学位論文要旨



No 213002
著者(漢字) 藤谷,陽悦
著者(英字)
著者(カナ) フジヤ,ヨウエツ
標題(和) 大正期における東京近郊の田園都市事業に関する研究 : 大船田園都市株式会社の活動を通して
標題(洋)
報告番号 213002
報告番号 乙13002
学位授与日 1996.09.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13002号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 西村,幸夫
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 伊藤,毅
内容要旨

 本研究は大正期における東京近郊の田園事業について,大船田園都市株式会社の活動を中心に取り上げた研究である。

 日本に初めて田園都市の概念が紹介されるようになったのは明治末期からである。そして民間の土地建物会社による良好な住宅環境を形成する郊外住宅地については,日本に導入された田園都市思想からの影響を受けて成立してきたと論じられるのが一般的である。しかし従来までの研究で,大正期における田園都市事業について実証的に検証した研究はこれまで少ない。また日本における田園都市事業の評価を計るにも,田園都市に対する概念の取り上げ方が曖昧で,「物差し」とも言うべき評価基準を見つけにくいのが現状であった。

 そこで日本において展開された田園都市事業を正しく計るには,当時の土地建物会社の活動に着目し,そこで行われた田園都市事業の内容を実証的に明らかにする必要がある。また土地建物会社が企画した起業計画,事業の結果,日本に導入された田園都市の概念などを相互に比較検討し,両者の違いについて実証的に把握するための基礎的な研究が必要であると考える。ちなみに(株)大船田園都市については『事業報告書』や遺族からの史料を元にして,その活動内容を実証的に検証することができる。本論文では以上のような観点に立ち,大正期における田園都市事業を問い直すための基礎研究として(株)大船田園都市の活動を取り上げた。

 本論文は次の7章の構成からなつている。

 第1章の「明治期の土地所有と土地建物会社」では,明治期における東京の武家屋敷の所有形態と土地建物会社の設立状況について考察した。日本で最初の土地建物会社は明治29年9月に設立された東京土地建物会社であるが,明治期における営業形態は江戸時代を引き継いだ借家の斡旋事業であった。また土地建物会社の設立は大正9年にピークを迎えているが,その背景には大正10年に施行された住宅組合法や住宅会社法案などの社会的な動きが関与していることが考えられた。そして東京と大阪の土地経営法の違いを見ると,大阪では地主から土地を買い上げる分譲販売方式が主流であったのに対し,東京では委託分譲形式が中心で,(株)大船田園都市のような分譲販売形式は少なかった可能性があることを明らかにした。

 第2章の「大正期における田園都市運動の広がりと初期の田園住宅地経営」では,田園都市思想の伝搬過程と東京近郊で開発された初期の田園住宅地の事例について検証した。日本で田園都市思想が紹介されるようになったのは明治40(1907)年からである。また大正7年頃から中産階級の住宅不足が深刻となり,田園都市の建設はその解決策に向けての重要な課題として認識されるようになる。住宅政策の面において,その重要な役割を担ったのが「都市研究会」である。ここでは「都市研究会」の会員と活動に注目し,そこに田園都市事業に携わる多くの企業家が含まれていたことを明らかにした。また初期の田園住宅地の実例でも,企業家が早い時期から田園都市に関心を寄せていたことを明らかにした。

 第3章の「大船田園都市株式会社の設立の目的と住宅地〔新鎌倉〕の計画」では,(株)大船田園都市の事業計画について考察した。(株)大船田園都市の設立は「住宅組合法」の施行と同じ年の大正10年12月19日である。会社を設立したのは代表的な金融機関の渡辺家であるが,渡辺家では「都市研究会」に入会して住宅問題に関心の深かった渡辺勝三郎と渡辺六郎を実務に当たらせていた。また敷地計画では約10万坪の土地を大船駅前に探し出し,起伏のある地形では曲徑道路を放射状に展開させ,車道と分離した歩道には街路樹を植え,上下水道も地下埋設式で,風致公園と近隣小公園にクラブハウス・野外劇場・小学校を隣接させている。これらは田園都市に必要な条件と考えられていたものである。渡辺家では田園都市の建設の条件を十分に踏まえて計画を構想していたことが考えられる。

 第4章の「大船田園都市株式会社の田園都市事業」では,上記の事業計画がどの程度実現されたかを明らかにした。最初に職員については総勢29名の社員がおり,技術職員は専属技師1名・嘱託技師2名・技手9名で構成され,建築課と土木課と植裁工事を受け持つ「新鎌倉農園」の営繕機構に分かれていた。土木工事では,簡易水道が敷設され,下水道と電気は地下埋設式,砂利敷きの車道と煉瓦敷きの歩道を分離して,車道と歩道の間に街路樹を植えている。また施設としては居住者の生活を考えたマーケットを建設し,医院と派出所と商店を設計し,15棟の社営住宅を完成させている。普通住宅では安価な住宅供給を考えて宅地購入者からの設計の委託に応じており,庭園工事では「新鎌倉農園」を設立し,住宅地の町並みを考えて街路樹の植え込みと手入れと生け垣の築造などを行っている。しかし,実現できたのは駅前周辺の第1期工事だけであった。

