学位論文要旨



No 212987
著者(漢字) 市瀬,史
著者(英字)
著者(カナ) イチノセ,フミト
標題(和) 神経型一酸化窒素合成酵素欠損とNitroG-L-Arginine Methylesterのイソフルレン麻酔域値に及ぼす影響
標題(洋) Effects of Targeted Neuronal Nitric Oxide Synthase Gene Disruption and NitroG-L-Arginine Methylester on the Threshold for Isoflurane Anesthesia
報告番号 212987
報告番号 乙12987
学位授与日 1996.09.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第12987号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 熊田,衛
 東京大学 教授 伊藤,幸治
 東京大学 教授 飯野,正光
 東京大学 教授 伊賀,立二
 東京大学 助教授 福地,義之助
内容要旨 背景

 一酸化窒素(nitric oxide:NO)が中枢および末梢での神経伝達において重要な役割を果たしていることが近年明らかにされつつある。NOはL-arginineを基質に一酸化窒素合成酵素(nitric oxide synthase;NOS)によって生成されると、soluble guanylate cyclase(sGC)を活性化し、細胞内のguanosine 3’,5’-cyclic monophosphate(cGMP)濃度を上げることによって様々な効果をもたらす。これまでに複数のNOSのisoformが発見されている。内皮型(endothelial NOS:eNOS)と神経型(neuronal NOS:nNOS)の酵素は常時発現し、その活性はCa2+/calmodulin依存性であるが、マクロファージ型のNOS(inducible NOS:iNOS)はlipopolysaccharideや-interferonの刺激で産生され、細胞内遊離カルシウム非依存性に活性を持つ。神経型NO合成酵素(nNOS)は中枢および末梢神経系のニューロンに局在しており、小脳、視床下部、中脳、線状体、海馬等に特に多く存在する。NOがN methyl-D-aspartate(NMDA),グルタミン酸、カイニン酸等の刺激による小脳でのcGMP濃度の上昇を媒介している事が知られている。一方、halothaneとenfluraneは小脳を含む脳領域でcGMP濃度を減少させる事が知られている。NOが痛覚認知や意識の維持にも役割を持っているか否かは今のところ不明であるが、ラットでは、NitroG-L-Arginine Methylester(L-NAME)によるNOSの非選択的阻害によって揮発性全身麻酔薬であるhalothaneのminimum alveolar concentration(MAC)が減少するのと、不変であるとする相反する二つの報告がある。しかしながら、L-NAMEの様なNG位を置換したアルギニンのアナログは、内皮型、神経型、マクロファージ型を含む現在知られている全てのNOSのisoformを非選択的に阻害する。その上、その他の鉄を含有する生体内物質と反応したり、ムスカリン受容体と拮抗することも示されている。したがって、全身的に投与されたアルギニンのアナログによる効果が必ずしもnNOSの阻害によるものとは限らない。この実験ではnNOSを単独に完全欠損するマウス(ノックアウトマウス)の全身麻酔薬に対する感受性を調べることで、慢性的なnNOS欠損状態の麻酔域値に対する影響、ひいてはNOの痛覚認知や意識維持に果たす役割を検討した。具体的には以下に上げた疑問に答えるべく研究計画をたてた。(1)慢性的なnNOS欠損によって麻酔閾値は変わるか。(2)急性のL-NAME投与は野性型あるいはノックアウトマウスの麻酔閾値を変化させるか。(3)野性型マウスに1週間L-NAMEを連続投与すると麻酔閾値がノックアウトマウスのレベルに近づくか。これらの疑問に答えるために、我々は揮発性全身麻酔薬isofluraneのminimum alveolar concentration(MAC)とrighting reflex(起き上がり反射)ED50(RRED50)を野性型およびノックアウトマウスで測定した。MACとRRED50の測定を急性および1週間連続のL-NAME投与後に繰り返した。

方法

 ほぼ同じ体重(18-26g)のノックアウトマウス50匹、野性型マウス(SV129,Taconic,MA)80匹を使用した。ノックアウトマウスはHuangらがgene targetingにより作製したものを使用した(Huang et al.Cell75:1273-1286,1993)。これらのホモ接合体(完全欠損型)のノックアウトマウスでは、大脳のDNA,RNA,蛋白質の分析で、nNOS遺伝子が発現していない事が確認された。脳のhomogenatesでのアルギニンからシトルリンへの変換率によって測定した脳の残遺NOS活性は野生型マウスの脳内NOS活性の5%未満であった。この残遺NOS活性は、おそらく脳内に少量存在する内皮型のNOSによるものと考えられる。

