学位論文要旨



No 212972
著者(漢字) 黒川,由紀子
著者(英字)
著者(カナ) クロカワ,ユキコ
標題(和) 痴呆性疾患を有する患者に対する心理療法としての回想法の有効性
標題(洋)
報告番号 212972
報告番号 乙12972
学位授与日 1996.07.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 第12972号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 栗田,廣
 東京大学 教授 小島,通代
 東京大学 教授 金川,克子
 東京大学 助教授 村嶋,幸代
 東京大学 助教授 久保木,富房
内容要旨 【緒言】

 痴呆老人の増加に伴い、その生活の質を向上させるための方法論を確立することが、高齢者の保健、医療、福祉に関わる専門家の課題となっている。痴呆老人の生活の質を高めていくためには、身体的ケア技術の開発、向上と同時に、心理的ケア技術の開発、向上が望まれている。これまで、痴呆老人に対する身体的ケア技術については多くのことが論じられてきたが、心理的ケア技術の重要性に対する認識は高いとはいえず、心理的ケアを技術として論じ、その方法を科学的に発展させようとする動きは、緒についたばかりの段階である。

 回想法(Reminiscence,Life Review)は、高齢者に対する心理療法として、Butler,R.によって開発された方法であり、高齢者の過去の回想に焦点をあて、高齢者の情動の安定をはかろうとするものである。従来、高齢者の回想は、高齢者が過去に執着する否定的サインとみなされる傾向があったが、Butlerは、精神科医としての臨床経験をもとに、高齢者の回想をとらえなおし、その肯定的な機能に注目して、高齢者は、過去の回想を通じ、それまで生きてきた人生を整理し、その意味を模索し、アイデンティティーの確認を行うと考えた。Butlerの提唱以来、回想法は、ヨーロッパ、アメリカ、カナダなどを中心に広く普及し、精神科医、臨床心理士、ソーシャルワーカー、看護婦、作業療法士をはじめ、多くの職種による実践や研究が行われている。方法としては、1対1で行う個人回想法と、通常6人から8人の集団で行うグループ回想法があり、両者を併用して施行する場合もある。

 回想法は、本来、痴呆性疾患を対象に開発された方法ではないが、導入方法を工夫することによって、痴呆性疾患にも応用可能である。これまで、痴呆性疾患に対し、回想法を応用した報告は極めて限られており、対象の例数が限られているか、グループの枠組みが統制されていない点に課題を残している。

 本研究は、上記の条件を整えて、痴呆性疾患を有する患者に対する心理療法としての回想法グループの有効性を検討しようとするものである。

【対象及び方法】

 対象は、老人病院入院中の、痴呆性疾患を有する高齢者40例(男性11例、女性29例 平均年齢、81、5歳)で、いずれも痴呆の診断を受け(アルツハイマー型老年痴呆、以下SDAT10例、血管性痴呆、以下VD26例、不明4例)、グループの参加に支障をきたすような他の精神疾患や身体疾患を有さない者である。痴呆性疾患を対象にグループを施行する際の上限は8人程度との指摘があるので、対象40例を8人ずつ5つのグループに分けた。1グループ8人の痴呆老人に対し各セッション4人ずつのスタッフが参加した。スタッフは、臨床心理士(筆者)、作業療法士、レクリエーションワーカー、看護婦、看護助手など多職種によるチームにより構成された。中心的な役割を果たすスタッフはすべてのグループで統一した。5つのグループに対し、同一の枠組みのもとに回想法グループを施行した。各々のグループに対し、1週間に1回、1回1時間のセッションを計6回から8回行った。グループを行うにあたっては、言語的コミュニケーションと同時に非言語的コミュニケーションを重視し、特に重度の痴呆老人に対しては、具体的な刺激物を用いて五感を刺激し、手続き記憶にはたらきかけつつ回想に導入した。

 患者の痴呆のレベルを把握するために、グループ前に改訂長谷川式簡易知能評価スケール(HDS-R)を施行した。一部の対象(N=24)については、グループ前後にHDS-Rを施行し、回想法グループが知的機能に与える影響を検討した。回想法グループが参加者の病棟生活に与える影響については、グループ前後に、高齢者用に開発された多次元観察評価スケールであるMOSESスケール(Multidimentional Observation Scale for Elderly Subjects)を用いて評価した。さらに、セッション終了後に9項目の観察評価スケールを用いて、患者のグループ内における参加ぶりを評価した。HDS-Rは病棟の作業療法士、MOSESスケールは回想法グループに参加していない病棟婦長、観察評価スケールはセッションに参加した職員が施行した。40例全体の回想法グループ前後の評価の比較と並行して、痴呆の重症度別、診断別評価の検討を行った。統計的検定は、サインランク検定によった。また、回想法がスタッフに与えた影響を検討するために、スタッフに対するアンケートおよび面接を行った。

【結果及び結論】

 回想法施行前のHDS-Rの全体(N=40)としての結果は、平均が12.9点(0点〜25点)と、参加者の痴呆の程度は軽度から重度まで含まれていた。40例のうち24例に対し回想法グループ前後にHDS-Rを施行した結果、有意な変化を認めなかった。痴呆の重症度別にHDS-Rの結果を検討したところ、軽症群、重症群、共に有意な変化を認めなかった。痴呆の診断別にHDS-Rの結果を検討したところ、SDAT群では有意な変化を認めず、VD群で改善の傾向を認めた。MOSESスケールの全体としての総得点の結果は、回想法グループ前後に有意な変化を認めなかったが、下位項目別に結果を検討した結果、「抑うつ感」に有意な改善を認めた。痴呆の重症度別には、軽症群で「抑うつ感」に有意な改善を認めたが、重症群では有意な変化を認めなかった。セッション中の患者の様子を評価する観察評価スケールの得点は、初回と比較して最終回には有意な改善を認めた。痴呆の診断別には、VD群のみ有意な改善を認め、SDAT群では、有意な変化を認めなかった。痴呆の重症度別には、重症群でより大幅な変化の傾向を認めた。

