学位論文要旨



No 212968
著者(漢字) 酒井,滋
著者(英字)
著者(カナ) サカイ,シゲル
標題(和) ラットの実験的肝転移モデルを用いたヒト型angiotensin II誘導昇圧化学療法の基礎的検討
標題(洋)
報告番号 212968
報告番号 乙12968
学位授与日 1996.07.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第12968号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 武藤,徹一郎
 東京大学 教授 町並,陸生
 東京大学 教授 藤田,敏郎
 東京大学 助教授 小西,敏郎
 東京大学 講師 中川,恵一
内容要旨 I.目的と背景

 消化器癌の再発転移は予後を規定する大きな因子であるが、これに対する化学療法の有効性は未だに満足できる水準には達していない.angiotensinII(以下、ATIIと略する)を用いた昇圧化学療法(induced hypertension chemotherapy、以下IHCと略する)は、腫瘍血管のATIIに対する収縮能の欠如を利用し、選択的に抗癌剤を腫瘍組織に集積させる独特の抗癌剤投与方法であり、腫瘍特異性のdrug delivery systemとして注目されている.すでに国内外でIHCの臨床成績が報告されているが、IHCの抗腫瘍効果に関する実験的検討は比較的は少なく、特に消化器癌の再発転移を想定したモデルを用いた研究は乏しい.著者はIHCの腫瘍指向性に着目し、再発転移巣に対するIHCの意義を検討する価値を認めて、以下の実験を行った.

II.実験1:angiotensinII誘導昇圧下の組織血流量と組織内抗癌剤濃度の検討.1.目的

 ラットを用いて肝転移を想定したモデルを作成し、ATIIによる昇圧時の組織血流量の変化と、同時に投与したadriamycin(以下、ADMと略する)の組織内濃度について検討し、平常血圧でADMを単独投与した群と比較した.

2.方法

 ラットの皮下で固形化した腹水肝癌AH100Bを、モデルとする15匹のラットの肝被膜下に約1mm角の腫瘍組織片として包埋移植した.移植後14日目のラットをネンブタール麻酔下(腹腔内投与、20mg/kg)に開腹して腫瘍の生着を確認した.このうち4匹では癌性腹水が貯留し、腹腔内全体に腫瘍が増殖していたため対象から除外し、残る11匹を実験に供した.IHC施行群(n=6)では左大腿動脈にカニュレーションし、観血的に平均動脈血圧をモニターした.尾静脈よりヒト型ATII(TY-10721)を微量輸液ポンプを用いて0.15〜0.30g/kg/minの速度で注入し、平均血圧が140〜150mmHgに到達した時点でADM1mg/kgを投与した.この状態で5分間昇圧を維持した後、犠死せしめた.腫瘍と非腫瘍部の肝で、昇圧の前後で組織血流量を電解式水素ガスクリアランス法で測定した.昇圧を行わずADMを投与する群(以下、non-IHC群、n=5)では同量のADMを尾静脈から単独で投与し、5分後に犠死せしめた.犠死後に両群から腫瘍、心、腎の各組織を採取し、組織内ADM濃度を高速液体クロマトグラフィー法で測定した.

3.結果

 IHC群では、ATII投与により平均130±31.6秒で平均動脈血圧を昇圧前の96.7±8.7mmHgから150.0±7.1mmHgまで上昇させた.これにより生着した肝の腫瘍組織血流量は、昇圧前56.2±16.6ml/min/100gから昇圧中88.7±35.3ml/min/100gへと、約160%増加した(p<0.05).非腫瘍部の肝組織血流量には、昇圧の前と昇圧中には差は見られなかった.腫瘍と肝の組織血流量の比較では、昇圧前には差は見られなかったが、昇圧中では腫瘍の組織血流量が肝組織血流量より高値となる傾向が見られた(p=0.0547).腫瘍組織におけるADM濃度を、IHC群とnon-IHC群で比較すると、IHC群では2030±680ng/gとnon-IHC群550±680ng/gの約4倍の高値を示した(p<0.01).同時に測定した心、腎の組織内ADM濃度ではIHC群とnon-IHC群に差は見られなかった.IHC群とnon-IHC群のADM投与時点での組織血流量と組織内ADM濃度の関係をみると、両者には正の相関が示された(r=0.846、p<0.01).以上より、IHCによる腫瘍組織への選択的な抗癌剤の集積性が確認され、またこのような現象がIHCによる組織血流量の増加によるものである可能性が考えられた.

III.実験2:担癌モデルに対する昇圧化学療法の抗腫瘍効果に関する検討.1.目的

 IHCによる選択的な抗癌剤の集積効果が、抗腫瘍効果にどの程度寄与をするかを評価するために、IHC施行群とADM単独投与群、抗癌剤非投与群を作成し、IHC群の腫瘍増殖の抑制効果を比較検討した.

2.方法

 実験1と同様の方法で23匹のラットに肝転移モデルを作成し、腫瘍移植後9日目に試験開腹し、腫瘍の生着を観察した.このうち肉眼的に明らかに腫瘍が生着した19匹(生着率82.6%)を対象として最大腫瘍径を計測し、IHC群(n=6、ADM1mg/kg)、non-IHC群(n=7,ADM1mg/kg)、抗癌剤非投与のcontrol群(n=6)を作成した.IHC群のATII投与速度は、確実に昇圧が期待できる0.30g/kg/minとし、昇圧維持時間は5分間とした.全例とも群作成後18日目に犠死せしめ、剖検を行った.