 初めにEgerらにより確立された方法によって、野性型およびノックアウトマウスにおけるベースラインのisofluraneのMACとRRED50の値を測定した。MACは標準の痛み刺激(tail-clamp)に対して、50%のマウスが反応しなくなる最低のisoflurane濃度として、RRED50は50%のマウスが起き上がり反射を喪失する最低のisoflurane濃度として決定した。ついで、L-NAME10,25,50,75,100mg/kgを野性型とノックアウトマウスの腹腔内に一回注入した後MACとRRED50を測定し、急性かつ非選択的なNOS阻害の麻酔感受性に対する影響を検討した。L-NAME作用の立体特異性を確認するために、50mg/kgのL-NAMEを投与された野性型マウスにL-arginine(600mg/kg)またはD-arginine(600mg/kg)を追加投与して、L-NAMEによる麻酔感受性に対する効果が可逆性であるかどうかを調べた。最後に、野性型マウス20匹に、50mg/kgのL-NAMEを12時間毎に1週間連続で経口連続投与し、8日目にMACとRRED50の測定を腹腔内L-NAME投与の前後に繰り返し行った。

結果

 予想に反し神経型一酸化窒素合成酵素の完全欠損マウスのbaselineのMACとRRED50は、野性型のそれと同一であった(MAC[volume%]:ノックアウトマウス1.24±0.05,野性型マウス1.24±0.05;RRED50[volume%]:ノックアウトマウス0.56±0.01,野性型マウス0.58±0.01)。L-NAMEの急性一回投与では野性型マウスのMACとRRED50が有意に減少したが、ノックアウトマウスのMACとRRED50は変化しなかった(表1)。positive controlとして腹腔内1回投与したketamine(50mg/kg)ではノックアウトマウスのMACとRRED50が有意に減少したことから、これはL-NAMEに特異的な現象であることが確認された。野性型マウスにおけるL-NAMEによるMACおよびRRED50の減少は、L-arginineによって完全にreverseされたが、立体異性体であるD-arginineでは変化しなかった。1週間連続でL-NAMEを投与された野生型マウスは、まったくL-NAME投与を受けていない野生型マウスのbaselineと同一のMACとRRED50の値を示し、その後さらにL-NAMEを投与されても、MACとRRED50の値は減少しなかった。

(表1)isoflurane麻酔閾値に及ぼす腹腔内L-NAME急性投与の影響(n=7-12)。数値は平均値±標準誤差。*L-NAME投与前に比べ有意差あり(p<0.05)。
考察

 神経型一酸化窒素合成酵素を先天的に欠損するマウスは野性型マウスと同一のisoflurane麻酔に対する感受性を示した。急性の非選択的なNOS阻害薬投与は野性型マウスの麻酔必要量を減少させるが、ノックアウトマウスの麻酔必要量を変化させない。これは、L-NAME一回投与によるMACの減少が実際に神経型NOSの阻害に基づく特異的な現象である事を支持するとともに、ノックアウトマウスではNOに依存しない痛覚伝導路が存在し、神経型NOSの先天的欠損を補っている可能性があることを示唆している。

 全身麻酔のメカニズムの詳細は未だ解明されていないが、少なくとも部分的には大脳のNMDA受容体の阻害を介していることは広く認められている。NMDA受容体はグルタミン酸によって活性化される大脳の興奮性受容体の中の一つであり、その阻害により吸入麻酔薬のMACは減少する。一方、NMDA受容体の活性化は中枢神経系でNOを介してCa2+依存性にcGMP濃度を増加させる。最近の知見では、NMDA受容体活性化とそれに続くNOの放出が、脊髄における痛覚伝導の修飾(synaptic plasticity)、及び大脳皮質でのある種の学習と記憶の過程と考えられているlong term potentiationの両者において、主にretrograde messengerとして重要な働きを果たしている事が証明されている。以上よりNOが中枢神経系で神経伝達物質として重要な働きをしていることが示唆される。

 急性のNOS阻害薬投与が野性型マウスの麻酔必要量を減少させた事は上記の仮説を支持するが、nNOSノックアウトマウスが野生型マウスと同じ麻酔閾値を示したことは一見この仮説を否定するかに見える。しかしながら、ノックアウトマウスはその発生の段階からnNOSを完全に欠損しており中枢神経系にNOを欠いたまま成長するため、それを補う何らかの補償機構が発達していると考えられる。これは痛覚認知と意識の維持が生体の生存に不可欠な機能であることから、複数のシステムが重複して存在している事が推測される事に矛盾しない。この点を確認するために行った実験では、1週間連続のL-NAME投与は野生型マウスの神経系に適応性の変化をもたらし、麻酔閾値をもう一度元に戻してしまう事、その後さらにL-NAMEを投与しても麻酔閾値が変わらない事が示された。この様にこれらの野性型マウスがノックアウトマウスと同様の麻酔感受性を示した事から、類似の適応性変化が起きている可能性が示唆される。以上の結果から、NO-cGMP経路は痛みの伝導と意識の維持に重要な働きをしているが、不可欠な痛覚伝導路ではなく、先天的に欠損していたり化学的に長期間不活性化されると、代替経路によって置き換えることが可能なことが推測される。