 ところで(株)大船田園都市の経営状態は設立当初から苦しかった様子がうかがえる。土地利益は設立当初から土地売却予定額の半分以下の割合で,昭和恐慌が起きた昭和2年には土地利益が大幅に落ち込んで,昭和3年8月頃に会社の倒産を迎えている。分譲販売方式の田園都市事業は公益性を重視すれば重視するほど先行資金が必要となり,宅地の売れ行きが少しでも滞ると社債や借り入れ金の高金利で,当時の新聞にも経営難に陥るケースが報告されている。すなわち当時の田園都市事業は財政的には常に倒産の危機と背中合わせの状態にあり,必ずしも投機的な側面ばかりで評価できないことを明らかにした。

 第5章の「建築技師〔山田馨〕の事績と住宅地「新鎌倉」の建築規約」では,建築技師の山田馨の事績と住宅地「新鎌倉」の建築規約について考察した。山田馨の事績については自筆の履歴書と草稿が残されており,(株)大船田園都市への入社の動機を知ることができる。山田馨は入社以前から独学で田園都市の研究を続けており,宮内省内匠寮時代には大沢三之助を通して田園都市への見聞を広めていたことが考えられる。また入社後は専務取締役の福原信三の援助により,大正12年11月25日から一年間のアメリカ出張に出掛けている。福原信三は都市美に大きな関心を寄せており,住宅地の設計では福原信三からも影響を受けていたことが考えられる。住宅地「新鎌倉」では11項目の建築規約を定めており,そこには「レッチワース田園都市建築法規」に近い内容が含まれている。また建築規約の内容は「市街地建築物法施行令」よりも厳しいものとなっており,(株)大船田園都市では田園住宅地の美観を定着させるために厳しい内容で定めていたことが考えられる。

 第6章の「大正11年〔改善住宅展覧会〕に見る大船田園都市株式会社の改善住宅の特色」では,「改善住宅展覧会」の開催意図と改善住宅の優秀案について考察した。(株)大船田園都市では改善住宅案の普及を図るために全国から懸賞募集を行って,大正11年に「改善住宅展覧会」を開いている。それらの優秀案を考察すると,配置計画は芝生の前庭と低い生け垣を設けて後庭に菜園・花園・パーゴラを備え,建坪率は殆ど20%以下で計画されている。また住宅の外観は建築規約に準拠して洋風を主体に計画されている。更に平面形式では実用的な広間形系住宅が半数以上を占め,起居様式も床座式と椅子座式が折衷する現実的で使いやすい立場で考えている。(株)大船田園都市では生活改善同盟会と同じ主張で改善住宅を考えていたことを明らかにできる。

 第7章の「住宅地〔新鎌倉〕の遺構住宅に見る大船田園都市株式会社の田園住宅像」では,(株)大船田園都市が建設した4棟の田園住宅について考察した。住宅の遺構調査では外部空間はすべて洋風で計画され,平面形式を含めた起居様式は「改善住宅展覧会」の結果と異なって半数以上が常用室で床座式を取り入れている。そこで設計図面と仕様書を元にして,(株)大船田園都市の設計変更過程を読み解くと,(株)大船田園都市では居住者に椅子座式の生活を薦めたが,居住者の反対で途中から床座式に変更していることが分かる。大正11年は住宅改善運動の流れの中で洋風生活を受け入れるまでの過渡期に位置付けられている。(株)大船田園都市では外部空間を中心に住宅の洋風化を実現できたことを明らかにした。

 以上のことから,(株)大船田園都市では住宅改善運動などを中心とする社会的風潮を背景として,田園都市事業を展開していたことを明らかにできる。その意味では当時の土地建物会社の活動は学識者が唱える都市改造理論の忠実な実践者と受けとめることができる。しかし,公益性を重視した田園都市事業には乗り越えなければならない大きな壁があった。ひとつは経済的な問題である。公益性とは公共施設の整備を意味しているが,それを実施するには先行資金が必要となり,当時の土地建物会社は常に経営的な危機にさらされていた。もう一つは田園住宅の洋風化に関する問題である。日本の田園住宅が生活スタイルにおいて洋風化を指向しながら,起居様式で椅子座式と床座式の間を振幅を繰り返しながら,洋風化を進めていった事実はよく知られている。しかし,当時の理想とする田園住宅像を実現させるには一般居住者の嗜好を考慮する必要があった。(株)大船田園都市では純洋風住宅を指向しながら,結果として〈外観-洋風〉+〈室内-和風〉の住宅を受け入れている。ここに大正期における田園住宅地の特色を認めることができる。すなわち(株)大船田園都市の経営的な失敗は民間ベースによる田園都市事業の限界を示しているとも考えられ,当時の田園都市事業が土地投機ばかりを対象にその評価を与えられない側面があることを明らかにした。