 回想法の心理療法としての有効性を個々の症例に即して検討するために、10症例とりあげ、考察を加えた。回想法グループが、痴呆老人の過去及び現在の喪失体験を癒す場としての機能を果たすなど、様々な副次的効果を有する可能性が示唆された。

 以上のことから、回想法グループは痴呆老人の「抑うつ感」の改善に有効な方法であることが明らかにされた。痴呆の比較的重い群よりも軽い群、SDAT群よりもVD群で情動の安定の効果があらわれやすいことが示された。VD群では情動への効果に加え、知的機能の改善の傾向を認め、これはVD群の潜在的残存機能がより高いためと推測された。病棟における行動の変化が観察されない重度の記憶障害を有する痴呆患者でも、回想法グループ内における表出、行動には正の変化が観察され、定期的に繰り返される集団心理療法的アプローチには治療的意味が大きいことが示された。こうした効果を維持させるために、日常的な関わりの中に回想法のような心理療法的アプローチが継続的に提供される必要性があることを指摘した。

 痴呆性疾患を有する患者に対する回想法の効果のメカニズムとして、「感覚刺激の導入」から、「手続き記憶」、「意味記憶」、「エピソード記憶」の想起、「情動の再体験」、「グループにおける共感、受容」、「今日の感情体験の醸成」に至る過程を仮説として示した。

 スタッフに対するアンケート、および面接の結果、回想法による副次的効果として、「独立した人格としての痴呆患者に対する個別的理解の促進」、「痴呆患者に対する日常的な看護、介護の質の向上」、「スタッフ同士の理解の促進」、「心理的なアプローチの重要性の認識」など、スタッフに対する肯定的な影響が確認された。

 本研究の限界及び問題点として、コントロール群を設けていない点、診断基準が必ずしも統一されていない点を今後の課題として指摘した。

審査要旨

 本研究は、高齢者の精神保健の維持や抑うつなどの治療に有効であるとされている回想法を、痴呆性疾患を有する患者に施行し、その有効性を検討しようとするものであり、下記の結果を得ている。

 1 回想法が痴呆性疾患を有する患者の知的機能に与える影響を検討するために、40例の対象のうち24例に対し、回想法グループ前後にHDS-R(改訂長谷川式簡易知能評価スケール)を施行した結果、全体としてはグループ前後に有意な変化を認めなかった。対象を痴呆の診断別に分けて検討すると、SDAT群(アルツハイマー型老年痴呆群)では有意な変化を認めなかったが、VD群(血管性痴呆群)では改善の傾向を認めた。VD群には、何らかの理由で発現を妨げられている潜在的な知的機能があり、回想法の心理的な作用が、その妨害要因をとりのぞくために、知的能力のスケールが改善するものと考えられた。

 2 回想法が痴呆性疾患を有する患者の、グループ外の行動や情動に与える影響を検討するために、高齢者用に開発された多次元評価尺度であるMOSESスケールを用いて病棟内での日常生活の様子を評価したところ、40例全体の総得点の結果は、グループ開始前と終了後に有意な変化を認めなかった。下位項目別に結果を検討すると、「セルフケア」、「見当識」、「いらいら感・怒り」、「引きこもり」については有意な変化を認めず、「抑うつ感」について有意な改善を認めた。痴呆の重症度別に対象を2群(重症群と軽症群)に分け、各々についてグループ前後の変化を検討すると、軽症群で有意な改善を認めた。回想法は、痴呆老人の、情動の安定に効果を有することが示された。

 3 回想法グループ内の痴呆性疾患患者の様子を評価する観察評価スケールの得点を40例全体について評価したところ、初回と比較して、最終回には有意な改善を認めた。痴呆の診断別にはSDAT群で有意な変化を認めず、VD群において有意な改善を認めた。痴呆の重症度別には、重症群でより顕著な改善が示された。重症群は、認知障害や行為能力障害が大きいために、病棟内での日常的治療的はたらきかけの方法が限定されており、充分なケアがなされず、そのことが重症群の残存能力の発現の妨害要因になっている。回想法グループによる心理療法的効果がこうした妨害要因を取り除く作用をもっていることが示された。

 4 今回の研究結果の分析をもとにして、痴呆性疾患を有する高齢者に対する回想法の効果のメカニズムとして、「感覚刺激による導入」から、「手続き記憶」、「意味記憶」、「エピソード記憶」の想起、「情動の再体験」、「グループにおける共感、受容」、「今日の感情体験の醸成」に至る過程を仮説として示した。

 以上、本論文は、痴呆性疾患を有する患者に対する心理療法としての回想法が、痴呆老人の「抑うつ感」の改善に有効な方法であること、それによっていくつかの副次的効果をあげ、痴呆性疾患を有する高齢者の治療法として有効なものであることを明らかにした。本研究は、従来ほとんど検討がなされなかった痴呆老人に対する心理療法の有効性、作用のメカニズムを解明する上で、重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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