[1]経済学は、アダム・スミス『国富論』によって確立した。本論文は、そのスミスの経済学が、近代自然法学の批判的継承の上に成立したものであり、スミスにおける『道徳感情論』、『法学講義』、『国富論』に示される倫理学、法学、経済学からなる社会科学体系の一環として成立したものであることを明らかにしたものである。ここで主として取り扱われるのは、「経済学の成立問題」と「アダム・スミス問題」とであり、本論文を通じて、分業論、価格・貨幣論、政策論が自然法学のうちで、独自の領域として分離され、立ちいった展開をみたものであること、およびそれらが、スミスにおいて社会科学体系のうちに定位され、『国富論』の主要な骨格として統合されてきたものであることが解明されている。 [2]構成は、「序文」と「あとがき」を除くと、三部10章および補論から成り、1994年、お茶の水書房より公刊されたものである。本文368ページ、索引9ページ、400字詰原稿用紙で949枚に相当する。それぞれの論旨を要約すれば次のごとくである。 はじめに、第一部「近代自然法学の発展と経済学の源流」においては、まず近代自然法学を二つの思想の流れに整理し、第1章では「自己保存の自然法学」、すなわち利己心を根本原理とし効用認識と合意から自然法と権利の成立を説明するいわば合理的利己主義の議論として、グロチウス、ホッブス、プーフェンドルフを、第2章では「理性と道徳感覚の自然法学」、すなわちホッブスやプーフェンドルフのいう権利起源論に関して、利己心を原理とするのでなく、理性や道徳感覚・利他心を道徳能力として対置して批判した反利己主義の議論として、ロック、ハチスンについて検討する。前者は、グロチウスの自然法学を批判的に継承したホッブスとプーフェンドルフによって確立された自己保存の自然法学について検討し、グロチウスによる権利と自然法の歴史的二分法とホッブスによる論理的二分法を総合したプーフェンドルフによって、基本的自然法、普遍的権利、所有権の三分法が確立されたことを説いている。後者は、ホッブスとプーフェンドルフを批判したロックとハチスンの反利己主義の自然法学について考察し、ヒュームとスミスの思想課題がこれら二つの自然法学の流れを総合することにあったことを明らかにしている。こうした自然法学の理論的な発展を整理したことをうけて、第3章では、グロチウスからハチスンにいたる近代自然法学の中の経済思想の展開について検討し、ホッブスによって自然法学における自然法論と政治論から経済論が分離されたこと、グロチウスにおいて分離していた価格論と貨幣論がプーフェンドルフによって価値論として総合されたこと、プーフェンドルフの生産費説および需給説とロックの労働価値論とがハチスンによって統合されたこと、貨幣起源論においてプーフェンドルフの合意貨幣論がロックの二元論を経てハチスンの自然的貨幣論へ発展したことが述べられる。 次に、第二部「アダム・スミスの自然法学」は、共感論、正義論に関してヒュームと比較しつつスミスの考え方を提示し、そのうえでスミスの自然法学の成立過程とその理論構造を解明している。まず、第4章「ヒュームとスミスの共感論」は、両者の共感論の詳細な比較に基づき、ヒュームの共感が効用を判断する能力であり、その功利主義を基礎づける基本原理であったのに対して、スミスの共感が効用認識から独立な、利他的感情に発し、是認としての共感に達する道徳能力であったことを明らかにしている。第5章「ヒュームの正義論」では、一方では、自然状態にある全人類が理性的合意によって社会状態に移行するという契約説的な論理と、他方では、文明社会の歴史的発展の論理とが、矛盾しかつ補正しあいながら共存する状況にあるが、このようにしてヒュームがホッブスとプーフェンドルフの自然法学を基本的な理論的枠組みとして継承しながら、スミスによって受け継がれていく様々な新しい理論をも含み持つという、二元的な理論構造を持つものであることが述べられている。第6章と第7章とは、「スミスの自然法学」の成立過程を「アンダソン・ノート」、『道徳感情論』、『法学講義』に関して検討したものである。前者では、「アンダソン・ノート」に示されたスミスの初期の法学講義において、所有権の歴史的発展を説明するために用いられた2つの「正義の原理」が、それぞれ『道徳感情論』の第1-3部と第5部へ発展して、契約説的論理とは異なる一般規則形成論を確立したり、歴史的認識の一般的方法を提示するにいたる、とされている。後者は、『道徳感情論』の歴史認識の方法を、『法学講義』正義論における権利論の説明に適用し、所有権の起源問題の解決に当たってはプーフェンドルフやヒュームの合意所有論を包摂することに成功したことを考察している。 第三部「経済学の成立過程」は、スミスにおいて経済学が独自の研究領域として成立するに至る過程を解明している。まず第8章では、『国富論』の母胎となった『法学講義』の行政論が、その正義論から分離されてくる根拠と過程を明らかにしている。そこではスミスがプーフェンドルフ以来の自然法と市民政府・市民法という二分法を放棄して公平な観察者の共感(正義感)による正義の原理と公共の認識に関わる便宜の原理とに二分する見地を開き、富裕の性質・原因・商業の影響を分析するものとして後者を目的とする行政論としての分業論・価格論・貨幣論が論ぜられるに至った過程を解明している。