日本の公営住宅の歴史には災害と戦争が強く関わってきた。関東大震災によって同潤会が生まれ、又、第2次世界大戦によって住宅営団ができた。そして、この二つの組織に対応して、近代の代表的な都市計画並びに住宅計画の方法「土地区画整理」と「型計画」が確立・実践されてきた。こうした意味では日本の近代住宅史上重要な位置を占めるべき住宅営団ではあるが、いまだかって住宅営団に関する研究が体系的に取り扱われたことはなく、その実態は把握されていない。この主な原因は戦争の産物としての営団といった戦後認識と、営団が戦後GHQによって閉鎖機関に指定され、関係資料が処分されたためである。こうした手付かずの状況下で戦後半世紀を過ぎた現在、是非とも客観的な視野で戦時の住宅史の欠落部分を補填しなければならない。今日の近代建築検証の潮流のなかで、この住宅営団の解明の問題は単に日本だけに限ったことではない。中国、韓国、台湾は今もそれぞれ半世紀前に営団が建設した団地や住宅が残ってきており、3国にとっても自国の居住空間の歴史を通観する上で欠かすことの出来ない重要な位置を占めているのである。 本論文は上記の背景のもとに、1940年代に設立された住宅営団、朝鮮住宅営団、台湾住宅営団、関東州住宅営団を対象に (1)各住宅営団の沿革・事業・団地住居計画についての実態把握 (2)4住宅営団の総論による住宅計画史並びに建築計画上の評価・位置付け (3)東アジア(日本・韓国・台湾・中国)4ケ国における居住空間の文化的特質の解明の3つを目的とした住宅史並びに住宅計画の研究である。 各住宅営団の概要の解明とその総論は公共住宅史の空白の補填、近代住宅計画の検証、4ケ国の団地・住居の歴史的文脈の理解の上に大いに意義あることと考える。また日本・韓国・台湾・中国の東アジア4ケ国を「住宅営団」という共通項で結びつけ、日本・朝鮮・台湾・中国に建設された営団の団地と住宅を対象にして、多文化主義・多元主義の立場から、温暖な日本から海を渡って寒い北の地域や、あるいは反対に暑い南の地域に住んだ日本人はどのような居住空間を造ったのであろうかという「地域性」と、もうひとつは戦後日本人からその国の人々に住み手が移り変わって、その空間がどのように変容してきているのかという「国民性」の視点からの発見はこれからの各国のハウジング計画に新たな知見を提供するものと期待できる。 研究は文献調査と現況調査を併用した実証的な研究であり、日本の住宅営団、朝鮮住宅営団、台湾住宅営団、中国の国策住宅供給機関(満州房産株式会社、関東州住宅営団、北支房産株式会社)の4つの住宅営団乃至は国策住宅供給機関を対象に取り上げる。その範囲は時期的には全て戦前の設立から閉鎖までを一つのスパンとし、戦後は最初の現況調査を開始した1985年以降から現在までをもう1つのスパンとしている。空間的には日本の住宅営団は旧東京・横浜支所管轄区域内を中心とし、朝鮮住宅営団は終戦前は全半島、戦後の事例は韓国のみとし北朝鮮は入っていない、台湾住宅営団は全島、中国の国策住宅供給機関は当時の満州・関東州・北支那を取り上げる。現地調査は1986年の韓国から始まって、昨1995年の中国までの10年間を費やした。その間調査した営団の住宅地並びに住宅は4ヵ国合わせて20事例、270軒にのぼる。営団の団地と住宅を対象とした本研究は4ケ国に同時期に同様の組織によって同型の住宅が多数建設されたために、同タイプの事例を多数サーベイすることが可能であり、その原型を復元するにしても、現在の型の比較分析を行なうにしても非常に有効な手法となっている。また距離的にも文化的にも近い儒教漢字文化圏の共通基盤をもつ東アジア4ケ国の比較は類似する中での差異を発見することであり、従来の欧米との比較から得るものとはまた異なった繊細な面が期待出来る。 論文の構成は序論、第1章日本の住宅営団、第2章朝鮮住宅営団、第3章台湾住宅営団、第4章中国の旧国策住宅供給機関、第5章住宅営団の総論、第6章東アジア4ヵ国における居住空間の比較文化論的考察からなる。 第1章から第4章までは日本・朝鮮・台湾・中国の各住宅営団の概要並びに戦後の住宅地と住宅の変容について扱った各論である。その各第1節では営団の沿革と事業を取り上げ、その設立から始まって閉鎖乃至は閉鎖後の処理までの経緯を明らかにし、続いて住宅建設の年度別計画戸数とその実績について検討している。