学位論文要旨



No 212980
著者(漢字) 神薗,真人
著者(英字)
著者(カナ) カミゾノ,マサト
標題(和) 周防灘南西部海域(豊前海)における貧酸素水塊形成機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 212980
報告番号 乙12980
学位授与日 1996.09.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第12980号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大和田,紘一
 東京大学 教授 二村,義八朗
 東京大学 教授 日野,明徳
 東京大学 助教授 中田,英昭
 東京大学 助教授 木暮,一啓
内容要旨

 近年,東京湾,三河湾,瀬戸内海といった閉鎖性の強い内湾域において,貧酸素水塊に関する報告が数多くなされており,その漁業に及ぼす影響が大きな問題となっている.貧酸素水塊は下層水の酸素濃度が低下することによって形成され,その酸素濃度は,水平あるいは上層からの移流拡散による酸素供給や微細藻類の光合成活動による酸素生産と下層での有機物の分解や底生動物等の呼吸による酸素消費の均衡によって決まると考えられる.

 多くの内湾における貧酸素水塊の実態や形成に関する報告書をみると,その機構や要因はそれぞれの水域に特徴があって複雑である.このような貧酸素水塊の形成機構を解明するにはそれぞれの海域現場での生物,化学,物理面からの調査・研究が必要である.本論文は,このような観点に立ち,貧酸素水塊がほぼ毎年形成される瀬戸内海の周防灘南西部海域(豊前海)を対象として野外調査と室内実験を実施し,本海域における貧酸素水塊の形成・維持機構やその要因を解明しようとしたものである.

1.調査海域(豊前海)の環境特性

 豊前海は,極めて緩やかな海底傾斜をもち,平均水深が15mの比較的浅い海域である.ここには17の河川が流入し,その河口周辺には干潟が形成されている.海水の流動は主に潮流によって支配されており,沿岸域では,実測流で20cm/s以下の流れが上層で全体の90%前後,下層で98%以上を占め,流れが弱く停滞域となっている.密度成層は6月から9月に発達する.空間的には沿岸域で形成が弱くて沖合で強く,時間的には7月に最も強くなる.豊前海の水質,底質を周防灘の他の海域のそれと比べると,水質ではCOD値やクロロフィル値が,また底質においてもCOD,強熱減量がともに高い値を示し,豊前海は有機物に富んだ海域と考えられる.

2.貧酸素水塊の形成機構

 1991年夏季の水温,塩分およびDOの観測結果を2層ボックスモデルを用いて解析し,移流・拡散といった物理過程と,底層における生化学的な酸素消費過程の時間的変化を見積もった.その結果,水深10m以浅の沿岸域底層では1週間以内という短時間で貧酸素化が進行すること,またその場の酸素消費速度の急激な増加が,貧酸素水塊の形成に寄与していることが分かった.この時,DOの供給は80%が鉛直拡散によって,また20%が水平移流によってなされていた.一方,水深10m以深の沖合底層での酸素収支は,生化学的な酸素消費と鉛直拡散による酸素供給とで均衡がとれており,水平移流はほとんど現象には関与していないことが分かった.

 1992年夏季に,沿岸域の底層水と底泥を採取して実験室において酸素消費速度を測定するとともに,ベルジャー法と明・暗瓶法を併用して現場での底泥と底層水による酸素消費速度を測定し,沿岸域における生化学的な酸素消費の変動とその要因について検討を行った.現場での酸素消費速度の測定結果から,躍層下での酸素収支を見積ると,酸素消費の80〜90%は底層水による消費であり,底泥による消費は小さかった.また,底層水の酸素消費速度は時間的に変動していて,それは底層水中に懸濁している有機物量と関係していることが明らかとなった.この時の懸濁有機物の大部分は底泥が再懸濁されたものと推察された.一方,現場における光量子数の測定結果から,好天の日には微細藻類が光合成を行うに十分な光強度が下層まで透過することも分かった.微細藻類の光合成作用により生産された酸素は,浅海域での貧酸素水塊の消長に影響を及ぼす場合があることも明らかになった.

