学位論文要旨



No 212984
著者(漢字) 磯田,雄二郎
著者(英字)
著者(カナ) イソダ,ユウジロウ
標題(和) 多重人格の成因について : 役割理論に拠る一試論
標題(洋)
報告番号 212984
報告番号 乙12984
学位授与日 1996.09.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第12984号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松下,正明
 東京大学 教授 栗田,廣
 東京大学 助教授 関根,義夫
 東京大学 助教授 中安,信夫
 東京大学 講師 関,直彦
内容要旨 I.序論1)この論文の目的

 この論文の目的は最近米国において注目を浴びてきた疾患である多重人格障害(MPD)の成因について考察を加えることにある。MPDは精神医学の歴史の初期から問題にされていたが、それについて明らかに、この疾患の最初の報告例とされているのは、Mary Raynoldsの症例であり、その後は催眠現象や宗教的な興味から、むしろ非常に希な疾患として扱われてきた。ところが1980年代に入ってから、アメリカにおいてはこの症例数が非常に増加してきて、報告者によっては全精神病院入院患者の5%にこの疾患が認められるとまで主張されてきている。実際Medlineを用いて検索を行うとMPDの論文は1982年を境に飛躍的に増加している。これに対してわが国においてはこの疾患の報告は現在までに7例にしか過ぎない。しかしながら現在までのわが国の趨勢を見る限り今後この疾患の報告例が増加していくものと思われる。最近筆者は興味深いMPDの症例を経験したが、その病理の理解にサイコドラマにおける役割理論を用いることで有効な経験を得たので、ここに報告してMPDの発生が役割理論の適用によってよりよく説明できることを示したい。

2)文献的な考察

 MPDについては古来多くの著者が取り扱ってきた。Janetはこれをヒステリー性の解離と考えたが、ヒステリーだとしてもどうしてこれほどに人格が別個になるのかは理解できない。中村古峡は催眠現象ではないか従って催眠によって人格分離を惹起しうるのでは、と考えたが、著者の例では一切の催眠療法は行っていないし、また最近の多くの症例では催眠の関与は認められず、これでは説明できない。フロイドの人格の分裂、併存という考えはよりこの機制を説明してくれるようであるが、しかしMPD固有の人格の交代について教えてくれない。こうした中で症例について示唆するところの大きい考えは、対象関係学派のフェアバーンの自我-対象系の考え方である。フェアバーンの考え方は、幼児期には発達的に中心自我-理想的対象系、幼児的リビドー自我-興奮させる対象系、幼児的な反リビドー自我-拒絶する対象系という分裂した3つの自我-対象系が存在し、しかもその相互の分裂は幼児期における母親との対象関係が不安定であったり不満足であったりすると統合されないで保存されてしまい、別個の人格の形を取るというものである。この理解は有名な三重人格の症例イヴにおいては十分な説明となった、しかしそのごの24重、400重といった更に細分化されたMPDの出現について説明することが出来ないのである。最近アメリカにおいては性的な虐待との関係でMPDへの興味が湧いてきており、自我同一性の確立過程において性的に虐待された児童は自己を肯定的に受けとめられず、自我同一性が成立しないという主張が成されているが、この考え方だけでは他の心的に苦痛な状況に陥った自動との運命の差が説明できない。これらの全ての不十分な点は役割理論に拠って克服される。

II.本論1)症例の提示

 症例はT、初診時21歳の女子学生である。主訴は記憶喪失であったが、良く聞いてみると記憶がなくなるのは彼女が別人格になるときと言うのであった。同伴した恋人の証言によるとTには元来の人格である"Tさん"の他に、第二の人格としてペンギンの"Q"が存在してそれらが交代して出現し、お互いに他の人格がしていることを記憶していないのだという。初診時の彼女は"Q"であり、数回の診察の後に"Tさん"と交代して現れた時は彼女は、初診時の幼い感じの彼女とは全く異なって、てきぱきした地味な女子学生という印象であった。この人格分離はその後第3人格"白"、第4人格として出現していったが、最近の多くの症例の記録に見られるような2けた、3けたにまで細分化されることは無く、第5人格である"TQ"として統合されるにいたった。その過程においては筆者が役割理論に基ずいておこなった治療的接近が大きな意義を持っていた。またこの過程において分裂病を疑わせるようなシュナイダーの一級症状である、会話性の幻聴が出現したがそれは一過性に終わっておりその他の自我障害を思わせる所見は認められていない。少なくとも第3人格、第4人格の出現に関してはかなり恋人との関係において出現するという点で、状況反応的であった。

