内容要旨 | | 本論文は,核融合プラズマ閉じ込め研究において必要とされている,質量がわずか0.0256uしか離れていない一価のヘリウムイオン(4He+:4.0026u)と一価の重水素分子イオン(D2+:4.0282u)の質量ピーク強度を,ダイナミックレンジが104から105程度の実用レベルで分離測定することのできる四極子質量分析計について,その研究開発の成果をまとめたものである。核融合プラズマ閉じ込め研究は,太陽やその他の恒星のエネルギー源となっている,水素のヘリウムへの変換と同じ核融合反応を地球上で実現させることを目標としており,この核融合反応を地球上で実現させることに成功した暁には,人類はエネルギー不足の問題から永久に解放されることになる。核融合プラズマ閉じ込め研究において,当面の実現目標とされる重水素-トリチウム(D-T)反応は, と表され,D-T反応の結果,ヘリウム(4He)と中性子(n)が生成される。近年,核融合プラズマ閉じ込め研究のめざましい進展に伴い,このD-T反応を模擬して重水素プラズマ放電中のヘリウムの挙動を解明することが重要な研究課題となりつつあり,その研究のための実験においては,一価のヘリウムイオンと一価の重水素分子イオンの質量ピーク強度を,十分なダイナミックレンジで分離測定することのできる,高分解能の四極子質量分析計の開発が強く求められていた。しかしながら,従来の四極子質量分析計では,このヘリウムイオンと重水素分子イオンの質量ピークを十分なダイナミックレンジで分離することが困難であるとされていた。 四極子質量分析計は,真空容器に取り付ける測定子と,測定子を作動させるための制御電源で構成される。測定子内の四極子電極には直流と高周波を重ね合わせた電圧が印加されており,この直流と高周波電圧の値は従来から,いわゆるマシュー線図の第I安定領域から決められていた。マシュー線図は,四極子電界内のイオンの運動方程式(マシューの微分方程式で表される)の安定解条件を図示したものであり,四極子電極に入射したイオンが,安定軌道(軌道の最大振幅が時間的に有限値をとること)を有するための電圧条件を決めるもとになる。四極子質量分析計の分解能向上に関する研究としてはこれまで,マシュー線図の第I安定領域の電圧条件を用い,かつ,特殊な補助電極を付加した四極子電極を使ってヘリウムイオンと重水素分子イオンの質量ピークを分離した例,等が報告されているが,それらの研究では質量ピークの裾引きが大きく,ダイナミックレンジが不十分なものであった。 筆者は,四極子質量分析計の分解能向上技術に関する新たなアプローチとして,マシュー線図の第II安定領域を用いた方式を提案し,また,この方式の性能改善に関して,理論と実験の両面から研究を行った。その結果,ヘリウムイオンと重水素分子イオンの質量ピーク強度を,実用レベルのダイナミックレンジで分離測定することのできる四極子質量分析計を開発することに成功し,これを実用化した。本論文は,それらの研究開発の成果について述べたものであって全7章から成る。 第1章は「序論」であり,まず核融合プラズマ閉じ込め研究において,ヘリウム一価イオンと重水素分子一価イオンの質量ピーク強度を分離して測定することができる高分解能の質量分析計の必要性を述べ,その要求を満たすために本研究開発の対象とした四極子質量分析計の,マシューの微分方程式に基づく基本動作原理を述べている。次に,本研究による第II領域動作形四極子質量分析計の性能評価の指標として分解能,感度およびダイナミックレンジの3項目を掲げ,それらを改善するための方策について述べ,本研究の指針を明確にしている。 第2章は「四極子電界内のイオン軌道解析」と題し,まずマシュー線図の原点近傍の4安定領域(I,II,III,I’)を規定する解析法を述べている。次に,この4領域の条件で,安定なイオン軌道の最大振幅を差分法により求め,従来から使われている第Iの他に第II安定領域でも最大振幅が十分小さくなる条件があり,第II安定領域でも分析に必要な感度が得られることを指摘している。この結果に基づいて予備実験を行い,第II安定領域の条件でも質量スペクトルが得られることを実証している。この予備実験によって,第II安定領域では質量ピークの裾引きが第Iの場合より小さくなることを見出し,第II安定領域でヘリウムイオンと重水素分子イオンの分離に対し,十分な分解能を確保できる可能性があることを指摘している。 第3章は「四極子質量分析計の分解能向上」と題し,四極子質量分析計の特長である小型,軽量で高性能という点を最大限生かすべく,第II安定領域の電圧条件において高周波同調回路のトランス鉄心に小型のトロイダルコアを用いた制御電源を新たに試作開発し,その要となる高周波同調回路の設計原理を確立している。従来,四極子質量分析計の高周波同調回路のトランスには空心コイルが多く使われていたが,空心コイルは両端が開いているため外部電磁場の変動を拾いやすく,磁場閉じ込め式核融合装置のような環境下では厳重な電磁シールドが必要とされるという欠点を有していた。本研究では,コイルの両端が閉じているトロイダルコイルを採用することにより,この欠点を克服することができた。また,高周波電圧の周波数を高めることにより性能向上が図れることを示し,3.58MHzでヘリウムイオンと重水素イオンを104程度のダイナミックレンジで分離できることを実証している。 第4章は「第II安定領域における最適条件の検討」と題し,第II安定領域の下側頂点と上側頂点の両近傍のどちらが,分解能向上に適するかを明らかにする研究について述べている。第II安定領域は,ほぼ平行四辺形をしており,質量走査線が第II安定領域の下側頂点近傍,もしくは上側頂点近傍のどちらかを部分的に通過する条件で質量ピークの分解能が高まる。まず実験においては,質量走査線の傾きを広範囲に変えてヘリウムイオンと重水素分子イオンの分離測定時のダイナミックレンジを調べており,上側頂点近傍の方がダイナミックレンジが広く,分解能向上に適していることを見出している。また,上側頂点近傍の条件で周波数を4.9MHzにまで高めることにより,ヘリウムイオンと重水素分子イオンの分離測定時のダイナミックレンジを105程度まで改善できることを示している。さらに,実験で得られた質量ピークの形状を理論的に検討すべく,イオン透過率,すなわち,四極子電界へ入射したイオン数に対して通過したイオン数の比,を差分法で計算している。その結果,非安定軌道イオンの効果により,下側頂点よりも上側頂点近傍の方が分解能向上に適していることを理論面でも検証している。 第5章は「四極子質量分析計の端効果の検討」と題し,四極子電極の両端に生じる端部長が,本分析計の性能に及ぼす影響(端効果)を調べた。実験では,端部長を種々変えることができる四極子電極を試作して,ヘリウムイオンと重水素分子イオンの分離ピーク形状の変化を観察した。そして,ほぼ端部長が大きいほど分解能や感度が低下することが判明した。また,4章と同様の数値シミュレーションにより,端効果を考慮して第II安定領域の条件で差分法によりイオン透過率を計算し,実験結果と定性的に一致する結果を得た。さらに,端効果による性能低下を改善するための研究を行い,従来の第I安定領域で感度の向上に効果があるとされている補助電極が,第II安定領域でも効果があることをイオン軌道解析の計算で示した。この計算結果をもとに実験を行い,第II安定領域の電圧条件でも補助電極が感度向上に効果があることを検証している。 第6章は[第II領域動作形四極子質量分析計の応用研究]と題し,本分析計の応用研究として,まずヘリウムグロー放電洗浄時における黒鉛壁からの重水素分子の脱離量の測定,および重水素使用機器用ヘリウムリークディテクターへの適用について述べている。放電洗浄の実験においては,本分析計を用いてヘリウムや重水素のグロー放電前後のヘリウムと重水素の両方の分圧を測定し,その分圧の変化からヘリウムの方が重水素よりも壁への吸蔵量や壁からの脱離量がはるかに少ないことを実験的に示し,本分析計の適用性を確認している。また,ヘリウムリークディテクターへの適用実験においては,本分析計が重水素中のヘリウム標準リークからの微量ヘリウムを検出できることを示すとともに,ヘリウムリーク検出に関する本分析計の限界性能を向上させるための提案を述べている。さらに,四極子電極のセラミックス化について検討を行い,四極子電極の信頼性向上のために窒化珪素材の使用を検討している。 第7章は「結論」であって,本研究による四極子質量分析計の性能向上についての成果を要約するとともに今後,検討すべき事項を示している。 以上,本研究では,D-T核融合プラズマ閉じ込めの実験に必要とされている,一価のヘリウムイオンと一価の重水素分子イオンの質量ピークを十分なダイナミックレンジで分離が可能な質量分析計として,新たにマシュー線図の第II安定領域の上側頂点近傍の条件を採用した四極子質量分析計を提案し,その性能を理論的,実験的に評価し,応用研究を通してその実用性を確認することができた。 |