって、苦難な状況にある。しかしそうしたなかにあって地道に研究を進めてきた、その成果が本論文である。

 分析方法は、徹底した現地調査を行い、荘園の姿を描くことにある。文献史料を机上から論ずることに終始してきたこれまでの研究への反省に基づいて、開発の波によって痕跡さえも消え去ろうとする中世の荘園の景観を生き生きと蘇えらすことにある。

 全体は四部から構成されており、第一部では「みそさく・ようじゃく」と題して、各地に残る地名のうちの「みそさく」と「ようじゃく」に注目し、そこから中世荘園の景観の復原を試みている。第二部では「地名の史料学」と題して、各地に残る地名がいかに歴史の史料として有効なものかを具体的に論ずる。第三部は「荘園景観の遡及的復原法」と題して、荘園の復原の方法に関する方法を論じ、具体的な復原の事例を示す。そして第四部では「中世城館の研究視角」と題して中世城館の歴史的、地理的な位置づけを試みる。

 現在、中世荘園の痕跡を伝えてきた各地の農村は大きく変貌しつつある。それは過疎化が進行するとともに、それに対応して開発が進められていることや、各地で行われている圃場整備事業などによっても、中世から維持されてきた耕地や用水の姿が消えようとしており、他方で土地の地名をよく知る古老も少なくなってきている。そうした状況にあって、本論文は現地調査を通じて、その消えゆかんとする荘園の痕跡を記録にとどめ、今後の研究に資すること、およびそこから荘園の景観を復原することを目的にしている。

 さて第一部の「みそさく・ようじゃく」は七つの章からなるが、最初の章は周防国の仁保庄の荘園景観を考えてゆくに際して、地名に残る用作(ようじゃく)という地に注目し、その土地が在地領主にとって特別な地であったことを探っている。用作には二つの形態があって、一つは湧き水や谷水を利用した最も開発の容易な田であり、もう一つは井手の先端部にあって収穫量が最も高い田である。この二つを在地領主は設定することにより、飢饉にも、また生産力の伸びにも応じた支配を行っていたことを明らかにした。

 ここから服部氏はさらに広く用作の地名が残る土地を探し出し、周防国与田保・周防長門地方・九州の筑後川下流などの現地調査によってその点を確認し、さらにまた関東ではそうした地が用作とはいわれずに、「御正作」(みしょうさく・みそさく)といわれた土地であることを、関東の各地や常陸国長岡郷、遠江国初倉庄などの現地調査で明らかにしている。御正作の地名が見られる土地の条件を探り、先に見た用作と同じことが窺えることを指摘している。

 その作業は各地に残る小字や通称地名を発掘して、その土地の性格を古老たちから聞き取る、という足で探る歴史学の実践であり、これによって文献のない土地や荘園の歴史をも探ることが可能になった。

 第二部の「地名の史料学」は地名の史料としての性格を吟味し、その史料としての有効性を探る試みであり、九章からなる。先ず中世の文献や絵図に見られる地名と、現代に見られる地名とがどの程度の関連があるのかを、播磨・近江・山城・大和・能登・肥前の各地において現地調査を実施し、分析している。その結果は、中世の文献などに見られる地名は現在の小字や通称地名の約60%にも及ぶことが判明することから、地名は有効な史料となることを指摘し、地名を使っての様々な分析を試みている。

 地名の史料学として、初めての本格的な研究であり、その意義は高く評価されよう。またそこで発掘された地名は今後の重要な史料であって、本論文は大部の地名の史料集の性格も有する。

 第三部の「荘園景観の遡及的復原法」は、具体的に個々の荘園を取り上げて、現地調査を通じて中世に溯って復原してゆくのにはどうしたらよいのかを考察したもので、6章からなる。取り上げられた荘園は播磨国福井庄・肥後国八代庄、備後国地毘庄、安芸国三入庄・伯耆国国延保・豊前国金田庄・肥前国長島庄などであり、これまでの文献のみから立てられた議論の多くを覆すとともに、新たな荘園の景観を描くのに成功している。

 第四部の「中世城館の研究視角」は2章からなり、中世城館の特質と機能を概括的に指摘して、近世城館との違いを明らかにし、さらに城館の間を結ぶ「のろし」の歴史地理学的な分析を施している。ここでも交通や情報の在り方を探るのに、地名の分析がいかに有効であるかが明らかにされている。

 以上にその概略を述べたように、本論文は現地調査による膨大な地名史料の収集と、それに基づく土地の性格の分析、文献や絵図などの史料の批判的検討を通じて達成されたものである。これによって現地調査に基づく荘園景観を探る方法が確立されたばかりか、地名学の在り方にも大きな成果を残すことになった。質・量ともに、本論文は今後の荘園史研究のみならず、広く古代史や中世史、また近世農村史に大きな影響力を与えることになろう。

 ただ問題もなくはない。地名自体がいつ生まれたものかと明確にはできないものだけに、歴史的な変遷を跡づける作業においてやや不明な部分を残し、また地名の収集には聞き取り調査が重要な位置を占めるが、それだけにその信憑性の点で不安な部分が残されている。

 しかしこうした問題は今後の課題としてさらに追求されて、精度が高められてゆくべき性格のものであり、荘園史研究や地名研究に大きな寄与をなしたことから、本論文は博士(文学)論文として認められるものであろう。

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