近年の薄膜作製技術の発達に伴って、原子単位での結晶の成長制御が可能となり、その結果、自然界に存在しない新物質を人工的に創り出す研究が現在盛んに行われている。異なる種類の物質を数原子層ずつ交互に積層した人工格子はその代表的な例である。積層構造を付加することで、(1)超周期(長周期、短周期あるいは単原子層)効果、(2)界面効果、(3)閉じ込め効果、(4)空間分離効果などの効果が期待され、これらの効果を複合的に利用することで新規な物性、機能性を有する材料の創造が可能である。特に、強磁性体と非磁性体とを周期的に積層した磁性人工格子では、垂直磁気異方性、巨大磁気抵抗効果など非常に興味深い物理現象が発見され、「人工格子による材料開発」において、現在最も注目を集めている研究分野である。 本研究では、磁性金属人工格子を記録媒体、および、磁気センサあるいは磁気メモリ素子などの機能素子への応用を目的として研究を行った。最初に、高品質の金属人工格子の作製手法に関する検討を行い、実際に作製した人工格子の積層構造をX線回折法により評価を行った。その後、磁性人工格子の新しい応用分野として、垂直記録方式を用いた熱磁気プリンタの記録媒体への応用に関する検討を行い、磁性トナーによる明瞭な印字パターンの観測に成功した。また、磁性人工格子の巨大磁気抵抗効果を利用することで、磁気カードの読み取りセンサ、および、不揮発性の磁気メモリ素子の開発にも成功した。 人工格子が原子レベルで構造を制御することで作製された物質である以上、如何にして人工格子構造を実現するかは重要な検討課題である。本研究では、人工格子の作製は、スパッタリング法により行った。スパッタリング法は、原子単位での結晶成長が比較的簡単に、短時間で、しかも、広い範囲で可能であることから、人工格子を記録媒体、あるいは、機能素子などへの応用を目指す場合、特に有効な作製手法であると考えられる。スパッタリング法において、作製手法および作製条件に関する検討を行った結果、多元高周波マグネトロンスパッタリング装置においてシャッター開閉時間制御方式を用いることで、高品質の金属人工格子が作製可能となった。 また、人工格子の作製とともに、人工格子が実際に如何なる構造を有するかを知ることは、物理的特性の判断基準を得ると同時に、高性能化への指針ともなり、製品への応用を目指した材料開発においても有効な手法ともなる。本研究では、膜面垂直方向に周期構造を有する人工格子の構造評価に対して、特に有効な手法であるX線回折法により構造解析を行った。X線回折法による構造解析では、モデル計算による回折プロファイルのシュミレーションが重要であり、本研究では、拡張3ステップモデルという新しい計算モデルの提案を行った。本計算モデルでは、積層周期長の不均一性と積層界面での相互拡散を同時に評価することが可能であり、特に、積層界面に形成される合金層に対しては、原子面間隔のゆらぎを取り入れている。したがって、本計算モデルでは、人工格子を構成する材料が固溶系であるか、あるいは、非固溶系であるかといった状態図の違いに関わらず、人工格子の界面状態を評価することが可能である。それとともに、本計算モデルにおける合金層の厚さは、単に界面での原子の拡散の範囲を示すのみでなく、格子欠陥あるいは格子ひずみなどを含めた積層界面での全体的な構造の乱れの程度を表す代表値として捉えることが可能である。 本計算手法により、Co/Pd人工格子、および、Co/Au人工格子の構造評価を行い、ともに積層周期長の乱れは約0.5原子層程度であり、非常に高い周期性が実現されていることが分った。一方、積層界面に形成される合金層の厚さは、Co/Pdでは約3.5原子層であるのに対して、Co/Auでは約2.0原子層であった。この界面合金層の厚さの違いは、CoとPdとが全率固溶系であるのに対して、CoとAuとは非固溶系であることから、2つの人工格子の状態系の違いを反映した結果であることを明らかにした。Co/Pd,Co/Au人工格子は、現在、次世代高密度光磁気ディスクの記録媒体として、研究・開発が行われているが、X線回折法による積層界面の詳細な評価は、本研究が最初の研究例である。 以上で示したように、製品への応用に対して有利なスパッタリング法において、高品質の金属人工格子が作製可能となり、また、その構造も把握できるようになったので、実際に各種製品への応用を目指して検討を行った。 