学位論文要旨



No 213010
著者(漢字) 多辺,由佳
著者(英字)
著者(カナ) タベ,ユカ
標題(和) 水面上単分子膜における二次元スメクティックC液晶 : 静的及び動的挙動
標題(洋) Two-dimensional Smectic C-like Liquid Crystals in Langmuir Monolayers : Statics and Dynamics
報告番号 213010
報告番号 乙13010
学位授与日 1996.09.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13010号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮野,健次郎
 東京大学 教授 早川,禮之助
 東京大学 助教授 田中,肇
 東京大学 助教授 酒井,啓司
 東京大学 助教授 時弘,哲治
内容要旨 1 序論

 最近の液晶ディスプレイの発展には目覚ましいものがあるが、これらに使われているバルクのネマティックやスメクティック液晶は、100年以上の研究の歴史を持ち、これまで凝縮系の物理に様々な新しい様式を提供してきた。活発な三次元液晶研究に比べ、二次元液晶は、理論的な研究が先行しているものの、実験的にはあまり研究されていない。二次元液晶は、三次元系に比べて桁外れに大きいゆらぎやトポロジカルな欠陥が許されるといった、興味深い理論予測がある他、生体膜モデルとしても1つの理想系であり、これを現実化して物性を調べたいという動機のもとに、本研究を行った。

 二次元液晶を現実化するために、ラングミュア膜(以下L膜と略す)と呼ばれる水面上単分子膜を対象とした。ラングミュア膜は、理想的な二次元系として液晶と同じくらい古くから研究され、その多様な中間相の存在が特に注目されてきたが、最近、顕微鏡技術や放射光X線回折技術の進歩によって、この中間相の多くが、くずれた分子位置秩序と長距離配向秩序を持つ二次元ヘキサティック液晶であることが判明した。しかし、より液晶らしい液晶相、分子の並進秩序が完全に液体的で配向秩序だけを持つ液晶、二次元ネマティックや二次元スメクティックC液晶は、多くの研究者の探索にも関わらず、長く見つかっていなかった。その中で我々は、アゾベンゼン誘導体のL膜に、二次元スメクティックC液晶を見い出し、長距離配向秩序の存在と位置秩序が短距離的であることを、顕微鏡観察と放射光X線回折実験で初めて確認した。さらに、二次元性と柔らかい液晶性が反映された、三次元液晶にはない様々な静的・動的挙動を見い出した。

2アゾベンゼンL膜の静的物性2.1二次元スメクティックC液晶相の同定

 アゾベンゼン誘導体のL膜を反射型の偏光顕微鏡で観察すると、表面圧力の増化に伴い、気相、液晶相、固相の3つの相が観察され、そのうち中圧領域の液晶相では、図1に示すような、なだらかな明暗のコントラストを持った像が見られる。これは、膜の光学軸が水面法線に対して傾いており、その傾き方向が長距離にわたってそろっていること、すなわち分子傾きの長距離配向秩序の存在を明確に示している。図1の像は、三次元ネマティックやスメクティックC液晶に特有の、配向ベクトル(光学軸に平行な単位ベクトル)の連続的な空間変化が可視化された、シュリーレン組織と呼ばれる像ときわめて似ており、アゾベンゼンL膜の中間相が二次元スメクティックC液晶であることが示唆している。

図1:アゾベンゼン-ラングミュア膜の中間相の偏光顕微鏡写真

 像のコントラストの変化がなめらかで連続的であることからも、この液晶相が柔らかいこと、すなわち液体的な位置秩序を持つことがうかがえるが、それを決定するために、放射光を用いたX線回折実験を行った。図2にその結果を示す。図2(a)の分子専有面積-表面圧力曲線に見られるように、このアゾベンゼンL膜は室温では4mN/mの表面圧で、液晶相から固相へと相転移する。これに対応して、固相で見られる分子の面内結晶構造による回折ピークが、液晶相に転移すると同時に、消失する。この結果は、液晶相での分子位置秩序が短距離的であることをはっきりと示している。顕微鏡によるマクロな構造と放射光X線回折によるミクロな構造の観察から、アゾベンゼンL膜が、分子の傾き方向に関して長距離秩序を持ち、面内分子位置に関しては短距離秩序を持つ、二次元スメクティックC液晶であることが確認された。

図2:アゾベンゼンL膜の(a)分子占有面積-表面圧曲線(b)X線回折強度
2.2二次元液晶の静的パターン

 アゾベンゼン-ラングミュア膜の二次元液晶相では、二次元性を反映してバルクの液晶では見られない、様々なパターンが自発的に形成される。特に熱平衡状態で常に観測されるのが、図3(a)に示すような、縞状パターンである。反射偏光顕微鏡で検出される異方性薄膜からの反射光強度を、Maxwellの式を解いて解析すると、この縞構造に対して配向ベクトルは、縞を横切る方向に沿って連続的に面内回転しており、明線と灰色線の各2本ずつ1組で1回転する。(図3(a)の差込図)縞に沿った方向には、1mm以上の長距離にわたって配向ベクトルは同じ向きに並んでいる。