次に、第9章「スミス価値論の成立過程」においては、従来『法学講義』の独立生産者モデルから『国富論』の資本主義的生産モデルへの転換としてしか検討されてこなかったスミス経済学の基礎理論を、二つのモデルの併存状態から資本主義的生産モデルが基本的なものとして取り出されてくる過程として確定した上で、むしろスミスの労働価値・構成価格論という基礎理論の成立をスミスの価値・価格理論全体の理論構成の発展の中に位置づけなければならないことを説いていく。ここでのポイントは、価値尺度論が貨幣の機能の一つとしてだけではなくて、実質・名目価格論とこみに論ぜられるにいたっていること、しかもそれが重商主義批判を首尾一貫して遂行するという理論的要請に促されて展開されたものであることにある。 最後に第10章「スミスの道徳哲学体系と経済学」では、これまでの考察を総括しつつ、『道徳感情論』、『法学講義』、『国富論』に示されているスミスの道徳哲学体系の全体的な理論構造を明らかにしている。ただしここでスミスの道徳哲学体系の基本構成を再度問うという課題の重点は、第一部、第二部とは異なり、第8、9章を受けて、重商主義の批判と自由主義の擁護を、普遍妥当的な自然法が、実定法の歴史を貫いて次第に実現されてくるという、自然法的歴史認識に基づいて果たし、「アダム・スミス問題」に一つの解決を与えるということにあった。 以上が主要な論旨である。 [3]以上の内容を持った本論文に対する審査員の評価の主要な点は次の通りである。 まず、本論文のすぐれた点としては次のことがあげられる。 第一に、従来、経済学の成立は、重商主義経済学を批判した古典派経済学の確立として説かれてきた。それに対して、本論文は、経済学の源流を自然法学の展開に求めることによって、大きな飛躍を果たした。これは経済学史研究に思想史研究にもとづく新たな要素を加味するものである。自然法学における経済論の展開の抽出がきわめて独創的なものであるばかりでなく、経済学の源流を自然法学に求めることによって経済学の学としての枠組みを理解する上でも大きな貢献をしている。 第二に、近代自然法学の流れを、自己保存の自然法学と理性あるいは道徳感覚の自然法学との二つの流れとしてとらえたことは、経済学の成立に関して決定的な意義を帯びているヒュームとスミスの正確な理解の基礎を提供する。ヒュームとスミスの共感概念・正義概念の詳細な解明は、今後の思想的・学説史的研究にひとつの重要な基点を提供するものと評価することができる。 第三に、『法学講義』から『国富論』への展開を重商主義批判を首尾一貫させようとするスミスの理論的な試みと解することによって、この二つの段階におけるスミスの考え方の変化が正確に説明可能になるし、到達点である『国富論』を、それ自身として統一的に理解していく上でも、本論文は大きな成果をあげているものとみなしうる。 しかし、本論文においてもいくつかの不十分な点や疑問と思われる点が残っている。たとえば、 第一に、本論文で「経済学の成立」というとき、その「経済学」については、十分立ち入った規定が与えられずに終わっている。価格論・貨幣論などの諸要素が、自然法学の内部で論じられていた系譜を明らかにしたのみでは、経済学の成立は語れない。『国富論』における価値論が、重商主義批判を目的として確立されたといえるとしても、理論内容においてそれがどのような意味で経済学の成立をもたらしているのかは、さらに検討され明確にされるべきである。経済学の成立をみるためには、従来の通説であった重商主義、重農主義の学説にも対比的な考察をおよぼした上で、理論としての経済学の成立を考察するという視点が求められるところがあろう。 第二に、ヒュームとスミスが自然法学の二つの流れを総合するものとしてとらえられてはいるが、総合の内実が積極的に規定されているとはいえない。ヒュームの正義論を二元的論理構造をもつものというが、正義の自然的動機の必要性、理性的かつ自覚的過程による合意などの側面が、十分立証されているとはいえない。スミスの自然法学理解においても、共感理論が合意理論を包摂したということが、理論的に十分提示されているとはいえない。 第三に、スミスの経済学が、公共の効用を目的とする行政の法の理論として成立したという主張は、『法学講義』から『国富論』への経済学体系の展開を十分組み入れていないのではないか。『国富論』の第1、2編について、市場経済の自立的過程を理論的に解明する方向性が確立したと見ることによって、経済学の成立を説くスミス解釈に対して、それを批判し自説を展開する手順が十分示されているとはいえない。この点とも関連して、本論文は、『国富論』を重商主義批判を理論的に首尾一貫させようとする試みとみなして、その価値論を具体的に穀物奨励金批判として読みとろうとするのであるが、それについても、かりにその推論に理論的な混同や推論の誤りがあるというのであれば、穀物奨励金批判として一貫して読めるといえるのか、また、穀物奨励金批判として解釈したとしても、リカードによって指摘された価値理論における両義性問題は解消するといえるか、さらには、穀物奨励金批判にひきよせて実質・名目価格論を貨幣尺度論と読むとしても、『法学講義』における形態論的な価値尺度成立論についてはやはり『国富論』では後退したのではないか、といった理論問題は十分解決されずに残されている。 こうした問題点は残るにせよ、本論文は、上記の成果をつうじ、執筆者の自立した研究者としての資格と能力を十分に評価せしめるにたるものであり、審査員一同は、これを博士(経済学)の学位請求論文の合格基準に達しており、同学位授与に値するものと判定した。 |