学位論文要旨



No 213012
著者(漢字) 浅井,圭介
著者(英字)
著者(カナ) アサイ,ケイスケ
標題(和) 湿式プロセスで形成された有機薄膜の特性とそのエレクトロニクスへの応用性
標題(洋) Characteristics of organic thin films prepared by wet processes and their applicability to electronics
報告番号 213012
報告番号 乙13012
学位授与日 1996.09.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13012号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石榑,顕吉
 東京大学 教授 中澤,正治
 東京大学 教授 田中,知
 東京大学 教授 勝村,庸介
 東京大学 助教授 寺井,隆幸
内容要旨

 有機分子の配列を、低次元構造体中で思い通りに制御し、個々の分子が持ち得ない機能を発現させるという試みは、幅広い分野の研究者の関心を引き続け、現在では学際的な研究テーマとしての拡がりを呈している。この機能発現を現実のものとするには、有機物の特性を鑑みた、高度な製膜技術の確立が必要である。特に、有機物の低耐熱性を考慮すると、無機物の製膜において多用される、蒸着やスパッタリングのような高エネルギー過程を伴う乾式プロセスの採用には、慎重にならざるを得ない。なぜなら、このプロセスは、膜形成物質としての有機物に熱的損傷を与える可能性が高いからである。この損傷発生は、湿式製膜プロセスを用いることによって、ほぼ完全に回避できると考えられる。筆者は、この利点を活かして湿式法による超薄膜形成を行い、上記目標の達成の為の礎とすべく、低次元構造体中の有機物が示す基礎物性の評価を行ってきた。本研究では、以下の三点に着目した。

 (1)薄膜中の分子の配向性及び集合形態と、その分子の化学的反応性との関係

 (2)半導体の表面(界面)電子状態制御法としての配向分子薄膜の適用可能性

 (3)空間を制御した物質合成場としての、有機積層超薄膜の応用性

 これら三項目の探究に適した実験系を、産業上有用な技術との関連性と、他の研究分野への波及効果を考慮しながら、次のように選択した。

 (1)の項目では、シアニン色素を採用した。この色素は会合体(J会合体と呼ばれる)形成能を有する。この性質を利用し、二次元単分子膜積層構造体(Langmuir-Blodgett膜)中で、分子の配向と集合形態を様々に変化させた系を作製した。そして、この形態と分子の気固界面での化学的反応性との相関を、放射線照射効果を基に探究した。また、高エネルギーイオン照射中の、色素からの発光強度の減衰を調べて、イオンによる損傷の断面積を見積もり、これを基に会合体中の電子的励起状態の拡散挙動を考察した。

 (2)の項目では、反応性の高い硫黄を末端基にもつ両親媒性分子を、GaAs基板上への薄膜形成に用いた。通常、GaAs表面には、高密度の表面準位が存在し、これがFermi levelのpinningを引き起こしている。本研究では、このGaAsの表面を、配向した上記分子の末端基でpassivationすることによって、Fermi levelのpinningを解消し、さらに結果的に生ずる超薄絶縁膜でGaAS表面を覆うことを試みた。これによって、GaAsにおけるMIS(金属-絶縁体-半導体)構造作製にむけての技術的貢献をめざした。

 (3)の項目では、長鎖脂肪酸のLangmuir-Blodgett(L.B.)膜を選んだ。この構造体は、非常に均一な二次元分子配列構造をもち、層間には分子スケールの規則性を保った間隙を有することが知られている。この間隙を反応場として利用し、半導体(CdS)の超微粒子を成長させた。通常、半導体超微粒子においては、(その高いS/V比ゆえに)bandgap中の表面準位によるcarrierのtrappingが、バンド端発光を阻害する。本研究では、この表面準位の密度低減をめざして、作製したCdS超微粒子に高エネルギーイオン照射を行い、バンド端発光の量子効率の向上を試みた。以下に、I〜IVの四題目の下に本研究における成果を記す。