 配向ベクトルの規則的な変化による自発的な縞構造形成は、分子数層からなるスメクティックC液晶薄膜の中にいくつかの報告例がある。その起源は、配向歪によって液晶表面に励起された分極場(flexoelectricityと呼ばれる)と、界面分極とのカップリングとされ、次のように表される自由エネルギーの式から、説明される。

 

 nは配向ベクトル、Kはフランクの弾性定数、Wは分子の傾きに関する弾性定数、kは水面の法線方向の単位ベクトル、は水の分極場と液晶の配向歪による表面分極との結合定数である。初めの2つの項は弾性エネルギーを表わし、配向ベクトルの歪に対して正の値を持つが、対称性の破れた二次元系であるために残る第3項がマイナスの寄与をして、その結果、モジュレートされた状態のエネルギーが低くなる。

 アゾベンゼンL膜の二次元スメクティックC相では、他にも高次の点欠陥やスパイラルパターンといった、バルクの液晶では見られないパターン形成が頻繁に観察される。

3光照射下でのアゾベンゼンL膜における動的パターン3.1縞構造の非対称変形

 アゾベンゼン分子は、紫外領域に-*の吸収、400から500nmにn-*の吸収を持ち、これらの波長の光照射下で光異性化を起こすことで知られている。そこで、構成分子の光異性化によって、アゾベンゼン二次元液晶L膜のマクロな構造や性質がどう変わるかに注目した。

 励起光をあてない熱平衡状態のアゾベンゼンL膜では、配向ベクトルが連続的に回転して縞構造が形成される。(図3(a))これに異性化の励起波長の直線偏向光を、膜面に垂直に照射した時の、膜の縞構造の変化を図3(b)(c)に示す。励起照射光の偏向方向が縞に平行な時には(図3(b))、配向ベクトルが縞に平行で、かつ配向ベクトルの空間微分が負の領域が広げられ、配向ベクトルが縞に平行でも、その空間微分が正の領域は逆に押し縮められている。一方、照射光の偏向方向が縞に垂直な時は(図3(c))、広がる領域は、配向ベクトルが縞に平行でかつその空間微分が正の領域であり、それ以外の部分は縮められている。すなわち、光励起そのものは非極性であるにもかかわらず、アゾベンゼンL膜の光反応は、配向ベクトルの面内反転に対して非対称であった。

図3:直線偏向した励起光照射によるアゾベンゼンL膜の非対称変形(a)照射前(b)縞に平行な偏向光照射(c)縞に垂直な偏向光照射

 これについては、光照射時のシス体比率の増加により、膜の歪み誘起分極が摂動をうけ、これが水の表面分極場と結合した結果、極性を持った光応答が起こるのではないかと考えている。アゾベンゼン-ラングミュア膜の液晶相の自由エネルギーは、光の照射されていない基底状態では(1)式で表わされることを先に述べた。光異性化によってシス体が増えてくると、自由エネルギーは次のように書き換えられる。

 

 ここでcはシス体の比率を表わす。cは、基本的にはレート方程式に従い、定常状態では、膜の光吸収強度に比例した形になると考えられる。(2)式から導かれるオイラーラグランジェ方程式に、適当なパラメーターを入れて数値計算すると、縞構造の非対称変形はよく再現できる。(図3の差込図参照)

3.2波の発生と伝搬

 ほぼ1、2秒で縞構造の変形が完了した後も光を照射し続けると、劇的なダイナミクスが見られる。配向ベクトルの傾き角が時空間変化することによって生じる、配向波の伝搬が観測されるのである。

 縞構造が直線偏向光照射によって変形を受けた結果、比較的広い範囲にわたって、配向ベクトルが一様な領域ができる。この一様配向領域中に、分子が膜面に対して垂直方向に立ち上がったドメインが湧き出してきて、ある方向に伝搬するという挙動が、長い時には1時間以上も繰り返されるのである。ドメインは不規則に生じてきて、その伝搬の方向は、一様配向領域の境界条件と照射光の偏向方向とで決まっているように見え、約50m/sの速度を持つ。非常に興味深いことに、境界条件が同じ場合は、照射光の偏向方向を90度変えると、配向波の伝搬方向は反転する。

 連続波以外に、パルス波が単独で生じて伝搬する場合もある。この場合は、伝搬するドメインはティルト角の立ち上がりによるものではなく、配向ベクトルの方位角が回転してできている。孤立波の速度、及び伝搬方向と励起光の偏光方向依存性は配向波の場合と同様の傾向を示す。

 配向波・孤立波ともに、(2)式から導かれる時間依存型GLの式では、伝搬する波を記述することはできない。そのメカニズム、理論的解析は単純ではないと思われるが、波の伝搬方向と励起光の偏光方向との非対称性から、縞の非対称変形と起源は同じではないかと考えている。