2)診断論的な問題(1)診断の根拠

 DSM-III-Rの多重人格障害の診断基準(一人の人間に二人またはそれ以上の別個の人格状態が存在すること。これらの状態の少なくとも二つが繰り返して患者の行動を完全に支配していること。)をこの症例は満たしており多重人格と考えて良い。

(2)鑑別すべき主要疾患

 鑑別疾患として、憑依性精神病、精神分裂病、詐病を考えた。憑依性精神病とは憑依した存在がペンギンといった動物として考えられる点で共通性を持っているが、しかしそれは飽くまでも人間で無いという意味のみであって、憑依の様に強大な霊や神といった超越的存在がとりつくのとは異なっている。精神分裂病とは病的な会話性幻聴は存在するがその他の自我障害は認められないし精神的エネルギーも十分である点で鑑別される。詐病とはとはこの病気によって彼女が利益を得るというよりはむしろ彼や家族との関係において不利益を被ることが多かったという点で鑑別される。

(3)文化精神医学的な観点からの検討

 この疾患の鑑別の際に問題となるのはなぜ彼女がペンギンの"Q"を第二人格としたかという点である。この形の第二人格は現在までに報告がない。これは文化精神医学的な検討を要する課題であろう。文化論的には特にアジア圏に特有の動物との親和性がこの症例の背景として認められるであろう。その結果として人間ではいたくない願望が第二人格として小さい頃から症例にとって大好きな存在であり、また周囲からあだ名としてつけられていたペンギンを選んだのであろう事が考えられた。

3)役割理論による理解と治療について(1)役割理論の紹介

 ここで用いられる役割理論はMorenoによって始められたサイコドラマの中で紹介されたものである。Morenoは人間が他者との関係の中で瞬間瞬間に示す行動の総体を役割と呼んだ。その役割はClaytonによれば通常自我の統合作用によって整合性を保っているが、もしもこの統一性が弱まってしまうと個々の役割は別人格としての姿を示す。これが多重人格の成り立ちである。歴史的に見てみると個々人の行動には対向的な相手からの行動(対向役割)が存在してその両者が重なり合って決まり切った一定のパターンの役割-対向行動群を生み出してくる。この定型化された役割-対向役割の組をカルチュラルアトムユニットと呼ぶことにしよう。このカルチュラルアトムユニットは個人史的に決定されはするが、しかし何らかの事情でこのユニットが対応しきれない状況が生ずると、破綻してそれまで抑圧された役割が表に出てくることになる。これが第二、第三等の人格である。

(2)役割理論によるこの症例の理解

 症例は幼い頃から気まぐれで一貫性のない父親と無力な母親とによって父親に全面的に服従するという良い子の役割を形成してきた。こうして出来た良い子-強圧的父親のカルチュラルアトムユニットが第一人格"Tさん"である。これに対して上京して恋人との関係の中でそれまで抑圧されてきた幼児的な役割が解放されて恋人の受容的な対向役割と形成したものが、第二人格"Q"である。第二人格は第一人格によって抑圧され続けてきたために、お互いに対する反発が強すぎて統合することが出来なくなる。この両者を含めて我々はカルチュラルアトムユニットをたくさん持つようになってくる。従って本来的に人間は多重人格的である。これらの多様なカルチュラルアトムユニットの形成には抑圧、逃避、モデルの取り入れ、等の一般的な心理学のメカニズムが利用される。カルチュラルアトムユニットは強固に形成されると、自立性を持ってくる。このことが心的外傷によって、分離した人格の独立性を保証してくれる。またこのカルチュラルアトムユニットはある文化状況の中で形成されてくるので、このカルチュラルアトムユニットとしてどのようなものが形成されるかは、個人の生活史や対向役割のあり方の他に文化の特性が大きな影響を及ぼす。アメリカの例において動物である人格が出現してこないのは、文化的な特性が背景にあるのであろう。

(3)役割理論を用いての治療

 筆者の取ったアプローチは第一人格と第二人格とは裏表の関係にあり、両者にとってコミュニケーションを取ることが大切であるという理解を伝えるものであった。このとき大切であったことはこの両者の存在を否定することなく事実として受け入れたことにあったと思われる。新しい人物との出会いは新しいカルチュラルアトムユニットを形成する契機となる。従って多重人格の患者にとって新しい人との出会いはかえって人格分離を促す。従って具体的には多重人格の治療の原則は以下の通りとなる。