3.酸素消費過程

 1995年7月から8月に6回のサンプリングを行い,底層水,沈降物および底泥による酸素消費速度とそこでの光合成による酸素生産速度を実験室で測定し,下層水中での酸素収支を調べた.下層水中における全酸素消費(平均で2.85gO2/m2/day)に占める各成分による消費の割合を平均値で比較すると,底層水による消費が72%と最も多く,堆積物26%,沈降物2%の順となった.酸素生産(平均で1.40gO2/m2/day)は,底層水による生産が98%を占め,沈降物による生産量は2%であった.以上のことから,当浅海域下層での酸素濃度の変動に対して,懸濁物を含む底層水による酸素消費あるいは生産が大きく関与していることが分かった.また,底泥は酸素消費には寄与するが,酸素生産にはほとんど寄与していないことが明らかになった.沈降物による酸素消費量や酸素生産量は底層水や底泥のそれに比べると著しく小さく,下層での酸素濃度の変動に及ぼす影響は極めて小さいと考えられる.以上のことから,豊前海における貧酸素化を考える場合,底層水中の懸濁態有機物の動向が最も重要であることが明らかになった.

 次に浮遊微生物群集による酸素消費量とそれらの下層水中での酸素消費に果たす役割を明らかにするため, 1994年と1995年の夏季に孔径が300mのネットおよび8mと1mのNucleporeフィルターで下層水をろ過後,室内で培養し,それぞれの画分の酸素消費速度と培養前後の細菌数とナノプランクトン数の変化を調べた.細菌の呼吸活性は4.1〜27.1×10-11mgO2/cell/dayの範囲で,この値から計算された細菌による酸素消費速度は0.094〜0.381mgO2/l/dayであった.これは下層水の酸素消費速度の40.4〜86.6%を占めており,平均すると細菌とその他のプランクトン類による酸素消費速度の比率は6対4となった.前述した懸濁物を含む底層水による酸素消費速度は,平均で2.05gO2/m2/dayであり,これを細菌とその他のプランクトンによる消費に分けるとそれぞれ1.23と0.82gO2/m2/dayになる.同時に測定した微細藻類の光合成作用による酸素生産速度は1.38gO2/m2/dayであり,これはその他のプランクトン類による酸素消費速度を上回っており,当浅海域の下層水の酸素消費は主に細菌の活動によってなされていると考えられた.

 夏季の豊前海で比較的出現量が多い,大型底生動物(シズクガイ,チヨノハナガイ,シロガネゴカイ科の1種 Nephtys oligobranchia)による酸素消費速度を実験室で測定し,現場での酸素消費速度を試算した.3種の大型底生動物の酸素消費速度は,水温が約10〜30℃の範囲では,水温が高くなるに従って増加した.またいずれの種も溶存酸素濃度が3mgO2/l以上(水温20℃)ではほぼ一定の酸素消費速度を示すが,それ以下では,著しく低下した.体重との関係では,個体が大きくなるに従って酸素消費速度は指数関数的に増加した.3種の底生動物の現場での現存量から試算した酸素消費速度は,1995年6月21日が3.21mgO2/m2/day,7月26日が14.21mgO2/m2/dayで,この値は前述の底層水,沈降物および底泥を含めた酸素消費速度(平均で2.85gO2/m2/day)のそれぞれ0.1と0.5%であることが分かった.このことから,当浅海域における貧酸素水塊の形成・維持に対して,大型底生動物群集による酸素消費はほとんど関与していないものと考えられた.

4.貧酸素水塊形成と気象要素の変動の関係

 貧酸素水塊の形成要因としての気象要素の変動に関して検討を行った.成層期に進行する下層での貧酸素化には経年変動がみられ,平均的には数年に一度の頻度で溶存酸素濃度が3mgO2/l以下の顕著な貧酸素水塊が形成される.1991年から1994年の夏季に行った観測の結果とその間の気象観測資料から,夏季における降水量の変動が当海域における貧酸素水塊形成に大きく関与することが分かった.すなわち,夏季における多量の降雨は,成層を発達させることにより貧酸素水塊形成のための物理的条件を強化する.また多量の栄養塩を陸から浅海域に供給し有機物量の増大をもたらすことにより,下層での酸素消費速度の増加という,生物・化学的条件をも強化することが分かった.これらの条件を満たす降水量の目安として,夏季(6〜8月)の積算降水量で600mm以上がしきい値となると推定された.

 以上,豊前海で形成される貧酸素水塊の形成機構に関して検討を行った.その結果,10m以浅の浅海域で,1週間以内という短い時間に貧酸素水塊が形成されること,貧酸素化の進行には,夏季の降水量が関与していて,夏季に平年を上回る降水量が記録された年に酸素濃度が3mgO2/l以下の顕著な貧酸素水塊が形成されること,および下層における酸素消費には水中に懸濁している有機物の濃度が大きく関与していることが明らかになった.一方,下層でも微細藻類が光合成を行うに十分な光強度が得られ,微細藻類の光合成作用により生産される酸素は,貧酸素水塊の消長に影響を及ぼすことも明らかになった.

