十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて、ヨーロッパの文学・芸術に起った重大な変化を定義するに当たって、英語ならば、modern,modernity,modernismという語の系列が用いられるし、ドイツ語、フランス語においても同様である。フランス語では、modernismeの語はあまり用いられず、moderniteの語が比較的よく用いられてきたのは、詩人=批評家シャルル・ボードレールのテクスト「現代生活の画家」(1863年発表)において、十分な定義を与えられたためであると考えられる。 本論文は序章においてまず、ボードレールによるmoderniteの語の使用の独創性を、同時代の他の文学者、わけても同様に詩人、批評家であったテオフィール・ゴーティエとの比較を通じて、明らかにする。「現代生活の画家」すなわち挿絵画家コンスタンタン・ギースが都市生活の中に探しもとめる「何ものか」を定義するに当たって、当時まだ新造語(ネオロジスム)とみなされるこの語が適切な標語として選ばれたのであった。「美」とは「永遠、不変の要素」と「相対的、偶成的な要素」とから成るものであって、モデルニテを追求する芸術家は後者すなわち「時代、流行(モード)、道徳、情熱」を表象しなくてはならないという主張は、とりわけ「流行」の具体的な姿である同時代の衣服から独自の美を抽出するという目標において、写実主義(レアリスム)の理念を具体化する。他方、素人画家コンスタンタン・ギースの筆法を範例として推奨される大づかみな形態の把握は、世紀末芸術の大きな特徴となる「野蛮」(造形における総合性)への方向を明示する。 第一章と第二章では、「現代性」の理念を最もよく実現する作品と考えられる散文詩集『パリの憂鬱』の中から、三編(「マドモワゼル・ビストゥリ」、「貧民を撲り倒そう!」、「貧しい者たちの眼」)を特に取り上げて論ずる。「現代性」にかかわる美の定義において「道徳」も美の組成要素に属するものであるのに対応して、ここでは宗教的感情、社会思想、倫理的省察が同時代の現実の表象に組みこまれて、そこから発生する詩的感情の表現を強烈ならしめるのに貢献する。若き日の詩人は人間が生来そなえている詩への「欲求」を満足させるためには作品がintensite(強烈さ、強度:p.18,p.451)と呼ばれるに値する強い効果を生み出すのでなければならないと、明確に意識するに至った。 十九世紀の絵画、彫刻の領域に主流的な立場を保持する新古典主義の装飾的な美学が歴史主義的な記憶の中から神話や形態を自在に取り出して利用する安易さを拒否するところに、「現代性」を規定する倫理的=芸術的な厳格さが存する。この厳格さに対応する創造の方法は、既存の記号体系を消去した後に残る「暗闇」の上に、記憶の深層から喚起された影像を出現させることと意識されるのである。 第三章以降は、ほぼ年代順に、詩的欲求に目覚めた少年時代から、ロマン主義の洗礼、革命運動への参加、写実主義的方法の試行を経て、詩集『悪の華』の実現および散文詩の発足へと至る過程を検討する。それは、moderniteの語を用いる前からすでにmoderneな詩的欲求を充足させる詩や小説や絵画の特性が意識されてゆく過程をたどることでもある。 詩人にとって「病」を含めた「悪」は、外から与えられたものでありつつ、積極的に選択されることにより、道徳的かつ美的な「宿命」の二極構造の一極をなす。他の一極とは宿命的な回帰の目標すなわち「楽園」であり、これもまた他律的に設定された南洋旅行の記憶の中に表象の源泉を見出すことになる(第三章)。 詩への欲求を充足させる手段は抒情詩と限定されたわけではなく、叙事詩こそ早くから排除されはしたものの、世俗的な成功の思惑も手伝って、ロマン派的な小説と演劇の可能性はある程度追求されるが、満足すべき結果を生み出すに至らない(第四、五章)。 1840年代のボードレールにとって「レスボスの女たち」の主題は、肉体的な欲望と詩的な理想とを感覚的な表現に集約することを可能ならしめる貴重な出発点であり、引き続き一連のエロティックな詩において視覚を中心とする感覚の次元できわめて鮮やかな影像が実現されるが、この絶頂からの失墜は腐食を表象する陰惨な影像群を生み出すことにもなる(第六章)。ジョルジュ・ブランのいわゆる〈後期ロマン主義の過激性〉が正・負の両相において実現されるのであり、負の相においては写実主義に連なるこの過激性がボードレールを危険視させるゆえんのものだというブランの説は、本論文において援用、展開、立証の対象となる。 