最初に、人工格子の垂直磁気特性を利用することで、垂直記録方式を用いた熱磁気プリンタの記録媒体に関する研究を行った。熱磁気プリンタは、磁気プリンタの最大の特徴である高速でのマルチコピー機能を有するとともに、熱磁気記録の特徴である印刷プロセスの安定性、さらには、光照射による昇温を利用する場合には、非接触かつ高速での画像形成が可能である。また、垂直記録方式では、高画質に対しても有利であり、これまでにない新しいタイプの高性能のプリンタを実現することが可能である。ただし、この場合、磁性トナーを吸着するために大きな残留磁化、磁気潜像を安定に保つのに十分な保磁力、さらに、高速記録が可能な低いキュリー温度の3つの磁気特性を持つ垂直磁気記録媒体の開発が必要である。ただし、これらの磁気特性をすべて満足する磁気記録媒体が、これまでなかったことから、本方式での印字パターンの確認は行われていない。そこで、本研究では、上記の3条件を全て満足する垂直磁化膜の開発を目的として、磁性人工格子に関する検討を行った。 Co/Pd,Co/Pt,Co/Auといった、Co/貴金属人工格子では、大きな垂直磁気異方性が誘起することが見出されているが、これまでは、上記の特性をすべて満足することはできなかった。しかしながら、筆者は、Co/Pd,Co/Pt人工格子では、大気中での熱処理により、膜面垂直方向の保磁力の著しい増大、および、それに伴う残留磁化の増加を発見した。X線回折法、透過型電子顕微鏡、および、エネルギー分散型X線分光法などによる膜構造解析の結果、熱処理による保磁力増大の機構には、膜の特徴的は酸化過程が寄与していることを明らかにした。スパッタリング法により作製したCo/Pd人工格子では、膜内部には一様に柱状晶が形成されており、この膜を大気中で熱処理を行った場合、大気中の酸素が柱状晶の粒界部を通って膜内部に進入し、酸素との結合力の強いCoが粒界部に酸化物として偏析する。結果的に、積層構造を有し垂直磁気特性を担う柱状晶と、その回りをCo酸化物が取り囲んだ3次元的な膜構造が形成され、Co酸化物での磁壁のピンニング効果により保磁力が増加することを解明した。 大気中での熱処理を施したCo/Pd人工格子では、膜厚618nmで保磁力4.5kOe、残留磁化3.73kGと非常に大きな値を示し、また、キュリー温度は240℃と比較的低いことから、上記3条件を満足する熱磁気プリンタ用の垂直磁気記録媒体を開発に初めて成功した。実際に、垂直記録方式を用いた熱磁気プリンタの印字試験を行い、明瞭な印字パターンを観察することが出来た。垂直磁化膜を用いた熱磁気プリンタにおける印字パターンの観察は、本研究が最初の研究例である。また、本研究により、磁性金属人工格子の熱磁気プリンタ用記録媒体への応用という、新しい応用分野を提示することにも成功した。 磁性金属人工格子において、垂直磁気異方性の発現とともに、興味深い物理現象として巨大磁気抵抗効果があげられる。この現象は、非磁性層を介して隣り合う強磁性層の磁化が、反平行配列状態から、磁界の印加に伴って平行配列状態へと変化する過程で電気抵抗値が減少する現象である。このとき、抵抗変化率が数十%にも達することから、磁気センサ、あるいは、磁気ヘッドをはじめとした磁気デバイスの高性能化に役立つと期待されている。本研究では、高性能の磁気センサの開発を目的として、スピンバルブ効果を利用した巨大磁気抵抗材料に関する検討を行った。 その結果、磁気カードに形成された磁気ストライプ情報の読み取りが可能であることを確認した。磁気カードの読み取りセンサの高性能化により、装置信頼性の向上、高密度・大容量化、さらには、セキュリティ性の向上が期待され、本研究により、磁性人工格子が有効な材料であることを示すことができた。 また、巨大磁気抵抗材料による不揮発性磁気メモリ素子の開発に関する検討も行った。これは、ごく最近になり報告されたものであり、磁性人工格子の新しい応用分野としてあげられる。筆者も、再生磁界を必要としない磁気メモリ素子において、記録・再生に関する基本的な動作確認を行うとともに、実際にデバイスに利用する場合に有効な作動型のメモリ素子の提案を行った。さらに、高耐食性のNiO反強磁性層を用いたスピンバルブ膜により、高信頼性の磁気メモリ素子用材料の開発にも成功した。また、半導体あるいは強誘電体のメモリ素子との性能比較により、巨大磁気抵抗効果を利用した磁気メモリ素子により、将来、高性能のメモリ素子が実現可能であることも示すことができた。 |