過敏性腸症候群はストレスにより誘発され、腹痛を伴う排便異常を主症状とする消化管の機能的疾患である。治療薬として抗不安薬、抗うつ薬あるいは抗コリン薬などが使用されているが、有効性や副作用の面で満足しうる薬物は存在しない。本研究は、過敏性腸症候群の病態を探り、より有効な薬物の創製を目指すことを目的としている。申請者は、生体内に広く分布するモノアミンであるセロトニンの受容体サブタイブの1つである5-HT3受容体が、消化管機能において重要な役割を演じていると考え、新規5-HT3受容体拮抗薬を創製し、過敏性腸症候群の病態モデルを考案することにより、その病態への5-HT3受容体の関与を明らかにし、5-HT3受容体拮抗薬が有用な過敏性腸症候群治療薬となりうる可能性を持つことを示した。 本研究ではまず、新規5-HT3受容体拮抗薬の創製を目指す中で見出したYM060およびYM114(KAE-393)(図1)の5-HT3受容体拮抗薬としての特性を確認する目的で、電気生理学的手法および受容体結合実験系を用いて5-HT3受容体に対する親和性及び受容体選択性について検討した。その結果、これらの薬物は中枢神経および末梢神経上の5-HT3受容体に対し高い親和性を示し、また他の受容体には低い親和性しか示さない強力かつ選択的な5-HT3受容体拮抗薬であることが示された。 図1.YM060およびYM114の化学構造 次に、過敏性腸症候群における5-HT3受容体の病態への関与を探る目的で、過敏性腸症候群で見られるストレスによる排便異常のうち、特に下痢型のモデルを作製し、これに対する5-HT3受容体拮抗薬、YM060、YM114(KAE-393)、グラニセトロンおよびオンダンセトロンの作用を比較検討した。ラットを摂食下および絶食下でストレスケージにより拘束することによって、それぞれ便排出量の増加および下痢が惹起された。また、セロトニンおよび選択的5-HT3受容体作動薬である2-メチルセロトニンの皮下投与、更に中枢性に迷走神経を興奮させるthyrotropin-releasing hormone(TRH)によっても便排出量の増加が認められた。5-HT3受容体拮抗薬であるYM060、YM114、グラニセトロンおよびオンダンセトロンは上記便排出の亢進および下痢を用量依存的に抑制した。また、抗不安薬であるジアゼパム、5-HT1および5-HT2受容体を遮断するメチセルジドは拘束ストレスによる排便異常を抑制したが、セロトニンおよびTRHによる便排出量の増加は抑制しなかった。更に、過敏性腸症候群治療薬として用いられているトリメブチンは絶食下での拘束ストレスによる下痢を有意に抑制したが、摂食下での拘束ストレス、セロトニンおよびTRHによる便排出量の増加を部分的にしか抑制しなかった。以上のように申請者は、上記排便異常モデルにおいてセロトニンおよび5-HT3受容体が関与することを初めて明らかにすると共に、ストレスによる排便異常のメカニズムについて詳細に考察した。また、YM060およびYM114はグラニセトロンおよびオンダンセトロンと比較し、数倍から数百倍強力な排便異常の抑制作用を示し、治療薬としてより優れていることを示唆した。 更に、排便に関与が大きい腸管部位である遠位結腸の筋層間神経叢における5-HT3受容体の存在を細胞内電位記録法を用いて薬理学的に証明することを試みた。モルモット遠位結腸の筋層間神経叢神経細胞の膜電位変化を細胞内電位記録法により測定した。微小圧注出法により投与した5-HTは、速い脱分極反応と緩徐な脱分極反応の2相性の反応を惹起した。YM060、グラニセトロンおよびオンダンセトロンは濃度依存的に速い脱分極反応を抑制し、その効力順位は上記排便異常モデルにおける作用と一致していた。またこれらの薬物は、緩徐な脱分極反応には影響を与えなかった。メチセルジドおよび選択的5-HT4受容体拮抗薬であるGR-113808は速い脱分極反応に影響を及ぼさなかった。このように申請者は遠位結腸筋層間神経叢の神経細胞上に5-HT3受容体が存在することを証明した。 以上、本研究は、過敏性腸症候群の病態に5-HT3受容体が関与することを病態モデルを作製することにより明らかにし、選択的な5-HT3受容体拮抗薬がストレスによる排便異常を既存の薬物と比較して、強力に抑制することを示し、より有用性の高い過敏性腸症候群の治療薬になりうることを初めて示唆した。更に、既存の5-HT3受容体拮抗薬と比較し、その効力が非常に高いYM060およびYM114を発見したことにおいて、病態生埋学や薬理学の進歩に貢献していると評価し、博士(薬学)の学位を授与するに値するものと認めた。 |