早くもいくばくかの詩的成就をもたらすよすがとなった美的生活および恋愛が現実においては自殺の企てへみちびくほどの挫折に直面した後、1848年には社会改造の企てでありつつ「破壊の陶酔」を伴う革命への参加を経た後、再び陥る昏迷の状態は「冥府」と名付けられるのでありながら、これは「レスボスの女たち」に続いて詩集の題に予定されたものである(第七、八章)。この心身的状態は言い換えれば「憂鬱」spleenであり、脱出への強い願望を詩的な強度実現の理念として表象するのが「真紅なるわが理想」(p.221)であって、数年後に実現される詩集『悪の華』第一章の題となる「憂鬱と理想」とは、心身の現状と脱出願望との関係を集約する表現に他ならない。 「冥府」滞留の時期はまたE.A.ポーの紹介と飜訳に力を尽くした時期でもあるが、ボードレールがポーから得たところのものを、「統一性」の観念の下に概括することができる(第九章)。すでにドラクロワの絵画が一望(一瞬)のうちに強い印象を与え終わっていることの指摘において、芸術作品の全体性、統合性の概念が成立していたが、ポーの作品と理論によって、この考えが文学にも及ぼされ、予め想定された効果を実現すべく合目的的に構築される機械としての抒情詩(もしくは短編小説)という仮説が、モデルニテの詩学の一つの相として認識される。ただし、芸術家もひたすらに理性的な主体ではなく、「ヒステリー」と命名されるような熱狂によって、「夢」に相同な作品を生みだす装置として機能することにより、宿命に忠実であり続けると想定される。「気質」によって規定される第一次的な自我の生み出した詩を構成して詩集を編む作業は、自我を客観視する意識的な自我の在り様として「皮肉」を伴い、「笑い」に関する省察と平行して遂行されるが、極度な困難の故に、ほとんど断念の数年間を経過する(第十章)。 韻文詩集の完成を待つまでもなく、散文詩の企てが必然性を帯びてくるのは、都市生活に題材を採る詩という新しいジャンルが新しい形式を要求したからでもあるが、芸術性を保証すると信じられてきた韻文が形骸化しつつあるという認識は、ボードレールが五〇年代前半に接近した「レアリスム」によって提出された理論的、実践的課題の一つでもあった(第十章)。 1857年に刊行された『悪の華』初版は主として非道徳性のかどで非難の対象となるが、裁判で罰金、削除を伴う有罪判決を受けたのは、復活の可能性なしとせぬ後期(「過激」な)ロマン主義、そして勢力を得つつあるレアリスムへの、見せしめ的懲罰であった(第十三章)。削除された六編を補って余りある三十五編を加えて1861年には『悪の華』第二版が刊行されるが、実は、1855年の万国博覧会美術展をめぐって行われた論争が出発点となって、詩法の面で明確な選択がなされるに至ったのだと考えられる(第十三章)。ドイツ派絵画を範例として推奨された「精神主義」の教理(先在する普遍的な観念を表象する「哲学的芸術」)の当否に関しての真剣な思索の結果、絵画は表現手段が物質的次元で与える快楽を排除すべきではないという確信の下に、「現代的な発想に従っての純粋芸術」とは、「同時に客体と主体とを……含むような、一個の暗示的魔術を創り出すことだ」という、詩にも適用の可能な一般的命題が成立したのである。 新しい詩法は、「象徴するもの/象徴されるもの」の区別を廃棄する方向に働いて強烈な効果を発揮するものであり、旅あるいは都市内での移動(ないし構築)という空間的主題に即して展開される一連の新しい詩群が、韻文抒情詩の一つの到達点を形づくる(第十四章)。 ただし美的な成就が十全の幸福を意味するものではないし、他方、芸術が「悪」(残虐、苦痛、病)に根ざすものであるという認識を踏まえて、ロマン主義的な「悪魔性」(p.411)を賞揚する選択も生れるのであり、洗練された文明人でありつつ「残虐」を現代芸術の一要素たらしめることに成功したドラクロワが、範例としての位置を確保することにもなる(第十五章)。 ボードレールは「現代性」の理想を追求する芸術のさまざまな可能性を探りながら、同時代人の多くが奉じた「進歩」の理念に対しては否定的であり、やがては「世界の終り」を仮定するに至る(第十六章)。「現代性」の成立する場としての文明は、終焉を待つ間の憩いの空間としての「公園」によって喚喩されることが明らかになるし、この場においては、古代芸術の代表的ジャンルである彫刻、重要な方法である寓喩との和解も可能になる。 歴史家J.フェラーリの提起する「同時代性」の概念は、合目的論的時間観を無用とすることにより、却ってボードレールの美学の普遍主義的性格を補強するのに役立つ。「現代性」の追求は、数多の迷妄からの解放の末に、詩的主体にとっての自由を意味する可能性の束を委ねるのである。 *** |