第2節では団地・住戸計画を取り上げ、土地区画整理、一団の住宅地計画、一団地の住宅計画、近隣住区理論、型計画理論、計画理念と設計基準について考察すると共に、実際に計画建設された団地の設計事例と規格住宅について分析している。第3節は団地と住宅の変容であり、団地の街路・街廓・画地・広場等の現況調査を行い、建設時の図面と比較して戦後半世紀の変遷を分析し、また現存する旧営団住宅の増改築と住生活の分析を通して住様式の変容と存続について考察している。 第5章住宅営団の総論では設立の意義、事業の進捗、戦後への波及、近代住宅計画の展開の4つを取り上げている。設立の意義においては4つの住宅営団の沿革を明らかにするとともに、初の全国版国策住宅供給機関の誕生、同潤会の吸収、厚生省住宅課の存在確立、戦時政策、植民地文化政策について論じている。事業の進捗では各営団の事業計画とその実績を明らかにし、結果的には営団事業の目的が曲折され、計画が頓挫したことを検証している。戦後への波及では戦後GHQによって組織の断絶した日本と、自力継承した韓国の相違を論じるとともに、土地・住宅の払下がもたらした各国の現状について述べている。近代住宅計画の展開では平等主義から全体主義への近代理念の歪曲化、不特定多数の住宅を合理的に計画建設する型計画の確立と実践、500戸を基準とした近隣住区理論の導入、一般大衆を対象とした国民住宅の実現、土地区画整理・一団地の住宅経営・一団の住宅地経営という各営団の団地の開発方式の特徴について論じ、住宅史並びに建築計画上の評価・位置付けを行なっている。第6章[東アジア4国における居住空間の比較文化論的考察」では各論で明らかにした結果を基にして、先ず始めに海を渡った日本人は南の台湾、北の朝鮮・中国にいかなる居住空間をつくったかという「地域性」にみる比較を内地を含め考察し、[小住宅地の台湾・低密度大規模団地の満州、基準に近い日本・朝鮮]、[道路の広い中国、亭仔脚をもつ台湾、多様な手法の朝鮮]、[真北軸の台湾・華北、傾斜軸の日本・朝鮮]、[共同広場が核の日本・朝鮮・華北]、[標準住宅〜同潤会風の日本・内地風の朝鮮・ドイツ風の満州]、[規格住宅〜北も南も内地風]、[日本・朝鮮の中廊下型と台湾・中国の玄関広間型]、[地城性豊かな最小限住宅]という地域的特徴を実証している。 広大な土地をもつ満州は都市計画・型計画の一大実験場であり、そこで計画建設した国策住宅供給会社の団地並びに住宅は近隣住区理論・型計画理論をいち早く展開し、他の2ケ国並びに日本内地とは異なり、道路が広く、低密度の大規模団地、和洋折衷様式を用いたドイツ風の近代的なフラットルーフの3階建て煉瓦造アパートと、当時としては斬新的な提案がなされ、独自の特徴を示している。これに対して朝鮮半島に計画された団地と住宅は規模・土地利用率・傾斜する格子型のネットワーク・中空街区・街路構成・中廊下型・矩形平面・切妻屋根等内地に酷似した内容を示し、街路手法・一団の住宅地計画・土地区画整理・土地収用令・型計画の上でも多種多様の手法をとっており、まさに更地の大陸以上に日本内地の疑似実験場としての意味合いをもっていたのである。台湾はこうした実験場としての意味では中国・朝鮮とは明らかにことなる。小規模の低密度団地に伝統的な亭仔脚をもち、住宅は日本内地の伝統的な和風住宅をベースにした凸凹平面に寄棟屋根をのせた防暑住宅であり、その計画が中国・朝鮮・日本内地の組織的・科学的であることに較べると、台湾はいかにも個人的・経験的であった。 また次に戦後日本人から住み代わった韓国人・台湾人・中国人は日本時代の居住空間を半世紀の間にどのように変えたかという「国民性」にみる比較を日本を含め考察すると、[東西長形よりは南北長形の街区構成〜韓国」、[真四角の画地を短冊割り〜台湾]、[街廓の統合と画地の消滅〜中国]、[基盤構造の自立と住宅の更新〜日本]、[囲み庭マル中心型住宅への回帰〜韓国][前庭三間起型住宅への回帰と畳の導入〜台湾]、[近代庁型住宅への変容〜中国]、[北入り中廊下型住宅の定着普及〜日本]という各国の特質が上げられる。韓国と台湾が伝統へ回帰し、中国が近代へ変容し、日本がそのまま存続更新しているという居住様式の要因を考えるとき、その国の歴史性と政治性、また異国間同士の過去の歴史的政治的関係が深く関わっていることが実証的に理解できるのである。 以上。 |