審査要旨

 本研究は中枢神経系における痛覚伝導と意識の維持において一酸化窒素(nitric oxide:NO)が演じている役割を明らかにするために、神経型一酸化窒素合成酵素(neuronal nitric oxide synthase:nNOS)を単独に完全欠損するマウス(ノックアウトマウス)の全身麻酔薬に対する感受性を調べることで、慢性的なnNOS欠損状態の麻酔域値に対する影響を検討したものであり、下記の結果を得ている。

 1.初めに、全身麻酔薬のpotencyを比較する最も標準的な指標である、minimum alveolar concentration(MAC)とrighting reflex ED50(RRED50)を野性型およびノックアウトマウスで測定して、ベースラインの麻酔感受性を検討した。MACは標準の痛み刺激(tail-clamp)に対して、50%のマウスが反応しなくなる最低のisoflurane(揮発性全身麻酔薬の一つ)濃度として、RRED50は50%のマウスが起き上がり反射を喪失する最低のisoflurane濃度として決定した。この結果、これまでにNOSの非特異的な阻害剤を用いて行われた急性実験から予想される結果に反し、神経型一酸化窒素合成酵素の完全欠損マウスのbaselineのMACとRRED50は、野性型のそれと同一であった。

 2.非選択的なNOS阻害薬の一つであるL-NAMEの急性一回投与では野性型マウスのMACとRRED50が有意に減少したが、ノックアウトマウスのMACとRRED50は変化しなかった。positive controlとして腹腔内1回投与したketamine(50mg/kg)ではノックアウトマウスのMACとRRED50が有意に減少したことから、これはL-NAMEに特異的な現象であることが確認された。

 3.野性型マウスにおけるL-NAMEによるMACおよびRRED50の減少は、NOSの基質であるL-arginineによって完全にreverseされたが、立体異性体であるD-arginineでは変化しなかった。これによって、L-NAMEによる麻酔必要量の減少がNOSを介した特異的な現象であることが示された。

 4.1週間連続でL-NAMEを投与された野生型マウスは、まったくL-NAME投与を受けていない野生型マウスのbaselineと同一のMACとRRED50の値を示し、その後さらにL-NAMEを投与されても、MACとRRED50の値は減少しなかった。

 5.急性の非選択的なNOS阻害薬投与は野性型マウスの麻酔必要量を減少させるが、ノックアウトマウスの麻酔必要量を変化させない。これは、L-NAME一回投与によるMACの減少が実際に神経型NOSの阻害に基づく特異的な現象である事を支持するとともに、ノックアウトマウスではNOに依存しない痛覚伝導路が存在し、神経型NOSの先天的欠損を補っている可能性があることを示唆している。急性のNOS阻害薬投与が野性型マウスの麻酔必要量を減少させた事は上記の仮説を支持するが、nNOSノックアウトマウスが野生型マウスと同じ麻酔閾値を示したことは一見この仮説を否定するかに見える。しかしながら、ノックアウトマウスはその発生の段階からnNOSを完全に欠損しており中枢神経系にNOを欠いたまま成長するため、それを補う何らかの補償機構が発達していると考えられる。これは痛覚認知と意識の維持が生体の生存に不可欠な機能であることから、複数のシステムが重複して存在している事が推測される事に矛盾しない。この点を確認するために行った実験では、1週間連続のL-NAME投与は野生型マウスの神経系に適応性の変化をもたらし、麻酔閾値をもう一度元に戻してしまう事、その後さらにL-NAMEを投与しても麻酔閾値が変わらない事が示された。この様にこれらの野性型マウスがノックアウトマウスと同様の麻酔感受性を示した事から、類似の適応性変化が起きている可能性が示唆される。

 以上、本論文は選択的に神経型の一酸化窒素合成酵素のみを先天的に欠損するノックアウトマウスの麻酔閾値を測定することにより、慢性と急性のNO欠損状態が、痛覚認知に異なる影響を与えることを初めて明らかにした。本研究は未だ謎の多い全身麻酔のメカニズムと、NO-cGMPシステムが中枢神経系で痛覚認知と意識維持に果たす役割の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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