I) 「L.B.膜中に取り込まれたシアニン色素分子集合体への電離放射線照射効果」

 Figure1に示す構造をもつL.B.膜を作製し試料とした。この試料にAr中で線及び電子線(2.2MeV)照射を行った。このときの、試料の紫外・可視吸収スペクトル(Fig.2)及び赤外線吸収スペクトルの変化から、照射によってシアニン色素の発色団としてのメチン鎖の電子系が非共役化されることが判明した。また、この変化が、放射線による色素分子への直接効果ではなく、主としてArの放射線分解生成物による間接効果であることが示された。さらに、色素の非共役化率の線量率依存性から、この間接効果を引き起こす化学種がArカチオンである可能性が高いことが示唆された。

 L.B.法で作製された試料は、シアニン色素J会合体と単量体との混合系を成している。この系に、ある種の酸・塩基処理を施し、J会合体、単量体各々単独の状態を作り出すことに成功した。これが、吸収スペクトル(Fig.1)測定に基いた、L.B.膜中のJ会合体と単量体との各面密度の分離算出を可能にした。この算出法を用い、上記試料へのAr中での線及び電子線(2.2MeV)照射時のJ会合体、単量体の各面密度の変化を詳細に調べた。その結果、J会合体面密度は、単一成分の指数関数的減少を示すのに対し、単量体面密度は、多成分の指数関数的減少を示すことが明らかになった(Fig.3)。この現象を、両状態間における分子配列構造の差異から生ずる、局所的な誘電特性の相違に着目して説明した。また、J会合体の更なる凝集構造である、超会合構造体を蛍光顕微鏡で系統的に観察し、この構造体の形態とJ会合体中の色素分子の非共役化効率との相関を調べた。その結果、この超会合構造体が島状に小さく結晶化して全体として離散構造を示すようになる(即ち、超会合構造体周縁部の色素密度が高くなる)と、上記の効率が増大することが分かった。この現象を、J会合体中の色素の非共役化が主として超会合構造体の周縁部で起こるという実験事実と「Arカチオンとの反応によって色素分子中に残されるホールの存在とそのJ会合体での移動」を仮定したモデルに立脚して説明した。

Fig.1.The structure of the sample composed of two S120 monolayers over single arachidic acid(AA)monolayer on both sides of the substrates.Fig.2.Changes in absorption spectra observed on an S120 LB film with the absorbed dose of gamma rays in Ar atmosphere.The absorbed doses were 4.5,9.0,and 13.5kGy at a dose rate of 4.5 kGy/hr along the direction of the arrows from the tail to the head of each arrow in the figure.Fig.3.Changes in CJ,CM and J-ratio with the irradiation time of gamma-rays.
II) 「L.B.膜中のシアニン色素J会合体からの高エネルギーイオン誘起発光」

 上記(I)と同様にシアニン色素L.B.膜を作製し、この試料に、2MeVのH+及びHe+を照射したときのJ会合体からの発光をFig.4に示した装置によって観測した。この発光のスペクトル(Fig.5)中には、よく知られたJ会合体からのエキシトン発光帯(図中のJ)に加えて、これまでに報告されたことのない新しい発光帯が観測された。この新発光帯においては、J会合体からのエキシトン発光帯においてよりも、線量の増加に伴う発光強度の減衰が速いことが分かった。さらに、線量の関数としての、発光強度の積分(Fig.6)から、この二つの発光帯各々について、発光イールドに基づいた損傷断面積を計算した。この計算値より、H+はHe+より効率的に発光強度を減少させることを見出した。このメカニズムを、「照射によって生成された非発光再結合中心へ、電子的励起状態が拡散していく」ことを仮定したモデルを用いて、説明した。

Fig.4.Schematic representation of the in-situ observation set-up geometry of the ion-induced emissions.Fig.5.〓Fig.6.〓
III)「反応性の高い硫黄を含有する有機分子の電界析出によるGaAs表面の電子的passivation」

 Figure7に示す手法で、あらかじめ酸化被膜を除去したGaAs上に、(図中に示された構造をもつ)sodium dioctadecyldithiocarbamate(DODTC)を電界析出させた。Photoluminescence(PL)測定の結果(Fig.8)DODTC処理によって、GaAsからのPL強度が増大することが分かった。これは、この処理が、GaAs中のcarrierの表面再結合速度を低減させることを示す。また、Raman散乱の測定結果(Fig.9)から、同処理がGaAsの表面空乏層幅を減少させることが判明した。さらに、x-ray photoelectron spectroscopy測定の結果(Fig.10)より、DODTC末端の硫黄は、GaAsとのcontactにおいて、主としてAsとの化学結合を形成することが明らかになった。これら一連の結果によって、DODTC電着膜は、化学的作用を通して、GaAs表面でのFermi levelのpinning強度を低減させることが示された。

Fig.7.Schematic diagram of the electrodeposition of DODTC layers onto GaAs. DODTC molecule in a dissociated state,[CH3(CH2)17]2NCSS-,is deposited with its one endcarrying S- and S in contact with the surface of the bare GaAs.Fig.8.Room-temperature photoluminescence spectra taken from the same wafer;(A)DODTC treated and (B)untreated.Fig.9.Raman seattering spectra of (100) GaAs substrates:(A)after DODTC treatment and(B)after etching.The peaks labd L- and LO corrcspond to signals from the bulk and the depletion layer,respectively.The intensity has been normalized to L-.Fig.10.As 3d core-level spectra (XPS) of GaAs (100).The solid line depicts the spectrum taken on the sample onto which DODTC was electrodeposited from ethanol solution.The dotted lines show the results of the curve fitting to the solid line.The lines labeled 1-4 refer to the following:peak 1,As5/2;peak 2,As3/2;peak 3,As0(elemental As)5/2,and peak 4,As3/2,respectively.Peaks 5 and 6 indieated by the arrows are closely related to the chemical interaction beween 5 of DODTC and As of the substrate.The deshed line shows the synthexized spectrs using the spectra from 1-6.
IV)「L.B.膜中のサイズ量子化された半導体超微粒子へのイオン照射による電子状態変化」

 L.B.膜を構成するcadmium arachidateをH2Sと反応させることにより、CdS超微粒子を膜中に形成させることに成功した。さらに、この反応中の温度調節により、微粒子の粒径制御が可能であることを示した(Fig.11)。こうして作製した試料に、1MeVのH+を照射して、イオン誘起発光測定を行った。Fig.4に示された装置によって得られた定常発光スペクトルから、このイオン照射が、CdS超微粒子のbandgap中に存在する準位(一例としてFig.12中のA)を、非常に浅い準位(Fig.12中にCと記されたsulfur-related defect)を残して殆ど除去し、バンド端発光の量子効率を著しく向上させることが明らかになった。さらに、Fig.13に示された装置によって行われた、このイオン誘起発光の時間分解測定結果から、定常スペクトルで見られた深い準位からの発光(Fig.14中、510nm及び600nmと表示されたもの)が、donor-acceptor発光に起因するものであることが示された。また、PL測定結果から、高エネルギーイオン照射後のCdSの酸化過程において、sulfur-related defectの安定化と、Cd0の生成とが起きることが推測された。さらに、光酸化が可能な条件下での、sulfur-related defectとCd0の共存が、CdSの再生成とsulfur vacancyの形成につながることが示唆された。

Fig.11.Absorption spectra of CdS fine particles prepared at()room temperature and()80℃.Arrows indicate the inflection points defined as absorption thresholds in the text.Fig.12.Ion(H+,1 MeV)-induced emission spectra of CdS particles prepared at room temperature.The beam current density was12.7nA/cm2.The measurement was carried out during the irradiation at (c)150-200s,(d)600-650s,and(e)850-900 a counted from the start of the irradiation.Fig.13.Schematic representation of the in-situ observation for obtaining the time-resolved profile of the ion-induced emission.Fig.14.Ion(H+,1MeV)-induced emission decays at cm=430nm,510nm,and 600nm obtained at room temperature from CdS particles prepared at 80℃.
審査要旨