3.結果

 剖検時の開腹所見では、control群では肝内転移4匹(66.7%)、腹膜播種2匹(33.3%)、肺転移1匹(16.7%)が認められ、non-IHC群では肝内転移4匹(57.1%)、腹膜播種1匹(14.3%)が認められた.一方、IHC群では肝内転移2匹(33.3%)が認められたが、腹膜播種や遠隔転移は見られなかった.腫瘍最大径を試験開腹時と剖検時で比較すると、IHC群の1匹では腫瘍径の増大がほぼ抑制されたが、他の群を含めて腫瘍の縮小あるいは消失例は認められなかった.3群間で比較すると、IHC群では平均腫瘍最大径では、他の2群により有意に低値を示し、また腫瘍重量では、control群に対して有意に低値を示した(p<0.05).大腸癌取り扱い規約に準じた病理組織学的な効果判定では、IHC群ではgrade1a)が4例(66.7%)、1b)が2例(33.3%)であり、non-IHC群ではgrade1a)が5例(71.4%)、1b)が2例(28.4)であった.control群についても同様の基準でみると、grade0に相当するのが1例(16.7%)、1a)に相当するのが5例(83.5%)であった.IHC群と、non-IHC群ではcontrol群に見られなかったgrade1b)に相当する所見がそれぞれ2例ずつ見られたが、3群間に統計学的な有意差はなかった.

IV.考察

 angiotensinIIは、臓器に分布する終末細動脈を収縮するとされ、担癌臓器にあってはこの終末細動脈レベルで最終的に正常組織と腫瘍組織への血流が分岐するといわれている.一方、腫瘍内の新生血管には、正常血管に見られるangiotensinIIreceptorが減少しており、腫瘍組織ではangiotensinIIによる血管収縮が減弱するとされている.このため担癌臓器にangiotensinIIが投与されると、正常組織を環流する終末細動脈の抵抗は増加する一方で、相対的に末梢抵抗が低下した腫瘍組織に選択的に血流量が増加すると考えられている.このような担癌臓器におけるangiotensinIIの反応の特異性を応用し、腫瘍組織に高濃度の抗癌剤を集積させる意図で昇圧誘導化学療法が考案された.今回の実験では、このようなIHCの理論が消化器癌の肝転移再発を想定したモデルでも通用し、実際に抗腫瘍効果と副作用の軽減という面で寄与するか否かを検討した.その結果、今回作成したモデルにおいても、IHCにより選択的に腫瘍組織血流量は増加し、ADM単独投与群に比較するとIHC群では腫瘍内抗癌剤の強い集積が認められた.ADMの主要な副作用の標的臓器である心臓、および排泄臓器の腎臓では2群間で組織内ADM濃度の差は認められなかったが、IHCでは同等の腫瘍内ADM濃度を得るためには通常の投与方法と比較してADM投与量を少なくすることができ、これらの臓器の副作用を軽減することが可能と考えられた.腫瘍抑制効果に関してはIHC群では、剖検時の平均腫瘍径からみると他の2群に対して、また平均腫瘍重量から見ると、control群に対して有意に低値を示し、その有用性が示唆された.一方、IHCを1回施行した今回の実験結果では、6例中の1匹で最大腫瘍径の増加を抑制できたが、期待された腫瘍の縮小あるいは消失例は認められず、IHCの有用性を臨床的に反映させるためには、IHCの実施回数やその間隔など、施行スケジュールに更に工夫が必要と考えられた.

V.まとめ

 腹水肝癌AH100Bをラットの肝臓に包埋移植したモデルを用いて実験を行い、以下の結論を得た.

 1.IHC群では、ATIIを持続微量注入し平均動脈血圧を上昇させることにより、腫瘍組織血流量は約160%増加した.非腫瘍部では昇圧の前後で肝組織血流量に有意な差は認められなかった.

 2.ADM投与後5分間昇圧を維持したIHC群では、ADMを単独投与したnon-IHC群に比較し、腫瘍組織内ADM濃度は約4倍の高値を示し、IHCによる抗癌剤の腫瘍集積性が確認された.

 3.IHC群、non-IHC群、control群を作成した9日目の剖検所見では、IHC群は腫瘍径から見ると他の2群に対して、また腫瘍重量から見るとcontrol群に対して有意に低値を示し、IHCの有用性が示唆された.

 4.IHC群では、IHC施行時点と剖検時の腫瘍径を比較すると1例に腫瘍径の増大を抑制し得たが、腫瘍が縮小あるいは消失した例は認められず、IHCを臨床応用するためには更に工夫が必要と考えられた.

審査要旨

 本研究では、癌化学療法における新しい抗癌剤投与方法である、angiotensinII(以下、ATII)を用いた昇圧化学療法(induced hypertension chemotherapy、以下IHC)の意義と有用性について実験的に検討され、以下の結論を得た.

 1.IHC群では、ATIIを持続微量注入し平均動脈血圧を上昇させることにより、肝に移植された腫瘍の組織血流量は選択的に増加した.

 2.昇圧とともに投与されたadriamycin(以下、ADM)の腫瘍組織内濃度は、ADM単独投与と比較して約4倍の高値を示し、IHCによる抗癌剤の腫瘍集積性が確認された.

 3.IHC群の剖検所見では、腫瘍径はADM単独投与群、非治療群に比較して、有意に低値であり、また腫瘍重量は非治療群に比較して有意に低値を示し、IHCの有用性が示唆された.

 従来のIHCに関する研究では、組織血流量と組織内抗癌剤濃度がそれぞれ独立した実験系で検討されているが、本研究で初めてこの両者を同一個体で測定し、IHCの持つ臨床的意義を実験的に証明した.また本研究で肝転移を想定したモデルにおけるIHCの有用性が示されたことにより、IHCが将来的に有力なdrug delivery systemとなりうる可能性が示された.以上より、本研究は腫瘍治療学の進展に寄与するものであり、学位の授与に値するものと考えられる.

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