 ア)カルチュラルアトムユニットの存在を認めて交流の必要性を理解させること。

 イ)治療関係はなるべく単純にすること

 ウ)支持的、受容的な態度をとること

 エ)誰か一人キーパーソンを作りその人との関係に収斂させること

III.結論

 以上から以下のことが明らかになった。

 1)個人の取る役割と、それに対応して相手が取る対向役割とが固定されて形成されるカルチュラルアトムユニットこそが分離した人格として観察される実態である。

 2)人格において過剰に発達したユニットと未発達で抑圧されたユニットとが存在する。

 3)未発達なユニットが解放されたものがこの症例では過去の個人的経験との関係からペンギンのQと名付けられた。

 4)この症例の治療において以上の理解をふまえて人格相互のコミュニケーションを促したところ人格は統合に向かった。従って上の理解は正鵠を得ている。

 5)多重人格の治療においては治療関係に関わる人間の数が少ないことが望ましい。

 これらの点は役割理論による理解が大きな背景として有効であった事を示した。

審査要旨

 本研究は今までわが国においては非常に希であるとされてきた多重人格(Multiple Personality)の原因について、サイコドラマの基礎理論である役割理論を用いて、その成立についての理解のために検討を加えたものであって、その結果として以下のような点が明らかになった。

 1.臨床材料は初診時20歳になる女子理系学部学生で、主訴は記憶の欠如であった。同伴した恋人及び彼女自身の訴えから彼女の第一人格である"Tさん"と第二人格としてのペンギンの"Q"が存在することが確認された。その後の展開の中で彼女は更に第三人格"白"と第四人格"名無し"とを発展させて示してきたが、これらの間には相互の交流もなく、記憶が人格交代の度に欠落する結果となっていて多重人格と診断された。

 2.従来の多重人格の理解はそれが統一された人格の解体によって多様な「人格」(正確には人格様の構造体)が成立してくるというものであったが、そのモデルによっては何故かくも多様な「人格」が成立するのかが発生的に理解できず、治療過程における人格の解体が進んでしまうという結果が引き起こされた。またこの症例の第二人格であるペンギンの"Q"は解体のモデルからは到底説明ができなかった。

 3.これに対してサイコドラマの基礎理論である役割理論からこの現象が十分に説明可能である事が示された。具体的には個人の個々の状況における対人行動である役割と、これに対して相手が応じて示す行動である対向役割とが、その結びつきの強固さのゆえにくり返し現れ歴史的に固定化される場合をカルチュラルアトムユニットと名づけ、このカルチュラルアトムユニットこそが多重人格における「人格」に他ならない事が明らかになった。この理解によれば父親との抑圧された関係の中で成立したカルチュラルアトムユニットが第一人格"Tさん"であり、次に恋人との間で恋人の承認の中で彼女の願望であるもっとも身近な動物としてのペンギンが選ばれて、第二人格ペンギンの"Q"が成立した事が明らかとなった。またこの動物を第二人格とする事は日本の文化風土に根差すであろう事が示唆された。第三人格、第四人格、統合的な第五人格についても同様にカルチュラルアトムユニットによって説明ができる事が示された。

 4.この理解を直接患者に伝える事によって患者は自己の第二人格等の存在に気づきそのことによってこれらの分離された「人格」同士の間の交流が行われるようになった。またこのカルチュラルアトムユニットは他者との交流の中から生じてくる事、従って多様な「人格]を生じさせないためには接触する相手をむしろ限定して安定した関係のみを目指すべきであると考えられ、そうした努力の結果として出現した「人格」は最後の統合された人格である第五人格"T.Q"を含めて5個にとどまった。更に実践的には人格の統合過程としても通常の治療のように多大な努力を要する事が無く、この「人格」同士の間にコミュニケーションが成立するべきであるし、それをできるのは患者のみであるという治療者の示唆によって容易に「人格」相互の交流が行われて第五人格"T.Q"という形で最終的には再統合された。これらの事実によってカルチュラルアトムユニットが多重人格における「人格」であるという仮説は立証されたと考えられる。

 以上、本論文は多重人格の理解にサイコドラマの役割理論に基づいた、役割と対向役割との結合体であるカルチュラルアトムユニットという新しい概念を導入し、それによって多重人格の症例を理解し説明する事ができる事を明らかにした。しかもその概念が治療的にも有用である事が示された。本研究は従来未解明であった多重人格における「人格」の成立について、全く新しい角度から検討を加えてその理解と治療の進展に大きな貢献を成すと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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