 有機分子の配列を分子レベルで制御し、個々の分子では持ち得ない機能を発現させる試みは新しい機能性材料開発の手法として注目を集め、最近活発な研究が進められている。本論文は主としてラングミュア・ブロジェット(LB)法を用いて両親媒性有機分子膜を種々の基板上に作製し、これに電子やイオンビームの照射を行なって、膜物質の反応挙動や発光挙動などを追跡し、有機薄膜の構造と反応性の関係やその界面電子状態について検討したもので、6章から構成されている。

 第1章は序論であり、本研究の意義について述べた後、分子配列を制御しながら薄膜を創製する手法として乾式法と湿式法が考えられるが、有機物を対象とする場合は熱的損傷を回避できる点で湿式法がすぐれており、とりわけLB法は二次元単分子膜を積層して、分子の配向と集合状態を変化させることができる特徴があるとして、本研究においては主として本手法を製膜法として用いることが述べられている。

 第2章ではLB法によって石英基板上に積層されたシアニン色素S12O分子集合体のAr雰囲気中でのガンマ線及び電子線照射効果について検討している。シアニン色素はLB膜中で一部J会合体を形成し島状に小さく結晶化したドメイン部分と非会合部会からなることを蛍光顕微鏡観察によって明らかにし、放射線照射によるシアニン色素の分解挙動がドメイン構造の分布により大きく変化することを示している。更に反応挙動の解析からシアニン色素の分解は主として照射によって気相中に生成するAr+イオンの攻撃によるものと推定し、Ar+イオンとの反応によって色素分子中に残されたホールがJ会合体中を移動して、ドメイン周縁部で色素の分解に寄与するとするモデルを提案している。

 第3章ではLB法によりシリコン基板上に積層したシアニン色素J会合体に2MeVのH+及びHe+イオンを照射したときに誘起される発光の測定を行なって、発光スペクトル中に従来から光励起の場合に見られるエキシトン発光帯に加えて、690nm近傍に新しい発光帯が観測されることを示し、発光強度の照射に伴う減衰からH+とHe+イオンに対して損傷断面積を計算して、コードによって計算した両イオンのLET値との比較から、H+イオンはHe+イオンより効率的に発光強度を減少させるとし、照射によって生成されたトラップサイトへ電子励起状態が拡散していくことを仮定したモデルを用いて実験結果を説明している。

 第4章では、GaAsにおけるMIS構造作製を目ざして、あらかじめ酸化被膜を除去したGaAs基板上に、表面末結合手の処理と絶縁層の形成を目的として、ジオクタデシルジチオカルバミン酸ナトリウム(DODTC)を電解析出させ薄膜を形成することを試み、その手法の確立に成功している。この基板-膜系のX線光電子分光測定からDODTC末端の硫黄は主としてAsと化学結合を形成していることを示し、光ルミネッセンスとラマン散乱の測定結果から、DODTCの電着処理はGaAs中のキャリアーの表面再結合速度を低減させ、その表面空乏層の幅を低下させる効果があることを示している。

 第5章ではLB法により積層したアラキン酸カドミウムを硫化水素と反応させ、膜中にCdS超微粒子を形成させ、反応温度を変化させることによって粒径制御が可能であることを示している。このCdS超微粒子に1MeVのH+イオンの照射を行なって、誘起される発光の測定から、イオン照射とともにバンド端発光の量子効率が著しく増大することを示し、バンドギャップ中の準位が、イオン照射によって極く浅いものを除いて除去されるとしている。また発光の時間分解測定から発光帯の同定を行ない、光ルミネッセンス測定の結果と合わせて、イオン照射後のCdSの反応過程において硫黄に由来する欠陥の安定化とCdの生成が起っているものと推定している。

 第6章は総括であり、本研究のまとめを行なっている。

 以上を要するに、本論文は主としてLB法を用いて形成された有機薄膜系にビーム照射等を行なって、その構造と電子物性に関する種々の知見を得、分子レベルで構造制御された分子薄膜の機能性材料開発への有用性を示したものであり、システム量子工学の分野とくにエネルギー量子工学に寄与するところが少なくないと判断される。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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