審査要旨

 本論文は,大正期における東京近郊の田園都市事業について大船田園都市株式会社の活動を主に,現存ならびに記録上の建築作品及び都市の成立過程を通じて叙述し,そのことによってわが国近代の郊外田園住宅地設立の重要な側面を明らかにしようと試みたものである。

 本論文は全体で7章で構成されるが,大きく二部に分かれる。I部は田園都市事業成立までの背景を土地建物会社と田園都市思想の伝搬を通じて叙述し,II部は各論であるが,それ以後の事業経緯を大船田園都市株式会社の活動に代表させ,事業の計画と実施経緯,理想の住宅像と現実の違いについて明らかにしている。

 まず序においては,従来の研究史について,主に方法上の特質をたどりながら歴史観の違いを述べ,この論文の背景を説明している。

 第1章では,明治から大正にかけて土地建物会社が果たした役割と,設立の推移を『会社年鑑』を用いて分析している。会社の設立は「住宅組合法」の施行直前の大正9年頃にピークを迎えたことを指摘している。東京と大阪の土地経営法の違いを検討し,大阪が分譲販売方式を主流としたのに対し,東京は委託販売方式が主流で大船田園都市株式会社に見られる例が少なかったことを明らかにした。

 第2章では日本の田園都市思想の伝搬過程を論じ,住宅政策の面で重要な役割を果たした「都市研究会」の活動を高く評価し,講演会・講習会・各種委員会に分類して,「都市研究会」の活動内容について検討している。そして会員の動向を「人事興信録」を元に分析し,職業構成として,田園都市事業に携わる多くの企業家が含まれていたことを明らかにした。また初期の実例についても個別に分析し,企業家が早い時期から田園都市に関心を寄せていた事実を明らかにした。

 第3章では,大船田園都市株式会社が設立された目的と,同社が開発した田園住宅地について検討している。会社設立の目的が中産階級の住宅不足の解消にあったこと,事業主も「都市研究会」に入会して都市問題に深い関心を寄せていたこと,などを明らかにして,会社が社会的要請の元に生まれたことを指摘した。また事業計画では当時の都市計画理論と照合し,同社の田園都市構想が理想的な条件を踏まえて計画されていたことを明らかにした。

 第4章では,前章で明らかにした事業計画がどのように実施されたかを明らかにした。事業の内容としては,職員構成を検討し,営繕機構を明らかにし,各々の事業内容を土木工事と建築工事に分けて分析している。そして『土地登記簿』を用いて,同社が途中で倒産した理由についても分析している。そこから分譲販売方式の田園都市事業は,公益性を重視すれば重視するほど先行資金が必要となり,宅地の売れ行きが少しでも滞ると社債や借り入れ金の高金利で経営難に陥るケースがあることを明らかにした。

 第5章では,同社の建築技師の事績と住宅地における建築規約について分析している。はじめに建築技師の経歴と,田園都市の情報に対する日本への浸透過程を踏まえ,諸外国の実例を検討し,相互の比較により,同社の建築規約が[レッチワース田園都市建築法規」を参考として,「市街地建築物法」よりも厳しい内容で計画されていたことを明らかにした。

 第6章では,大正11年開催の改善住宅展覧会について検討している。最初に展覧会の開催意図を示し,改善住宅の優秀案を検討し,外部空間と平面形式に分けて住宅様式を分析した。そして同社の改善住宅案の特色を,生活改善同盟会が唱える住宅改善の指針と比較して,同社の住宅像が住宅改善運動の流れのうえにあることを明らかにした。

 第7章では,同社の住宅遺構を示し,前章の住宅改善案と比較し,住宅の理想像がどの程度実現したかを検討している。そして外部空間と内部空間に分けて特色を分析し,住宅改善案が生活様式において過渡期にあることを明らかにした。

 以上,総論と各論のそれぞれによって,大正期における田園都市事業が学識者の唱える都市改造理論や住宅改善運動の流れのうえにあることを明らかにした。一方,それらの実現性については経済性と居住者の生活様式の面でそれぞれ問題があり,民間ベースによる田園都市事業の限界について重要な側面を明らかにした。従来までの断片的な郊外田園住宅地開発の考え方から一歩踏み出したものであり,今後の近代住宅史・都市史研究に新しい展望を拓いたものと言えよう。よって,本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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