審査要旨

 近年、東京湾、三河湾、瀬戸内海といった閉鎖性の強い内湾域において貧酸素水塊の形成される事例が多く、その漁業に及ばす影響が大きな問題となっている。しかし、多くの内湾における貧酸素水塊の形成機構や要因はそれぞれの水域に特徴があって複雑である。本論文は貧酸素水塊がほぼ毎年形成される瀬戸内海の周防灘南西部海域(豊前海)を対象として野外調査と室内実験を併用して貧酸素水塊の形成・維持機構やその要因を明らかにした成果を述べたものである。

 豊前海は平均水深が15mの比較的浅い海域で、17の河川が流入、その河口周辺には干潟が形成されている。海水の流動は主に潮流に支配されていて、実測流で20cm/s以下の流れが卓越している。密度成層は6月から9月に発達する。

 水温、塩分および溶存酸素の観測結果を2層ボックスモデルを用いて解析した結果、水深10m以浅の沿岸底層では1週間以内という短時間で貧酸素化が進行すること、またそこでの酸素消費速度の急激な増加が、貧酸素水塊の形成に寄与していることが分かった。次ぎに底層水と底泥の酸素消費速度を実験室と現場において測定し、酸素消費の80〜90%は底層水による消費で底泥による消費は小さいこと、また底層水中に懸濁している有機物量と関係していることが明らかになった。底層域での全酸素消費(平均で2.85gO2/m2/day)の中では底層水による消費が72%と最も多く、堆積物26%、沈降物2%の順となっていた。酸素生産(平均で1.40gO2/m2/day)は、底層水による生産が98%を占め、沈降物よる生産量は2%であった。以上のことから、豊前海における貧酸素化を考える場合、底層水中の懸濁態有機物の動向が最も重要であることが明らかになった。

 孔径が300mのネットおよび8mと1mのNucleporeフィルターで底層水をろ過後、室内で培養し、それぞれの画分の酸素消費速度と培養前後の細菌数、ナノプランクトン数の変化を調べたところ、細菌の呼吸活性は4.1〜27.1×10-11mgO2/cell/day、即ち0.094〜0.381mgO2/l/dayで底層水の酸素消費速度の40.4〜86.6%を占めていた。細菌とその他のプランクトン類による比率は6対4であった。前述した懸濁物を含む底層水による酸素消費速度は、平均で2.05gO2/m2/dayで、これを細菌とその他のプランクトンによる消費に分けるとそれぞれ1.23と0.82gO2/m2/dayになる。夏季の豊前海で比較的出現量が多い、大型底生動物(シズクガイ、チヨノハナガイ、シロガネゴカイ)による酸素消費速度は、1995年6月21日が3.21gO2/m2/day、7月26日が14.21gO2/m2/dayで、この値は前述の底層水、沈降物および底泥を含めた酸素消費速度(平均で2.85gO2/m2/day)のそれぞれ0.1と0.5%であることが分かった。このことから、当浅海域における貧酸素水塊の形成・維持に対して、大型底生動物群集による酸素消費はほとんど関与せず、主に底層水中の細菌によるものと考えられる。

 成層期に進行する底層での貧酸素化には経年変動がみられ、平均的には数年に一度の頻度で溶存酸素濃度が3mgO2/l以下の顕著な貧酸素水塊が形成される。夏季の多量の降雨は、成層を発達させることにより貧酸素水塊形成のための物理的条件を強化し、また多量の栄養塩を陸から浅海域に供給して有機物量の増大をもたらすことにより、下層での酸素消費速度の増加をもたらす。これらの条件を満たす降水量の目安として、夏季(6〜8月)の積算降水量で600mm以上がしきい値となると推定された。

 以上本論文では、豊前海で形成される貧酸素水塊の形成機構に関して検討を行った結果、10m以浅の浅海域で、1週間以内という短い時間に貧酸素水塊が形成されること、貧酸素化の進行には夏季の降水量が関与していて、夏季に平年を上回る降水量が記録された年に酸素濃度が3mgO2/l以下の顕著な貧酸素水塊が形成されること、および下層における酸素消費には水中に懸濁している有機物の濃度が大きく関与していることが明らかになった。これらの結果は、学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位を授与する価値があると認めた。

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