本研究は中枢神経系における痛覚伝導と意識の維持において一酸化窒素(nitric oxide:NO)が演じている役割を明らかにするために、神経型一酸化窒素合成酵素(neuronal nitric oxide synthase:nNOS)を単独に完全欠損するマウス(ノックアウトマウス)の全身麻酔薬に対する感受性を調べることで、慢性的なnNOS欠損状態の麻酔域値に対する影響を検討したものであり、下記の結果を得ている。 1.初めに、全身麻酔薬のpotencyを比較する最も標準的な指標である、minimum alveolar concentration(MAC)とrighting reflex ED50(RRED50)を野性型およびノックアウトマウスで測定して、ベースラインの麻酔感受性を検討した。MACは標準の痛み刺激(tail-clamp)に対して、50%のマウスが反応しなくなる最低のisoflurane(揮発性全身麻酔薬の一つ)濃度として、RRED50は50%のマウスが起き上がり反射を喪失する最低のisoflurane濃度として決定した。この結果、これまでにNOSの非特異的な阻害剤を用いて行われた急性実験から予想される結果に反し、神経型一酸化窒素合成酵素の完全欠損マウスのbaselineのMACとRRED50は、野性型のそれと同一であった。 2.非選択的なNOS阻害薬の一つであるL-NAMEの急性一回投与では野性型マウスのMACとRRED50が有意に減少したが、ノックアウトマウスのMACとRRED50は変化しなかった。positive controlとして腹腔内1回投与したketamine(50mg/kg)ではノックアウトマウスのMACとRRED50が有意に減少したことから、これはL-NAMEに特異的な現象であることが確認された。 3.野性型マウスにおけるL-NAMEによるMACおよびRRED50の減少は、NOSの基質であるL-arginineによって完全にreverseされたが、立体異性体であるD-arginineでは変化しなかった。これによって、L-NAMEによる麻酔必要量の減少がNOSを介した特異的な現象であることが示された。 4.1週間連続でL-NAMEを投与された野生型マウスは、まったくL-NAME投与を受けていない野生型マウスのbaselineと同一のMACとRRED50の値を示し、その後さらにL-NAMEを投与されても、MACとRRED50の値は減少しなかった。 5.急性の非選択的なNOS阻害薬投与は野性型マウスの麻酔必要量を減少させるが、ノックアウトマウスの麻酔必要量を変化させない。これは、L-NAME一回投与によるMACの減少が実際に神経型NOSの阻害に基づく特異的な現象である事を支持するとともに、ノックアウトマウスではNOに依存しない痛覚伝導路が存在し、神経型NOSの先天的欠損を補っている可能性があることを示唆している。急性のNOS阻害薬投与が野性型マウスの麻酔必要量を減少させた事は上記の仮説を支持するが、nNOSノックアウトマウスが野生型マウスと同じ麻酔閾値を示したことは一見この仮説を否定するかに見える。しかしながら、ノックアウトマウスはその発生の段階からnNOSを完全に欠損しており中枢神経系にNOを欠いたまま成長するため、それを補う何らかの補償機構が発達していると考えられる。これは痛覚認知と意識の維持が生体の生存に不可欠な機能であることから、複数のシステムが重複して存在している事が推測される事に矛盾しない。この点を確認するために行った実験では、1週間連続のL-NAME投与は野生型マウスの神経系に適応性の変化をもたらし、麻酔閾値をもう一度元に戻してしまう事、その後さらにL-NAMEを投与しても麻酔閾値が変わらない事が示された。この様にこれらの野性型マウスがノックアウトマウスと同様の麻酔感受性を示した事から、類似の適応性変化が起きている可能性が示唆される。 以上、本論文は選択的に神経型の一酸化窒素合成酵素のみを先天的に欠損するノックアウトマウスの麻酔閾値を測定することにより、慢性と急性のNO欠損状態が、痛覚認知に異なる影響を与えることを初めて明らかにした。本研究は未だ謎の多い全身麻酔のメカニズムと、NO-cGMPシステムが中枢神経系で痛覚認知と意識維持に果たす役割の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。 |