4結び

 ラングミュア膜二次元液晶の、自発的なパターン形成は、系の対称性の破れに由来する一般性の高い現象であり、対称性を同じくする様々な対象で同様のパターンが今後も見られるであろう。また二次元液晶性と構成分子の光異性化反応が結び付いた動的パターンは、非平衡パターン形成のこれまでにない例として、単なるラングミュア膜の物性を超えた問題を提起しているように思われる。

 ラングミュア膜の二次元液晶は、本論文で述べた以外にも、揺らぎや流動配向などの物理現象、擬似生体膜といった観点からも、興味深い系である。今後、別の視点からもその物性を探っていければと考えている。

審査要旨

 液晶は、表示素子として明らかな工業的重要性を占める一方、室温付近で多彩な中間相および相転移を示すことから、統計力学上の恰好のモデル物質として、広く研究されて来た。ところで、一般に物質の示すさまざまな秩序構造は、その次元性と本質的に関わっているが、従来の液晶研究はもっぱら3次元的な材料についてであって、2次元液晶に関する研究は殆ど行われてこなかった。

 本論文は、理想的な二次元系である水面上単分子膜を対象として、2次元液晶のうちスメクティックC相を示すものを見出し、その分子配向秩序の静的および動的性質を研究したものであって、全7章よりなる。

 第1章は序論であり、2次元的液晶相発現の舞台となる水面上の単分子膜の研究の歴史が簡単にまとめられており、その結果、これまで見出されてきた中間相はいずれも秩序度の高いヘキサティック的な相であったことが指摘されている。

 第2章では、位置の秩序をもたない2次元スメクティックC液晶がもつ対称性を微視的モデルから一般的に議論し、これに基づいて現象論的弾性エネルギーの表式を導出している。ここで、水面上の単分子膜では、上下の非対称性により、分子の配向の発散成分から生じる電場(撓電効果)と水の表面分極との結合が弾性エネルギーに寄与することが示される。このような、配向の変形の1次に比例するようなエネルギーは2次元液晶特有のものであって、平均場近似で様々な縞状構造が安定であることが議論されている。

 第3章は実験技術の解説である。まず、透明媒質上の異方性超薄膜の光反射率を、膜厚が十分に薄い近似で一般的に導出し、実験との対比を容易ならしめるようなパラメータ化を行っている。次に、単分子膜の反射偏光解析を行うための、水のブリュースター角で光を入射させるブリュースター角顕微鏡と、より垂直入射に近い反射型偏光顕微鏡のデザイン・製作および、前記一般式を用いた予想される顕微鏡像について議論している。特に、反射型偏光顕微鏡は、水面上の単分子膜を観察するために、偏向子と検光子が光軸を直交させたまま同時に回転できるようにしたものであって、この研究で初めて作製されたものである。最後に、分子位置秩序を直接に調べる方法として、シンクロトロン軌道放射光を用いた外部全反射X線回折法の実験装置およびデータ解析法が述べられている。

 第4章では、アルキル基(炭素数n)とアルキル基(炭素数m)+カルボキシル基を両端にもつアゾベンゼン誘導体(nAZm)のうち、8AZ3および8AZ5の水面上単分子膜が、気相と固相の間に中間相を示し、反射偏光顕微鏡観察によって、長距離分子配向秩序と流動性を持ったスメクティックC的な振る舞いをすることを見出している。このような振る舞いが2次元液晶として認識されたのは本論文が最初である。さらに、これがスメクティックC液晶であることを確認するためX線回折実験を行い、中間相では位置の長距離秩序が無いことを確かめている。

 第5章では、反射偏光顕微鏡によって分子配向の静的パターンを調べている。弾性エネルギーの中の変形の1次に比例する項のために、安定な縞状構造が見出される他に、高次の欠陥が比較的頻繁にあらわれること、縞状構造や欠陥の温度依存性など、観察結果が2章で展開された理論によって良く説明できることを示している。また、偏光反射強度の定量的な解析から、顕微鏡像と分子配向の関係を明らかにしている。

 第6章は、動的パターン形成について議論している。アゾベンゼンは常温でトランス体が安定であるが短波長可視光を吸収してシス体へと光異性化することが知られている。本論文では、8AZ3に光照射したところ、ごくわずかのシス体が誘起される程度の微弱な光量で、等間隔な配向縞状構造から、ある分子配向の縞の部分のみが優勢になる不等間隔構造への転移が見られた。このとき選択される分子配向は入射光の偏光方向によって一意的に決定されることが見出された。シス体の混入が、撓電効果に摂動をもたらすとして2章で得られた弾性エネルギーに基づく数値計算をしたところ、実験を良く再現できることが示された。光照射をさらに続けると、分子の傾き角の変化が波状に膜面内を伝播することが見出されたが、光励起によるこのような動的パターン形成は他に例のないものである。

 第7章は結論である。

 以上要するに、本論文は単分子膜という2次元系において、スメクティックC液晶相を初めて同定し、有効な観察手段の開発から、解析法、解釈までを一貫した立場で行い、その静的および動的な分子秩序の構造形成を明らかにしたものであって、統計物理学のみならず表示素子などの工学的応用への道筋を示した寄与は大きい。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク