液晶は、表示素子として明らかな工業的重要性を占める一方、室温付近で多彩な中間相および相転移を示すことから、統計力学上の恰好のモデル物質として、広く研究されて来た。ところで、一般に物質の示すさまざまな秩序構造は、その次元性と本質的に関わっているが、従来の液晶研究はもっぱら3次元的な材料についてであって、2次元液晶に関する研究は殆ど行われてこなかった。 本論文は、理想的な二次元系である水面上単分子膜を対象として、2次元液晶のうちスメクティックC相を示すものを見出し、その分子配向秩序の静的および動的性質を研究したものであって、全7章よりなる。 第1章は序論であり、2次元的液晶相発現の舞台となる水面上の単分子膜の研究の歴史が簡単にまとめられており、その結果、これまで見出されてきた中間相はいずれも秩序度の高いヘキサティック的な相であったことが指摘されている。 第2章では、位置の秩序をもたない2次元スメクティックC液晶がもつ対称性を微視的モデルから一般的に議論し、これに基づいて現象論的弾性エネルギーの表式を導出している。ここで、水面上の単分子膜では、上下の非対称性により、分子の配向の発散成分から生じる電場(撓電効果)と水の表面分極との結合が弾性エネルギーに寄与することが示される。このような、配向の変形の1次に比例するようなエネルギーは2次元液晶特有のものであって、平均場近似で様々な縞状構造が安定であることが議論されている。 第3章は実験技術の解説である。まず、透明媒質上の異方性超薄膜の光反射率を、膜厚が十分に薄い近似で一般的に導出し、実験との対比を容易ならしめるようなパラメータ化を行っている。次に、単分子膜の反射偏光解析を行うための、水のブリュースター角で光を入射させるブリュースター角顕微鏡と、より垂直入射に近い反射型偏光顕微鏡のデザイン・製作および、前記一般式を用いた予想される顕微鏡像について議論している。特に、反射型偏光顕微鏡は、水面上の単分子膜を観察するために、偏向子と検光子が光軸を直交させたまま同時に回転できるようにしたものであって、この研究で初めて作製されたものである。最後に、分子位置秩序を直接に調べる方法として、シンクロトロン軌道放射光を用いた外部全反射X線回折法の実験装置およびデータ解析法が述べられている。 第4章では、アルキル基(炭素数n)とアルキル基(炭素数m)+カルボキシル基を両端にもつアゾベンゼン誘導体(nAZm)のうち、8AZ3および8AZ5の水面上単分子膜が、気相と固相の間に中間相を示し、反射偏光顕微鏡観察によって、長距離分子配向秩序と流動性を持ったスメクティックC的な振る舞いをすることを見出している。このような振る舞いが2次元液晶として認識されたのは本論文が最初である。さらに、これがスメクティックC液晶であることを確認するためX線回折実験を行い、中間相では位置の長距離秩序が無いことを確かめている。 第5章では、反射偏光顕微鏡によって分子配向の静的パターンを調べている。弾性エネルギーの中の変形の1次に比例する項のために、安定な縞状構造が見出される他に、高次の欠陥が比較的頻繁にあらわれること、縞状構造や欠陥の温度依存性など、観察結果が2章で展開された理論によって良く説明できることを示している。また、偏光反射強度の定量的な解析から、顕微鏡像と分子配向の関係を明らかにしている。 第6章は、動的パターン形成について議論している。アゾベンゼンは常温でトランス体が安定であるが短波長可視光を吸収してシス体へと光異性化することが知られている。本論文では、8AZ3に光照射したところ、ごくわずかのシス体が誘起される程度の微弱な光量で、等間隔な配向縞状構造から、ある分子配向の縞の部分のみが優勢になる不等間隔構造への転移が見られた。このとき選択される分子配向は入射光の偏光方向によって一意的に決定されることが見出された。シス体の混入が、撓電効果に摂動をもたらすとして2章で得られた弾性エネルギーに基づく数値計算をしたところ、実験を良く再現できることが示された。光照射をさらに続けると、分子の傾き角の変化が波状に膜面内を伝播することが見出されたが、光励起によるこのような動的パターン形成は他に例のないものである。 第7章は結論である。 以上要するに、本論文は単分子膜という2次元系において、スメクティックC液晶相を初めて同定し、有効な観察手段の開発から、解析法、解釈までを一貫した立場で行い、その静的および動的な分子秩序の構造形成を明らかにしたものであって、統計物理学のみならず表示素子などの工学的応用への道筋を示した寄与は大きい。 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |